桜色の戻れない日々

シャルロット

桜色の戻れない日々(ディアデイズ)

 ごちそうさまでした、と小さく言いながら私はスプーンを置いた。こつり、と木製のテーブルが音を立てる。向かいに座っていた広樹は既に食べ終わったようで、ほとんど空になったお冷のグラスを傾けながら、横目でちらりと盗み見るようにして斜め前のテーブルにいるカップルを眺めている。グラスの中で氷がからんと崩れた。私は何となくもう一度スプーンを手に取ると、お皿に残っていたケチャップを掬ってなめた。トマトがよく利いているのか少し酸っぱい。


「今日のケチャップ、前より酸っぱくなかった?昔はもっと甘かった気がするんだけど」


いつの間にか顔を戻していた広樹が小声で尋ねる。どうして私が考えていることが分かったんだろうと驚いていると、広樹はいつものように柔らかく笑いながら


「酸っぱそうな顔してたよ」


と言った。驚いていたことすらお見通しらしい。広樹はいつでもそうだ。私の考えていることを何も言わないのに分かってくれる。超能力でも使って透視しているんじゃないかと半ば本気で信じたくらいだ。そしてそれだけ私のことを見ててくれているんだ、って思っていつも嬉しかった。それだけでも広樹は私にとって最高の彼氏だった。


「うん、私もそう思っていたの」


「今日だけなのかな。それともしばらく来ない間に味付け変わっちゃったのかな」


広樹がぼんやり呟いたその言葉に私は思わず聞いてしまう。


「え、最近ここのお店に来てなかったの?」


すると今度は広樹の方が不思議そうな顔をする。


「そうだけど……どうしてそんなに驚いてるの?」


「だって、ここ大学から近いし、アフターとかで行く機会あったと思うから。新歓でもよく使ってたし」


広樹は、私の言葉にちょっと困ったような表情をしてみせた。慎重に言葉を選んでいるときの顔。昔からちっとも変わってない。


「確かにそうなんだけどさ。何ていうか、行く気にならなくて。ましてや一人で行こうなんて思えなかったし」


「そっか」


半分予想していた答え。そしてその答えを聞いてどうしても嬉しくなってしまう気持ちを抑えられない自分。二人で行った思い出を大事にしてくれているんだね。でもその喜びは私の心の中だけにしまっておこう。大事なものを、自分だけの宝箱にそっと仕舞うような気分で。


「偶には行ってみたらどう?サークルの人と行ったらまた気分も違うかもしれないし」


私は平静を装ってそう言った。広樹は一瞬何か言いたげな表情をしたけれど、一度口を閉じ結局


「そうかもね」


という一言だけ返した。グラスの中の氷が、からんと音を立ててまた崩れた。オレンジ色のライトを受けて、白いお皿が少し色褪せて光っている。何もかも変わらないな、と私は思う。このお店も、広樹と一緒にいるときの包まれるようなこの安心感も。お店の人が水差しを持ってすっとテーブルに近づいてくる。広樹のグラスに水を注ぎ、私のグラスにも入れようとしてくれたが、私は小さく首を振って断った。


「最近はどんな感じ?」


広樹は早速もらった水を飲んでから私に聞いた。


「うん、あんまり変わりないよ。二年目だから大きな変化もないし。そうだな、新しく入ってきた子たちを見て若いなって思うくらい」


「おい、美桜だってまだまだ若いだろ?そんなおばあちゃんみたいに」


「いやそんな気分にもなるって。社会人なった実感なんて今でも湧かないのに、学生だったのはもう一年も……前のことなんて」


一年、という言葉に心なしか詰まってしまう。でも広樹はそれに気づかなかったように、そんなもんかあ、と返してくれた。


「まあ今でも学生やってる僕からは、何も言えないけどな」


「どう?六回目の京都の春は」


「それこそ六回目なんて変わんないさ。違うことといえば、忙しいからあんまりサークルにも顔出せてないことくらいかな」


私はちょっとからかってみようと思って


「かわいい新入生とか入りそうなのー?」


と聞いてみた。でもその声が思った以上に野次馬根性丸出し、みたいな声になって一人へこんでしまう。そんな声が出たことに、じゃない。そんな声でも出さなければ聞けない、ということに。


