Remember
伊ノ守 静
Remember
吉祥寺の街を、幼い子供を連れた若い男女が歩いている。ベビーカーの中で雛鳥のような声で笑う子供を、夫婦は充ち足りた様子で眺めている。もう冷気を含まなくなった春の風が、陽の光に浸った商店街を通りぬけた。そんな光景を前に、どうしようもない不快感が私の心を埋め尽くした。理由の分からない、全身が縮むような寒気がした。私はとにかくこの場から立ち去りたく思い、はや足で人気のない路地に逃げ込んだ。商店街から一つ道を変えるだけで道行く人影はほとんどいなくなる。他所から来た者はおよそここへ立ち寄ることはない。いるのは住んでいる者か近くの大学に通う学生くらいだ。たまに好奇心でふらふらと道を歩いている者があるが、彼らはすぐに何もないことを知って商店街へ引き返していく。私は商店街を避けながら、それでも俯き、通り過ぎる人の足元を見て自宅へ向かった。
外階段をのぼって扉を開ける。脱ぎ捨てた革靴のソールが、玄関で乾いた音を立てた。リビングに出ると下着の上に私のトレーナーを着た彼女はソファに寝ころびながら、スマートフォンでソーシャルゲームをしていた。テーブルの上には彼女が食べた昼食の食器が置かれたままだった。ヘッドフォンをした彼女は、視界に入ってようやく私が帰ってきたことに気付いた。「ただいま」と私が言うと、彼女はヘッドフォンを外して小さく「おかえり」と言った。そして申し訳なさそうに起き上がり、テーブルの上の食器を片付けようとしたが、私はそれを押しとどめて、重ねた食器を台所へと運んでいった。ポットに火をかけながら、彼女のマグカップと少し食べ残しのある皿を洗う。すると、さっきまで私の身体を満たしていた不快感が、流れていく泡とともに溶かされていった。私は手を拭いて、ポケットから煙草を取り出して火をつけた。吐き出した煙が、窓から差し込む陽の光にあたって青く光った。煙草を二本吸い終わるところで、ポットも青白い煙を吐きはじめた。私はカップを二つ用意して、紅茶をいれた。相変わらずスマートフォンを見つめている彼女にその一つを差し出して、私は間をあけて彼女の隣にゆっくりと腰をおろした。彼女はまた小さな声で「ありがとう」と言い、カップに口をつけたが、いれたばかりでまだ熱いと分かり、ローテーブルの上にカップを戻した。私は本棚から好きな本を取って読んだ。しばらくすると、起きているのに疲れた彼女は、仕方なく私の身体に凭れかかって寝てしまった。その時、サイズの大きいトレーナーが捲れて、彼女の透き通るように白い身体が露わになった。それを見て私は何の思いも起こらず、手に持った本に視線を戻してまた読みはじめた。そしていつのまにか眠ってしまった。
平日の朝、私は彼女の昼食をつくり、まだ眠っている彼女に「いってきます」と独り言のように言って家を出る。会社で働いている間、彼女が何をしているのか、私は知らない。家に帰ると洗濯や掃除がされていることもあれば、テーブルの上に漫画や小説が散らばったままソファで寝ていることもある。おそらく定職についてはいないが、在宅のアルバイトか何かで、自分が使うものや欲しいものを買うくらいの収入は得ているらしい。彼女とこの部屋に住みはじめてから、私にものを欲しがったことは一度もない。けれど、気づかないうちにリビングの本棚の雑誌や書籍が増えていたり、新しい洋服を着ていたりする。
私は彼女のことをあまり知らない。彼女が今まで何をしてきたのか、どんなところで生まれてどんな風に育ってきたのか。また、今彼女が何をしているのか、私は知らない。しかし、あの部屋にいる彼女のことは知っている。何をするあてもなく、両親と三人で暮らしていた彼女のことは知っている。私が「行くあてがないのなら、ここに居れば良い」と言った時、黙って頷いた彼女を知っている。私はそれだけで良いと思っていた。
数週間前、顧客との会議があった。顧客は化粧品メーカーで、新製品の広告を打ち出すため、代理店である私が勤める会社に依頼したらしい。私はそこで佐伯さんと出会った。
会議に出席した社員は業界柄女性が多かったが、彼女はその中で他の人とは違っているように見えた。彼女は決して前に出て何かをすることはない。むしろ目立たずに周囲に溶け込んでいる。波紋にあわせて揺れ動く水面に浮かんだ花びらのように、彼女はその場にいた。けれど、どうしてか私は彼女に他の人とは違うものを感じていた。いや、それは単純なことかもしれない。佐伯さんはとても整った容姿をしていた。私はただ綺麗な女性に見惚れていただけで、自身の女性的な魅力をあざとく見せないのを気に入ったのだろう。私はそんな風に思って恥ずかしくなり、小さく笑った。
