ロッチェーズ
狸汁ぺろり
ロッチェは狸を見る
ロッチェはほとほと困っていた。彼の家に狸が出るのだ。
「君は何者かね」
ロッチェは何度もそいつに尋ねた。ところがそいつはチョロリとも顔色を変えず、太々しく佇んでいるばかりであった。
狸が出始めたのは四月のことだ。ロッチェは縁側に面した畳の部屋でパソコンに向かい、つたない文章を綴っていた。それがロッチェのかろうじて生業のようなものだった。
ふとロッチェが横を向くと、隣の仏間に狸がいた。
「おい、君は何者だ」
ロッチェが人間に尋ねるような口の利き方をしたのも無理はない。それは明らかに動物のタヌキではなく、狐狸妖怪の類という言い方をするときの狸だった。言うなれば、水木しげるの漫画『河童の三平』に出てくる真っ黒なタヌキに似ていた。頭も腹もでっぷりと丸々しく、ビリケン様のように両足を投げ出して仏壇の前に座っていた。ロッチェはそいつをタヌキの着ぐるみだと思ったのだ。狸は口笛を吹くように口を尖らせて、開いているのか閉じているのか、よくわからない目をしていた。
「君は誰だね。どうしてこんなところにいるのかね」
ロッチェは座椅子から立ち上がり、仏間の狸に近付いた。狸は身じろぎ一つしなかった。
「これ、何かものを言ったらどうだい」
ロッチェはてっきり中に人間が入っているのだと思い、狸の頭をぐらぐらと揺さぶってみた。濃茶色の毛並みはふわふわで温かかった。狸の頭は何の抵抗もなくされるがままに揺れていたが、その首のあたりに継ぎ目のようなものはなく、ぽろりと頭が落っこちることもなかった。
「おかしいな。さては背中にチャックでもあるのかな」
後ろに回ってみたが、丸いボディにはふさふさの毛が生えているばかりで、短い尻尾がついていた。よく見たら手足も短い。どうやら、この中に人間がいる可能性は低いようだ。
「では、大きなぬいぐるみかね。それにしてもブサイクなぬいぐるみだネ」
どうもそれが正しいように思われた。しかし、何故こんなところにこんなものがあるのか、誰が、いつの間に置いていったのか、まるで心当たりがなかった。こんな太々しい格好のぬいぐるみなど、サンタクロースにねだった覚えもない。ロッチェは三十六歳だし、今は四月だ。
ロッチェはなおも狸の周りをぐるぐる回って、ほっぺたを突っついたり、足の裏をくすぐってみたりしていたが、やがて匙を投げるように肩をすくめた。
「おお、エイプリルフール」
そしてロッチェは何も見なかったことにして隣の部屋に戻り、パソコンの前に座り直した。そして日が暮れるまでキーボードにかじりついていたが、画面上の原稿は一ページも進まなかった。
ロッチェは狸などにかかずっている場合ではなかった。あと三か月のうちに彼自身一度も挑んだことのない長編小説を書き上げ、それまでの端くれ物書きの立場から、曲がりなりにも作家先生に成り上がるつもりでいるのだった。ご近所の奥様方などに、「あの人はぼんやりしているけど、あれで立派な小説家なのよ」とでも言われてみたいのだった。
ロッチェは冒険をした。筆の上でも冒険をしているつもりだった。パソコンの前でしきりに唸り、ため息をつき、頭を抱え、それでも筆は捗らず、ついにどっかりと畳の上に寝転んだ。横を見るとまだ狸がいた。偉大なるご先祖様の仏壇の尻をむけて、でんと図太く鎮座していた。
寝ても覚めても、狸は居続けた。
ロッチェは小説に専念したかったが、どうしても狸が気になった。狸はいつもじっとロッチェの方を見ていた。ロッチェが真っ白なページを前に苦悩しているとき、勉強のためにとお気に入りのヤング小説を読みふけっているとき、好物のフランスパンをかじっているとき、ふと横を見るといつも狸がいた。狸は最初に現れた時からちっとも表情を変えず、見えているのかいないのか、ひどく曖昧な目つきをしているくせに、ロッチェにはどうしても見られているような気がしてならなかった。そのせいで何をやっても楽しくなかった。早く小説を書け、さっさとケッサクを書き上げろ、と無言で急かされ、それが出来ないでいることを咎められているように思えて仕方なかった。狸の視線のためにロッチェはますます心が焦り、執筆はまるで進まなかった。
ロッチェは狸を物理的にどかそうとした。仏間から離して、暗い廊下にでも移動させようとした。しかし狸は重かった。柔らかい手触りのくせにずっしりと重く、尻から根が生えているように一ミリたりとも動かなった。押しても引いても駄目だった。