「可愛い子はまあ来るよ。もともと大所帯のサークルだし、あれだけ毎年たくさんの新入生が入ってくれば一人か二人は好みの雰囲気の子はいるかな」


「今でも髪の長い子が好きなの?」


私が重ねて質問すると、広樹はちょっとばつが悪そうにニヤッとしながら答えた。


「いやその認識も随分前に改めたよ。美桜はショートヘアもよく似合ってたからね」


一瞬息が止まってしまう。いろんな場面が蘇ってきそうになるのを無理やり押し込めて、


「また私もロングにしたんだよ」


と答えてみた。


「そうそう」


と広樹が少し前のめりになる。


「今日来たとき、美桜がポニーテールにしててびっくりしたんだよ。ずっとストレートにカチューシャしてて、それが大学時代のトレードマークみたいなところあっただろ?」


「もともと大学生でカチューシャは子どもっぽいというか、若干あざといって思ってたんだけどね」


そう答える私の声には若干の不満が混ざる。それを感じ取ったのか広樹は苦笑いしながら


「僕がその髪型が好きだって言ったから、僕と会うときだけはいつもそうしてくれてたもんな」


と言った。それにこたえる私の声は自然と小さくなってしまう。


「でも私にはカチューシャが似合うって言ってくれたの、本当は嬉しかったんだよ」


そう、会いに行く度カチューシャ選びに一番時間をかけちゃうほどに。でもさすがにずっと同じ髪型、同じ装いでいるのもなと思って途中でばっさり切ったのだ。


「やっぱり私にはショートは似合わなかったかな」


知らず知らずの内に質問するみたいに語尾が上がってしまう。すると広樹は少し逡巡した後、身を乗り出して私の頭をぽんぽんと撫でてくれた。


「あのときも言ったけど、ショートの美桜は本当に可愛かったよ。僕の想像をずっと超えてよく似合ってたんだから」


その言葉も声も頭を撫でる仕草も、どうしようもなく懐かしくて胸が苦しい。あの時と変わらない距離感が愛おしくて。何もかも変わらないのに、ただ時間だけが過ぎ去っている。




 広樹がお店の時計を見やる。


「もう二時間近くここにいるのか」


「注文してから料理が出てくるまで、ちょっと時間かかったもんね」


「それもここの特徴っていうか、変わってないよな」


少し懐かしそうに広樹が答える。


「そろそろ出るか」


「うん」


私はコートも鞄もほっておいたままで真っ先に伝票に手を伸ばした。でも広樹も手を出したのが同時だった。


「美桜?」


いたずらっぽく広樹が笑う。しまった、また私の考えていることがお見通しだったらしい。


「だって私社会人だよ?」


広樹は何も言っていないけど自然と「だって」がついてしまった。


「だからといって女の子に払ってもらう訳にはいかないからね。せめて自分の分くらい自分で払うよ」


「いいじゃない。私の方がお金もちなんだから。一回ぐらい奢ってあげるって」


「だめだめ、それじゃ僕の立場がないからね。その代わり僕が奢ってはあげられないからさ」


「もうっ」


別に大した値段というわけでもないし全然構わないのだけど、こういうところ広樹は律儀だった。そしてそういう律儀さは何となく私を寂しくさせる。どんなに近づいていこうとしても、最後の最後で広樹は私のことをはねつけているような、そんな気がしてしまう。心を閉ざしたまま考えていることを決して見せないで自分の中に留めてしまう。そして自分の中だけで結論を出してしまうような、そんな感じが。


 そう、広樹がそういう性格でなければ、もっと適当で人にも簡単に寄りかかるような性格の人だったなら、一年前のあの日、私たちはもっと別の道を選んでいたかもしれないのに。


 さすがに四月だけあって夜も随分暖かくなったけれど、それでもまだコートなしで歩くには厳しい温度だった。特に今日は風が強くて、正直マフラーと手袋をつけて歩きたいくらいだ。だいぶ傷んでいる広樹のコートは私と付き合い始めたころからずっと同じ物だった。


「そろそろ新しいコートとか買ったら?お金ないわけじゃないんでしょ」


「え?ああ……確かにそうだね。もう結構だめになってるし」


「本当に服装のことは関心ないよね、昔から」


「まあね。別に服に気をつけなきゃって思う人も周りにいなくなったしね」


「いや、そういうことじゃなくて……」


そこで会話がとまってしまう。その沈黙が居心地悪くて私は思わず何か別の話題を探そうとする。そんなこと昔は思わなかった。話し始めればずっとでも話をしているし、話題はどんどん変わっていくのに二人とも話すことに飽きなくて。ふと静かになればそっと広樹が私の手を握ってくれた。でも今はもう、その手も遠い。触れられないほどに遠い。


