黒幕
「シミズ草は洞窟外の空気に触れると少しずつ枯れていってしまうから、外に出たらスピード勝負だよ」
「分かった。これをそのまま食わせれば良いのか?」
「まさか。まず花弁と茎に分け、それぞれをすり潰す。もう一度それらを混ぜ合わせてお湯か水で濾過する。それを飲ませれば良い」
思ったより工程が多い。難しい技術を要求してくるわけではないが、一つ手順を間違えれば意味がないと言われたので、緊張してしまう。それでも、両手一杯の白い花束を大切に慎重に抱えこんだ。
「こうしてる間にもリーリは苦しんでる。今すぐ帰るぞ」
「うん。バイバイ」
輝石を口に放り込みながらアキニタは手を振る。しかし、そこである考えに思い至る。
「あれ、どうやって帰ろう……?」
ここには、魔王の転移魔法でやって来た。しかし、どうやって屋敷に戻れば……。
「しまったああああああ!! 考えてなかった!!」
オレの絶叫が洞窟内を幾重にも反響して、シミズ草の花弁をほのかに揺らす。まさかの事態に、ぐわんぐわんと頭の奥が熱くなってくる。
「ど、どうしよう! アキニタ! ここからアスモディアラ領までどれくらいかかる!?」
「馬車で一カ月ってとこかな」
「そんなに遠いのか!」
転移魔法って超便利! 魔王もオレも焦っていたから、行って戻ってくることまでなんて考えていなかった。魔王は自力で戻ってこれるから良いが、オレには方法がない。こうなってしまうと、もう魔王がルシアルからシミズ草をもらってくることに賭けるしかないのか。
いや。
「ここに、あるんだよ!」
リーリを救うためのものが、今まさしくオレの腕の中にある。ここで手をこまねいていることなんて出来るはずがない。
「アキニタ! サタニキア軍の中で転移魔法を使える奴はいないのか!?」
アキニタを掴んで揺さぶる。頭が上下に揺れるのを、嫌がるような厳しい顔で手を払われた。
「いないよ。サタニキア軍にいるのはどいつもこいつも脳筋野郎だからね」
「ちゃんと教育しとけよぉおお!!」
手前勝手この上ないが、サタニキアを恨む。正真正銘の魔王なら、優秀な魔術師もしっかり育てとけよ!
「ふぅ。もしやとは思ってたけど、本当に帰りのこと考えてないなんてね。バカなの? それともバカなの?」
やれやれと肩をすくめるアキニタは呆れを隠そうとしない。反論したいが全ておっしゃる通りなので、黙って俯くしかない。
「しょうがないなぁ」
必死で考えを巡らせているオレを、アキニタは片目を閉じて見ている。対してオレは、ああでもないこうでもないとぶつぶつ呟きながら、洞窟内を歩き回っている。本当に誰にも頼めないのか? 探せば一人や二人くらい転移魔法を使える奴だっているんじゃないか? ここ最近のオレはポンコツすぎる。何一つとして上手く事が運べていな……ポンコツ? ポンコツ……。
「そうだ! あのポンコツレイヤーだ!」
すっかり忘れていた! そうだよ、あいつがいるじゃないか! 役に立たなさすぎて完全に物語からフェードアウトしていたが、あいつは転移魔法が使える。ここであいつに頼らなくていつ頼るというのだ。あいつだってもう少し働いても良いはずだ。大ピンチの最中に灯った希望の光に、オレの胸が踊っていると、
「え……?」
オレの右膝が崩れた。階段から足を踏みはずしたような感覚に、一瞬戸惑う。
周囲を見回すと、赤紫色の光の円陣がオレを中心に地面に現れ、ゆっくりと回転を始めていた。その円の中にある紋様には見覚えがあった。何度も何度も、この世界に来てから一番感じた、強力な魔法。
「これって……」
驚いてアキニタの方を見ると、黒髪が風になびき、黒いはずの両目が赤紫に染まっている。
「屋敷の前に飛ばしてあげる。そこからは自分で何とかすることだね」
「アキニタ! これってまさか……!」
「一つだけ、忠告」
高まっていく魔力の波動。胃と腸を内側からかき回されるような感覚はもう何回目か。アキニタは右手をオレに、いや、魔方陣にかざしながら、にこりと笑う。こいつが笑うのを、初めて見た。
「悪意は君たちのそばにある。気をつけることだ」
「アキ……ニタ!!」