狸が現れてから一か月が経ったころ、ロッチェはひどく簡単な事を思いついた。襖を閉めてしまえば良いのだ。ロッチェの部屋と、狸のいる仏間の間の襖を閉ざして、見えなくなってしめば良かったのだ。この家に生まれて以来、この襖を閉じるのは初めてだった。
試みにぴしゃりと閉じてみて、ロッチェは感激した。
「おお、ワンダフル!」
茶色に呆けた襖によって、厄介な狸は全く見えなくなった。そればかりか、空間がぐっと狭められたことで、集中力が増したようにも思われた。
ロッチェは立て続けに原稿を七枚ほど書き連ねた。素晴らしい達成だった。ようやく彼の小説の序盤の、起の起のあたりを書き上げることが出来たのだった。
「ザマァミロ。どうだね、狸くん……」
背筋を伸ばしながらついそう口走ったところで、ロッチェはとんでもない失言をしてしまったことに気が付いた。ロッチェの瞳は襖に釘付けになった。あの向こうがどうなっているのか、無性に気になり始めてしまった。ひょっとしたらあの向こうでは、ロッチェの発言に怒った狸が何かとんでもないことをしでかしているかもしれない。あの得体のしれない狸は、ロッチェが目を離すこの瞬間をじっと待っていたのかもしれない。そんな予感がロッチェの背筋を震わせた。
「おうい、おうい、狸くん。今のは失言だったよ。悪かった」
ロッチェは恐る恐る、襖を細く開けてみた。狸が見えた。思い切って襖を開け放ってみた。何もかもいつも通りだった。それからロッチェはまた原稿が書けなくなった。
さらに十五日が経った。ロッチェの心境には変化が表れだしていた。
「この狸は居るものだ。どうしようもなく居るものだ。朝になれば日が昇るように、春の次に夏が来るように、当たり前でどうしようもない事柄なのだ」
ロッチェは狸を受け入れることにした。だが、それは小説を進めることには少しもつながらなかった。代わりに起こった変化は、狸が他の場所にも出るようになった事だっただった。
「君……なにか出すのかい?」
ロッチェはトイレのドアを開けて途方に暮れた。便座の上に狸がいたのだ。ロッチェは悲哀に満ちた目でドアを閉じた。そして間を置いて、もう一度ドアを開けたら、今度は狸はいなかった。
「素晴らしいイリュージョンだよ! でもトイレではやめてくれ」
ロッチェはため息をついて生暖かい便座に腰かけた。そんなことが一日に一回ぐらい起こるようになった。トイレから煙のように消えた狸は、ロッチェが用を足して出てくるとちゃんといつもの仏間にいるのだった。
風呂に入る時もロッチェは警戒しなくてはならなかった。湯舟の蓋を取る時、その中に狸が先回りしていないだろうかと、いつも覚悟を決めていなければならなかった。蓋をとっても狸がおらず、やれ安心とモジャモジャ頭を洗い、シャンプーを流し終えて目を開けたその時には、すでに狸が風呂に浸かっていたりした。
ロッチェは泣きそうな顔をしながら、ふと思いついて、持っていたタオルを狸の頭に乗っけてみた。するとどうだろう。いつもの太々しい狸の面が、なんだかしごくのんびりと、温泉宿の看板にしたいぐらいに可愛らしい絵面に見えてきたのだ。
「これは良い!」
ロッチェは興奮して、すぐにこの絵を保存しなくてはと、裸のまま風呂場を飛び出した。そしてカメラを携えて戻ってきた時、湯舟にはただタオルが一枚浮かんでいるだけだった。
「アーオ! なんて狸だ!」
ロッチェは大げさに嘆き、やけクソにゲラゲラ笑った。
狸が現れて二か月が経った。その頃のロッチェは、もう小説どころではなくなっていた。この狸といかに無難に暮らしていくか、そればかりが関心事だった。
狸はロッチェの家にだけ現れて、スーパーに買い物に出かけた時や、銀行へ税金を納めに行った時など、家の外では決して現れなかった。
ロッチェは一つの疑問を抱いていた。
「こいつは、他の人間に見えるのだろうか」
ロッチェには家に呼ぶような友人があまりいなかったため、それまで一度もそれを試す機会はなかった。ところが、そのチャンスが唐突に訪れたのだった。まったく突然に、ロッチェの家を一人の若い女が訪れたのだ。
女は保険の外交員だった。いつものロッチェなら、そんな面倒な話を持ってくる輩は玄関先で追い払っているのだが、今回ばかりはこれぞ格好の実験体だと、家へ招き入れた。女は黒髪の艶々とした、まだ三十には大分間のある年頃だったが、ロッチェが大急ぎで部屋の隅に片づけた煎餅布団や、ピアノの椅子の上に退避させられたノートパソコンなどには目もくれず、時折白い健康な歯を覗かせながら巧みに世間話を展開し、やがて保険の話へと導き始めていた。ロッチェはそれに対して、「ええ」とか、「ああ」とか生返事をしながら、チラチラと視線を隣の仏間へ送っていた。狸は今日もそこにいるのだ。