 こんなに傍にいるのにね。


 広樹は手をポケットに突っ込んだまま私の半歩先を歩いていく。私は隣に並べなくて、小さなその距離を保ったまま歩きなれた道を歩いていく。通り過ぎる車の音。見慣れたお店の看板。反対側の歩道を騒ぎながら歩く大学生の集団。どれもこれも楽しそうで、そしてあの頃は私たちもその楽しげな雰囲気をきっと纏っていたのだろう。時間は、戻らない。


「電車で帰る?」


広樹が尋ねてきた声に顔を上げると、地下に降りる駅の階段が目の前にあった。もう着いちゃったんだ。まだ何も話せてないのに。まだ何も聞けていないのに。


「ごめん……もう少し歩いてもいい?次の駅まで」


何も言わずに広樹は頷いた。左に折れて川沿いの道を歩いていく。川とは反対側の歩道を進みながら、私は必死にかける言葉を探していた。でも声に出そうと口を開けば、その言葉たちはあぶくのように消えていってしまう。どうしていいかわからず、少し前を歩く広樹の横顔を見上げる。


「広樹……」


心の中で小さく呟いた。広樹は立ち止まって私を振り返る。そこでようやく、私は彼の名前を口に出して呟いていたことに気がついた。


「どうしたの?」


「う、ううん。何でもないの。ちょっと……呼んでみたくなっただけだから」


広樹はもう一度少し困った顔をした。ああ、また困らせてしまったのか。


「変わらないよな」


誰に言うともなく広樹が呟いた。


「うん」


私もその言葉にそっと頷く。私たちはまたゆっくりと歩き出す。会話はそれから後に続いていかなかった。でもこのままじゃ何も聞けないままになってしまう。私一人が焦っていて、耳には二人の足音だけが不釣り合いに大きく響いてくる。脈絡も何もないけれど、私はどうしても聞きたかった質問をそっと広樹にぶつけてみた。


「ねえ、広樹は幸せに過ごしてる?」


言うと決めたはずだったのに、まるで思わず口をついて出てきたかのように頼りない声。広樹は顔を背けて


「さあ、どうなのかな」


と答える。一瞬の沈黙。そして不意に広樹は振り返って私に訊いた。


「美桜は幸せ?」


私は間髪いれずに返事をする。


「もちろん。私は大丈夫だよ」


一番上手な笑顔を広樹に向けながら、私は力強く答える。これだけは、この言葉だけはずっと用意してきたから。例えどんなに苦しくても笑顔で返せるくらい、ずっと準備してきた言葉だから。


 だって言えないじゃない。大丈夫じゃない、なんて。


 そして私は聞こうきこうと思いながら怖くて聞けなかった一つの質問をようやく口に出した。


「広樹は?新しい彼女出来たの?」


隣で息をのむ声が聞こえた。広樹の眼を見ていられなくて、私は彼の向こうに見える車のテールランプを凝視する。答えない広樹に、私はさらにおどけた口調で畳みかけた。


「さすがの広樹でも一年で新しい女の子は見つからない?それとも、もう目星はつけてるの?」


何か答えてよ。心の中で広樹に叫んでいるのが分かる。顔だけは能面のように出来上がった笑顔を張り付けたまま、私は返事を待った。永遠かと思うほど長くて居心地の悪い時間。悪夢のような数秒間。本当は聞きたくなんかないのに、純粋な興味だけで質問しているかのように装っている私はきっと周りから見たらひどく滑稽なのだろう。


「あのさ、美桜」


ようやく口を開いた広樹は、しかしすごく怒りが滲んでいた。


「美桜には、美桜にだけは聞かれたくなかった」


静かな、でもそれは確かに私を非難する言い方だった。


「ごめん……」


さっきまでの嘯いたような雰囲気はどこへ行ったのか、私は傷ついたのを隠すこともできずに謝った。そうだよね、もう一年も経つんだもの、新しい彼女くらい居るのよね。でもそんなの私には一番答えづらいことくらい分かりきっていたのに、どうして聞いたりしたのだろう。