会議室を出る時、不意に佐伯さんが私に改めて挨拶をしてきた。歳が近くコンタクトが取りやすいと思ったのだろう。その時、携帯の連絡先を交換して今後の日程や方針などを確認した。携帯を持つ彼女の左手の中指にシンプルな装飾の指環が見えた。
その後何度か会議を重ねていく中で、佐伯さんと仕事以外の会話もするようになっていった。互いの会社のこと、学生時代のこと、生まれ育った街のこと、休日に何をしているのか。そんなことを仕事の合間にぽつぽつと話した。そしてある時、好きな食べ物を訪ねられた。私はこれといって好きなものがなかったため、曖昧な返事をしたが、彼女はそれをとても重要なことのように聞いて、うんうんと頷いていた。翌日、食事の誘いをメールで受け取った。私は「ぜひ」とだけ打って、メールを送った。
仕事が終わって、待ち合わせている表参道駅へと向かった。私は地下鉄の中で不快な高揚を感じていた。到着を知らせるアナウンスとともに、扉が音を立てて開いた。地上へ向かう階段を上る。疲れているのか、異様に足が重かった。交番のすぐ傍にある出口から地上へ出ると、佐伯さんは裏側のベンチに座って待っていた。彼女は私が近づくとすぐに気づき、立ち上がって会釈をした。「お待たせしました。」「ううん、私もさっききたところ」と、取って付けたような挨拶をして、私達は煌びやかな街の中を歩きはじめた。ゆっくりした歩調で、ブランドショップの前を通り過ぎていく。彼女が一歩踏み出すたびに揺れるネイビーブルーのワンピースが、街灯や照明に照らされてじんわりと光ってとても綺麗だった。
佐伯さんの案内で店に入る。店員が近づいてくるのが見えると、彼女は小声で「あなたの名前で予約しちゃったから、そう伝えてもらえる?」と言った。私は「わかりました。」と頷いて店員に向かって自分の名前を告げ、彼女は私の後に連れられて席についた。テーブルに並んで立っているグラスにワインが注がれる。私たちはそれを手に取り細く高い音を響かせた。その時、前に見たときと同じ指環が彼女の華奢な左手の中指にはまっていた。
佐伯さんは私より少しだけ遅いペースでワインを飲んだ。そして口に手をあててよく笑った。私は少し酔ったのか、普段なら他人に言わないような、くだらなくてどうしようもない事を喋っていた。頭の中にあるもの全てがとめどなく口からこぼれ落ちた。彼女はそれを聞いて、優しく微笑んだ。そして、空いた私のグラスにそっとワインを注いだ。私は何の違和感もなくその場にいることができた。しかし、同時に奥底で居心地の悪さが私を蝕んでいた。彼女の一挙手一投足が、私の心に、私の色に染まっているような気がして怖くなった。
店を出てから駅までの道を、彼女は微かに私の腕に触れて歩いた。彼女の手は力なく私の腕に添えられて、私の身体が揺れるのに合わせて揺れる。すぐ傍にいる彼女は俯いて、長い睫毛が艶やかに瞳を覆い隠していた。私の心臓が、また不快な高揚を感じている。私は立ち止まり彼女の顔を見つめた。彼女は瞳を潤ませ、私を見上げる。その瞬間、私は彼女を見失い、ゆっくりと目を閉じた。
「大丈夫?」
そう尋ねる彼女の声がした。
「少し飲みすぎたみたいです。」
私は目を開けてまた歩きはじめた。それから彼女と別れるまで、私は彼女の顔を一度も見ようとしなかった。
自宅に着くと、彼女はソファにうずくまって寝息を立てていた。ノートパソコンにつながれたヘッドフォンから、微かな音が響いている。飲みかけのホットチョコレートはまだ少し温かかった。私はパソコンを閉じて彼女の身体を抱え、ベッドまで運んだ。途中、彼女は醒めて薄く瞼を開いたが、すぐにまた眠りについた。ベッドに身体を降ろした時、彼女は無意識に私の手を引いた。薄い上唇が彼女の顔を幼く見せた。私はそっと彼女の手を離して毛布を掛けた。