ロッチェは女の様子をうかがっていたが、女はよほど仕事熱心なのか、ロッチェの顔と手元の資料を見比べるばかりで、少しも仏間の方を向かなかった。ロッチェはじりじりする思いで女を観察していたが、ふいに女とぱっちり目が合って、年甲斐もなくドギマギと狼狽える始末だった。
「それでは、後日また返事を伺いに参ります」
女はいきなり立ち上がると、美しい笑顔で頭を下げた。ロッチェは驚いた。どうやら適当な相槌をしていたおかげで、実験の方はともかく、商談の方はすこぶる捗っていたようだった。
次に女が訪ねてきた時、ロッチェは机の角度を変えてみて、女が顔をあげればどうしても仏間が目に入るよう工夫した。
女はまとまりそうな商談に気を良くしているのか、最初の時よりも華やかな身なりと笑顔で、盛んにロッチェへ愛嬌を振りまいた。ロッチェは少しでも長く女に顔を上げさせるべく、慣れぬ冗談など言いながら、しきりに話を盛り上げた。
そうした努力の結果は、陰性だった。
女はついに一度も狸の存在に気が付いたような素振りを見せず、ただ幾度もロッチェと瞳を合わせ、温かく微笑み合い、保険の契約をまとめて帰っていった。
その次の日曜日。女は私服でロッチェの家を訪れた。そして持参した紅茶を淹れ、茶菓子をテーブルに出しながら、ロッチェと好きな本の話などをした。
七月の蒸し暑い夜のこと。
女はロッチェの布団の上で髪を解き、ロッチェの膝に抱えられ、静かに唇を重ねてきた。
その時になってようやくロッチェは、自分がこの女を口説き落としてしまったことに気がついた。学校を出て以来まともに女の子と付き合ったことのない自分に、よくもまあこんな真似ができたものだと、むっちりとした唇を離しながらほとほと呆れ返っていた。
とりあえず女を抱き、布団の上に押し倒してみた。女は何の抵抗もなく目をつむり、されるがままにしていた。
この女もよくもまあ、自分なんかに抱かれる気になったものだ。いったい何が良くってこんな事になったのだろう。ロッチェは不思議でたまらなかったが、とにかく、覚悟を決めた女のために、為すべきことをなそうとした。遠い昔の記憶を探りながら女の服を脱がし、自分も脱いだ。それからにわかに緊張を催した指先で女の肌に触れた。それはあまりにもぎこちない仕草で、今にも女が目を開いて、「ちゃんとやってよ。がっかりね」などと言い出さないか、気が気でなかった。
その時、背後に気配を感じた。振り向こうとしたロッチェの横腹を、誰かがドンと突き飛ばした。
ロッチェは真っ裸で畳の上をゴロゴロ転がり、自分を突き飛ばした奴を見た。
狸だった。
狸はその短い前足でロッチェを突き飛ばし、女の上にまたがって、布袋腹をぐいと柳腰に押し付けた。
「あっ」
「あっ」
ロッチェと女が同時に呻いた。一方は悲痛に。一方は歓喜に。
ロッチェは転がったまま、狸が太い腰を使うのを呆然と見送っていた。女は目を閉じたままガクガクと身悶えて、悦びの声をあげ続けた。
これが目的だったのか。
ロッチェは風邪をひきそうな心で、ただ事が終わるのを待っていた。やがて女がひと際甲高い歓呼の叫びをあげると、狸はふっといなくなった。
そして二度と現れなかった。
ロッチェは目の中の埃が取れたような気持ちで、女の隣に寝た。
それから五年の歳月が流れた。
「お父さーん!」
保育園から帰ってきた息子が、ロッチェの膝に飛びついてきた。
「こらこら、仕事ができないよ」
パソコンから手を離し、息子のかわいい顎を撫でるロッチェの顔は、苦笑しながらも温もりに満ちていた。息子はくりっとした目のハンサムな顔立ちで、この上なく愛らしい笑顔で父に甘えていた。
ロッチェは相変わらず端くれ物書きで、エリート妻の稼ぎで暮らしていた。妻も子も、ロッチェが細々と書き連ねる文章を愛してくれていた。
――こんな状況に甘んじている自分に、ロクな小説など書けるわけがない。ロッチェは頭の隅でそう考えながら、それでもやっぱり、幸福だった。何もなかった五年前と比べれば、今は上等過ぎるぐらいの生活ではなかろうか。
もし、この状況が、あの狸のもたらしたものだとしたら。
ロッチェは呟いた。
「ご先祖様には頭があがらねぇや」
そうして、せめて、愛する妻と子を楽しませるために、売れぬまでもささやかな物書きであり続けようと誓うのであった。
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