「そうだよね、私が聞いちゃいけないよね……」


広樹が何か言いたそうな雰囲気を出したのを、私は被せるようにして強引に黙らせる。


「今日はごめんね、忙しいのに私のために時間作ってもらっちゃって。大丈夫、もうこんなことしないから。二人で会うのは今日で最後にしよ。だから見送るのも、入口のところまでで良いよ」


もう十数メートル先に駅への階段が見えている。私は広樹を追い越して少し駆け足してそこまでたどり着いた。広樹は歩くスピードを変えないまま数秒遅れて私のところに来る。


「改札までは行くよ」


有無を言わせない感じの広樹の言葉。こんな風に押しつけるように言うのは珍しい。でも私は首を振った。


「ううん、ここまででいいの。だから……」


この続きを言ってしまったら本当に終わってしまう。一瞬にして押し寄せてくる後悔の波を振り払って、私は笑顔で言った。


「これまでありがとう」


じゃあね、と手を振って私は広樹の顔を見ずに階段を駆け下りていった。




 一気に下って辿り着いたところを曲がり、そこで私はそのまま壁にもたれかかった。気を緩めたら立っているのさえ無理かもしれないくらいだ。一度大きく深呼吸をした。携帯を取りだして時間を確認するとまだ八時半にもなっていない。いつもなら十時過ぎの終電ぎりぎりまで一緒にいたからこんなに早い時間に駅に着いているなんてこと、一度だってなかった。ともすれば毎日だって会っていた頃でさえ、なるべく長い時間一緒に過ごしたいと願っていたのに、会いたくて会いたくて待ち焦がれていた四ヶ月ぶりの再会がこんなにあっという間に終わってしまうなんて、あまりにも皮肉だった。


 当然、というのもおかしいけれど、とてもこのまま家に帰る気になんてなれなかった。でも昔のように広樹の家に行けるわけじゃない。私は再び歩き始めた。向かうところは決まっている。もう足が勝手に連れて行ってくれるくらいだ。二人で何度も訪れては、家に帰るぎりぎりまで時間を過ごした思い出の場所に、私は一人で向かっていた。


 北出口から入った駅を、改札を素通りしてそのまま南出口からもう一度地上に出る。そしてちょうど青になっていた信号を走って渡ると、少し北に向かって歩いて石段を河辺へと降りて行った。


 聞きなれた水音が耳をくすぐる。夜の川辺はやっぱり人が少なかった。不思議なもので、遊歩道に降りるとすぐそばを車が通っている音が全然聞こえなくて静かなのだ。気持ちの問題かもしれないけれど一段下りるだけで、夜の帳が私たちを町の喧騒から遠ざけてくれるような、そんな気がしていた。


 座れる場所を探して北に向かってゆっくり歩いていく。でも一人で歩く夜の川はびっくりするぐらい誰も居なくて、暗く静かで怖かった。いつも二人で歩いていたからそんな風に思うことは一度もなかった。


 思えば何もかもここから始まった気がする。寒い冬の夜に広樹がなかなか告白を切りだしてくれなくて、「あともう一つ先の駅まで」とか言いながら風がびゅうびゅう吹く中を結局駅三つ分も歩いてしまったこともあった。思い返しては二人して、あんなに寒い夜は人生で初めてだったよ、と笑い話にしていた。二人でのんびり出来る所がなかなか無くて、少しでも時間が作れた度にここに来てはずっと喋っていた。どんなに寒くても風が強くても、広樹と一緒ならちっとも辛くなんてなかったのに。本当に幸せな日々だった。一年記念日に内緒でケーキを買ってきてくれたり、二人だけで二泊三日の旅行をしたり。一日中何にもしないで広樹に寄りかかったまま、ずっと頭を撫でてもらったことだって何度もあった。そんな幸せな毎日がずっと続くと思っていた。


 いや、それを言ったら嘘になるのだろう。本当は初めから分かっていたことだった。私は一人娘だから自分の家を継ぐものは私しかいなくて、だから長男である広樹と結婚することは親も賛成してはくれなかった。それを押し切ってまで広樹と結婚することを、その過酷な日々を支えるだけの覚悟が私にはどうしても出来なかった。広樹には全てを話した。そして私たちが出した結論は、もうこれ以上二人で過ごすことを諦めることだった。一緒に生きていく未来がないのに、その相手に時間をかけることは無駄だと、それならば別の人と過ごすために時間を使うべきだと、最後に広樹は私にそう言った。