土曜日の朝。洗濯を済ませた私は、散歩がてら日用品を買いに外へ出掛けた。部屋を出る時、幼い顔をした彼女はまだベッドの上で眠っていた。店を出て、紙袋を抱えた私は陽の当たる街を行くあてもなく歩いた。家屋が立ち並ぶ路地に出ると、家の敷石の上で丸まって寝ている野良猫を見つけた。私はゆっくりと近づいてその場にしゃがみ、風に揺れる毛並みを眺めた。すると猫は目を覚まして起き上がり、私の脚に身体を擦りつけた。しかし私が身体を撫でようとすると私の手を額で押しのけて、また身体を擦りつけてきた。しばらくすると、猫は満足したのかまるで何もなかったかのようにどこかへ行ってしまった。私はゆらゆら揺れる尻尾を見ながら自宅の方へ歩きはじめた。
近くまで戻ってくると、家の下階に住んでいる老いた女性が道をほうきで掃いていた。老婆は私が帰ってきたことに気付くと、柔らかく笑って「おかえりなさい」と言った。
「いつも有り難うございます。」
「いいのよ。やることがないからやっているだけだもの。」
老婆はまた柔らかく笑って、時間があるならお茶でも飲んでいきなさいと私を誘った。私は庭の方へまわり、こじんまりしたテラスに置かれている椅子に座った。
老婆には去年まで夫がいて、この家は彼が建てたものだった。もともとは一軒家だったこものを子供が巣立っていった後に、二人で暮らすには広すぎると言って、現在のように上階を借家として改築したらしい。そのため、一見ひとつの家族が暮らしているように見えるが、ここには今、血のつながらない他人だけが暮らしている。
家主である夫がまだ生きていた時、私は窓から庭に佇む彼の姿をよく見かけた。時折、仕事から帰ってきた私は彼と庭先で煙草を吸った。老父はほとんど何も言わず、ただ吐き出した煙が空に消えていくのを眺めていた。私も彼の真似をして煙を眺めた。
老婆はトレイにポットと二つのカップをのせてリビングから出て来た。紅茶が心地いい音を立てて注がれる。私は老父の事を思い出しながら煙草に火をつけ、紅茶を一口飲んだ。
「あの人と同じものを吸ってるのね。懐かしいわ。」
「これが一番美味しいんです。」
そう言うと老婆は思い出したように微笑んで、亡くなった夫の事を話しはじめた。
「いつだったかしら。あの人と一緒になって間もない、まだ子供も産まれていなかった頃ね。今はこんな年寄りになってしまったけど、私にも若くてあどけない時があって、あの人をさんざん困らせたわ。貴方も知ってると思うけど、あの人無口で静かな人だったから、私とても淋しい思いをしてた。何も言ってくれないのよ。愛してるだとか好きだとか、こうして欲しいだとか。でもその代わり私をなじったこともなかった。彼が声を荒げて叱ってるところを一度も見たことなかったわ。なんだか、家族なのにまるで他人と暮らしてるような気分だった。それにずるいじゃない。彼が何も言わないから、私も彼に何も言えなかったわ。
私、一度家を出たことがあるのよ。彼が何を求めてるのか分からなくなって、黙って朝早く家を出たの。今思い返すと、本当にばかなことをしたと思うわ。あの人を別れたって何をするあてもなかった。一日中喫茶店にいて夜家に帰ると、今私たちがいるテラスに出て煙草を吸っていたわ。私が俯きながらとぼとぼ近づいていって椅子に座ると、彼は黙って温かい紅茶を淹れてくれた。私は泣きながらお茶を飲んで、彼は微笑みながら私の髪を優しくなでた。あの時のお茶は、どうしてか、とくべつ美味しかったわ。」
思い出を話し終わると、老婆は美味しそうにお茶を飲んだ。その姿は幼い少女のようだった。
「あの人は私に何かを与えてくれることはなかったけれど、それでよかったのかもしれないわ。」
「どうしてですか?」
私は少女に問いかけた。
「だって私があの人に返せるものなんて、きっとなかったもの。あの人は死ぬまで自分の人生を生きてた。私たちはただ、同じ場所に居ただけ。でも、彼はそれだけでよかったんだわ。」
少女はまた柔らかく笑った。
自宅のドアを開けてリビングへ入ると、彼女がソファに座って私の知らない小説を読んでいた。私が紙袋をテーブルの上に置くと、こちらをちらと見て、また小説を読みはじめた。今日はめずらしくヘッドフォンを外し、レコードに針を落として音楽を聴いている。ラ・マルセイエーズのイントロダクションとジョン・レノンの歌声が響く。似合わない歌を聴いている彼女が可笑しくて、私は息をはきだすように笑った。そして、彼女の頬を撫でて、彼女の嫌いなキスをした。
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