ロッチェ・コロッチェ・ブロッサム(前)
「お前が車の免許を取ってくれて嬉しいよ」
助手席のロッチェ先生は、窓外の景色を見つめながら囁いた。季節良く、山の斜面には一面と言わぬまでも見ごろの桜花が枝垂れている。
「僕も嬉しいです。まさか、いきなりこんな新車を買ってもらえるなんて、思ってもいませんでした」
ハンドルを握るコロッチェは、些か緊張の体で答えた。
コロッチェ君の運転そのものは大変な優等生である。ボンネットの艶も眩しい新車を早や我が物と、コマーシャルの宣材にも使えそうな軽快なハンドル捌きで巧みに走らせている。
すると、緊張している理由は、運転に関することではなさそうだ。
「ウン。母さんはお前を信頼しているからね。車を手に入れてからの最初のドライブに、私を誘ってくれるところとかね」
「お母さんは予定が合わず残念でした」
「まあ、また機はあるさ。……この先の蕎麦屋がね、本当に良い味なのだよ。あそこで昼間っから蕎麦を肴に酒など呑んでいられたら、どれだけ優雅なひと時になるだろうかと、前々から思っていたのだよ。お前のおかげでようやくそれが叶いそうだ」
「ああ、いいですねぇ。僕もお酒が飲めるようになったら、その時はお父さんが運転手でお願いします」
「ウン。その時は母さんも一緒にな」
「コロロッチェは……」
「あの子は、ウン、どうだろうね? 来てくれるかな、こんな山奥に……。でも来てくれたら嬉しいね」
父子の会話はそれで一旦途切れたが、元よりこの二人、互いの間で口数の多い関係でもない。
沈黙も、それならそれで、平和なりという二人。
――されど平和は乱れるもので。
「あの店は猪ソバが美味いんだがね」
「はい」
「お前、猪がどのぐらいの速さで走るか知っているかね」
「さあ? まあ、車よりは遅いと思いますけど」
「ブーだね」
ロッチェ先生は何も鳴き声を真似したわけではない。
窓の外に、いるのだ。
車と同じ速度で並走する猪が。
「そこにいるよ」
「え? どこですか?」
「お前は前を見て運転していなさい。車の横に、いるんだよ。猪が。そんなに大きくはないな……うりぼうなのかな? 顔の毛が真っ白で、ちょっと髑髏みたいにも見える」
「え、え、見てみたいです」
「前を見ていなさい。事故を起こされちゃ困る」
やがて車はトンネルに入ったが、ロッチェの目には、短い脚で必死に車へついてくる猪の姿がしかと写り続けていた。
「フーム。こいつは根性があるな」
「あの、お父さん」
「見たいだろうけど、我慢してくれ」
「見えてます。前に」
あっと驚く暇もなく、ロッチェ先生はゴツンと窓ガラスに額をぶっつけた。しかしそれで良かったのだ。コロッチェ君が急ハンドルを切らなければ、それに激突していただろう。ロッチェの眼下を通り過ぎる、ひと際大きな猪に。
「二匹いたかぁ」
「いいえ、お父さん。バックミラーにわんさか見えます」
「おやおや」
その通りだった。いつの間にやら背後にゾロゾロ猪が、大軍為して追ってきている。そのどいつも顔が髑髏めいているから不気味である。
「ねえ、お父さん。このあたりは、こんなに猪が出るんですか?」
「ウーン。多分あれだろうなぁ」
「あれってなんです」
「半年ぐらい前かな。これからいく蕎麦屋で、私は猪ソバを頼んで食べたのだよ。そしたら厨房の方で、何やら怒鳴り声が聞こえたのさ。怒っているのは村の古老だろうね。怒られているのは店のバイト君。聞こえた言葉はこうさ。『お前は山の神の子を殺したのか』」
「神の子……?」
「あのバイト君、猟師の見習いでもあったのかなぁ。どうもそうとしか思えないんだが、それはともかく、顔に白い印のついた猪だけは獲って食べてはいけない決まりがあったらしい。……で、私が食べさせられた猪肉が、その山の神の子だったみたいなのだよ」
「ちょ、ちょ、ちょ、お父さん!」
「猪に引っかけたダジャレかね? 面白くないから、前を見てなさい。後ろからじゃんじゃん追っついてくるアイツらが、この車に追いついたらどうなるかわからないよ」
呆れたものか怒ったものか、コロッチェ君は些か取り乱しかけたが、改めてがっしりとハンドルを握り直した。母に買ってもらったこの車を傷つけることだけはあってはならないのだ。
「さてコロッチェ。お前ならこの状況で、どうする?」
ロッチェ先生は変に落ち着いているが、さてこの場合、このお父さんは頼りになるのかならないのか。
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