「そんなのやっぱり間違えてたよ……」


誰も居ないのに、いや誰も居ないから私は呟いていた。広樹と過ごした時間が無駄だったなんて、今でも私は思えない。だから別れた後も、三、四ヶ月に一度はこうして二人で会っていた。お願いするのはいつも私だったけれど、広樹が断ったことは一度もなかった。他の人と過ごすために時間を使えなんて、やっぱりそれで良いわけがない。だって、だって……。


 そのとき急に強い風が吹いて私の髪をくしゃっと持っていった。髪に遮られて前が見えなくなる。慌てて手で払いのけて、そして見えたのは目の前を舞い散る幾千の桜の花びらたちだった。驚いて見上げると、微かに街灯に照らされて川沿いに並ぶ桜の木々が目に飛び込んできた。


「そっか、もう春だもんね」


飽きるほど見に行ったここの桜。どうして忘れていたんだろう。ううん、忘れていたんじゃない。下ばかり見ていたから映らなかったのだ。


 風に吹かれた花びらたちはどこまでも儚げで、それなのに心を奪われるほどに美しかった。去年までは隣に広樹が居たのに。そう思った瞬間こらえる暇もなくぼろぼろと涙が零れおちて止まらなくなってしまった。指で拭っても次から次にあふれでて来て、私は声をあげて泣き出した。悲しいとか寂しいとか、そんなありきたりの感情だけじゃなかった。心の中に埋められないほど大きな穴が空いたような、その奈落の中に果てしなく落ちていくようなとてつもない喪失感におそわれた。


 いくら泣いてもあの日々は戻ってこない。今でもこの場所には数えきれないほどの思い出があるのに、私の指には、絡めてくれた広樹の指の熱が残っているのに。私はたった一人。ひとりぼっち。神々しいほど美しい桜の花の前で、私は惨めに泣きじゃくりながら、あの日からずっと前に進めずに置いてけぼりだった。


 社会人として働くようになり、職場の人間関係も一気に広がって生活自体は大きく変わった。私は人好きのする性格らしく、何度か食事に誘われたこともある。でも私はいつも遠回しに断っていた。別に広樹とは別れたのだから浮気でもなんでもないけれど。去年の秋、ずっとお誘いしてくれていた男の人がいて、あまりに諦めずに言ってくれるから一度だけ出掛けたことがあった。それすら私には嫌だったけれど、むしろ両親の方が折角だから食事くらい良いんじゃないか、という感じで言ってきたのでしぶしぶだった。相手は三つ年上の人で会社の中では出世も見込まれているしっかりした人だった。お高いレストランに連れて行ってもらって、美味しい食事も頂いて。確かにそれはそれで楽しかったと思う。


 でも何も心に響かなかった。


 冬の冷たい風がびゅうびゅう吹く鴨川で過ごした時間の方が、二人で作った不格好なオムライスの方が、私にはずっとずっとキラキラしていたように思えてしかたなかった。その人は私のことを、明るくて仕事もてきぱきとこなす素敵な人だ、と言った。でも本当の私はそんな強くない。寂しがりやでおっちょこちょいで泣き虫で。そんな私の内面をこの人はちっともわかってないんだなと思った。広樹なら何も言わなくても分かってくれて、辛いときにも「つらい」と言わないのに、「さいきん大丈夫?」って聞いてくれる。このポニーテールだって精一杯の強がりなのだ。それを似合ってるなんて言われても嬉しくなんてなかった。


 何もかも広樹と比べてしまって、そしてどんな小さなことでさえ広樹の方が私のことを分かってくれていたし、私にとって大切な人だと思うことばかりだった。


 どれほどの間泣いていただろう。きっと私が気付かない内にも通り過ぎて行った人たちが、大人のくせに子どものように泣いている私に驚いていたことだろう。そう思うと余計に苦々しかった。私の後ろで息が上がったように呼吸する声が近付いて来るのが聞こえる。きっとランニングの人だろう。振り返ることもせずに、涙でぐしゃぐしゃになった顔のままでなお零れ続ける涙も気にせずに私は桜の木を見上げていた。きっとひどい顔しているだろうな。電車で帰らなきゃいけないのにどうしよう、一旦お化粧を直してからの方が良いだろうな。そんなことをぼんやりと考えていた。


「嘘つき!」


いきなりの怒声に私は飛び上がる。それは明らかに私に向かって放たれたものだった。荒い息遣いは、走ってここまで来たことの証拠だった。


「大丈夫だって、言ったじゃないか!こんな寒い夜に、一人で美桜を泣かせるために、僕は、お前と別れたわけじゃない!!」


たまらずに振り向くと、そこには肩で息をしながら立っている広樹がいた。切れ切れに息をするその合間に強く言葉を差し込んでいくような、その言葉たちは真っ直ぐに私の心に刺さる。その痛みが嬉しかった。


「……広樹!」


私は広樹に駆け寄るとその勢いのまま思いっ切り抱きしめた。強く強く、広樹が壊れちゃうかもしれないほどに。もう二度と、どこにも行かないように。今度は躊躇うことなく、あの頃のように広樹は私をぎゅっと抱きしめて頭を撫でてくれた。優しくて柔らかな手の動き。本当に私を大事にしてくれているのが伝わるような、そんな当たり前の時間さえ、もう私たちには日常ではなくなってしまった。でも、今この瞬間だけは広樹の彼女でいたかった。


「美桜……」


心配そうに名前を呼んでくれる、その声すら愛おしい。広樹の迷惑とかも考えられないまま私は声をあげて泣き続けた。


「どうして、どうしてなの?こんなに大好きなのに。こんなに広樹に会いたくて仕方ないのに。どうして私たち別れなきゃいけなかったの?」


言わないでおこうと思っていた弱い言葉が次々に口から飛び出していく。


「会いたくて仕方なかったの。やっぱり諦めたくなんてなかった!出来る限り広樹の傍にいたかったの!」


さっきよりまた少し抱きしめる力を強める広樹。そしてゆっくりと口を開いた。


「これが一番だと思ったんだ。その方が美桜は幸せになれると思った」


「そんなことない!」


思わず言い返してしまう。


「私は……、私は広樹と居られるなら何だって良かったの。思い出だけじゃ寂しすぎる。そんなのいくらあったって足りないの。私にとっては、話したいって思えるときに電話ができる方が、会いたいって思う時にすぐに会いに行ける方がずっと大事だったの」


すると広樹は抱きしめていた腕を放して、私のあごに指を添えるとくっと上へ向かせた。


「涙でぐしゃぐしゃだね」


広樹は少し笑う。


「うるさいよ」


まだ泣き声のままだったけど私は精一杯反論する。


「僕も会いたかった。この一年間ずっと美桜のことばかり考えていたよ。新しい彼女なんか作るわけないだろ、言ったはずだよ。美桜が一番の女の子だって」


「今でも、そう言ってくれるの?」


「ああ、もちろんさ」


私は慌てて手で雑に涙を拭う。


「あのね」


出てきた声はびっくりするぐらいかすれていて、それを無理に出そうとしたから鼻にかかったようなひどく甘えた声になってしまった。


「どうしたの」


もう一度頭をぽんぽんとしながら聞いてくれる広樹。


「あのね、私今日は帰りたくない」


広樹はそれを聞くといたずらっぽく笑った。そう言うと思ったよ、と言いたげなちょっと困ったような呆れたような優しい笑顔。


「大丈夫なの?時間とか」


「馬鹿にしないでよ。私もう社会人だよ?」


「そうだったね」


いいよ、という返事を聞くか聞かないかで私はまた広樹にぎゅっと抱きついた。久しぶりに話したいことはいっぱいあった。聞きたいことも。失くしてしまった時間を、戻れない日々を取り戻したかった。


 広樹が私の肩に手を置いてゆっくり体を放す。そして私の両側のほっぺたをふわっと手で包んで少し上を向かせる。そっと広樹の顔が近付いてくる。そのとき風が吹いて桜の花びらが舞い散った。その花弁の一つは偶然に広樹の唇に乗った。驚く広樹。私はぐっと背伸びをするとその花びらをはむっと食べてしまった。


「食べるなよ」


おかしそうに小声で広樹が言った。それからそのまま肩に手を回すように抱きしめながらキスをした。私も広樹の服の裾を掴んだ。


 キスは、涙と嬉しさと桜の味がした。

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桜色の戻れない日々 シャルロット @charlotte5338

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