叫んだオレの声は届かないまま、アキニタの口が動いたのだけが目に写った。短く五文字。それは、感謝を伝えるための美しい言葉だった。そこから先は何も見えない。オレが目を瞑ったからだ。押し寄せてくる不快感と闘うために、自分で自分を抱き締める。そんな最悪な気分を味わうこと数秒。オレの靴底が地面を感じた。立っている。オレは確かに立っている。開いた目に見えてくるのは、
「屋敷、だ……」
紛れもなく魔王の屋敷だった。しかし、混乱する頭は上手く思考を纏めてくれない。さっき、明らかにアキニタが魔法を使っていた。その時感じた強力な魔力もまだ肌に残っている。
「訳分からん……」
思い返せば、あいつは色々とおかしかった。食べる量はハンパじゃないし、態度は太々しいし、飲み屋のマダムと知り合いだし。何より外見に似合わぬどこか達観したような雰囲気があった。大物臭がすると言うか、おじいちゃん臭いというか、更にはびっくりするくらい強かった。
「いやいやいや! 今はそんな事どうでも良い! 紆余曲折あったが、何とかシミズ草を手に入れてきたんだ! すぐにリーリを!」
両手がシミズ草でふさがっているので、足で玄関を蹴り開ける。廊下を走り抜け、屋敷の奥を目指す。くそ、何であいつの部屋は屋敷の一番奥なんだ。玄関すぐの所にしろよ! 部屋空いてるんだろ!
「リーリ!」
やたらファンシーで少女趣味な一室にやっと辿り着いた。その奥では、相変わらず苦しそうなリーリがベッドに横たわっている。これまでより呼吸が小さく、かすれるような息がかろうじて漏れているだけだ。髪留めを外した長い黒髪が、何故かオレの不安を煽る。もう完全に弱り切っていて、別の世界との狭間で揺れ動いているように見えた。ベッドに駆け寄って、ダラリと垂れ下がったリーリの手を握る。
「リーリ! シミズ草を採ってきた! すぐ助けるから、もう少し頑張れ!」
この時のオレが考えていたことは、ただこの大切な仲間を助けることだけだった。そのせいで、ある異変には気づけないでいる。絶対に、この娘のそばにいるはずの少女が、ここにいないことに疑問を感じられない。その時、
「……げて」
リーリが、朦朧としたような意識で何か喋った。
「なに!? どうした!?」
「に……げて……。うし……」
その目が見ているのは、オレではなく、その背後。
「らぁ!!」
オレの心臓を狙う三十近い
「何のつもりだ? セルバス」
後頭部で纏めた長い金髪は腰まであり、そこから繋がっていくような二又の尻尾は節くれだっている。頬を含めたほぼ全ての肌を覆い隠す黒い鱗は鈍い輝きを放っていて、背筋をピシリと伸ばした立ち姿は、魔王の執事に相応しい。それは、数日間を共に過ごした魔王の右腕、セルバスだった。
「もう帰ってきましたか。シミズ草も手に入れているようですし、少し貴方を侮っていました」
「何のつもりだって言ってんだ」
セルバスは右手に持つ銛のような槍を撫でる。
「簡単明瞭です。貴方達を殺し、私が真の魔王になる!」
「寝惚けてる訳じゃなさそうだな」
その目は本気だった。オレを睨みつけるそれは、殺意で満ちている。
「そのバカ弟子を使って貴方達を分散させて一人ずつ殺すつもりでした。まあ少し予定は早まりましたが、計画に支障はないでしょう」
「つまり、リーリをこんな目に遭わせてるのはてめぇか」
頭が沸騰してくるのが自分でも分かる。
「はい。そのバカ弟子が仕事から帰還する所を狙い、あえて見つかる場所に放置しました」
ずっといないと思っていたら、裏でこんなことをコソコソやってたのか。
こいつの話を最後まで聞くか、今すぐぶん殴ってやろうか思案している時に、
「ごめ……さい」
小さな小さな声が、オレの耳に届いた。
「ごめ……な……。……い。私の……せい……リュカを……助け……て……」
ガツンと、自分のデコを
「リュカに、何かしたのか?」
「眠っているだけです。あれは良い人質になる。上手く使えば魔王を自刃させることすら可能だ」
「オッケー。もう喋らなくて良い。黙れ」
全身を巡る血が熱くなって、頭に集中していく。そのせいか、何故か手足の先が冷えていくのを感じた。
「ここでまず貴方を殺す。光栄に思いなさい。魔界三叉槍の私にゲボガァッ!?」
オレの
「来やがれ三下がっ!! 塵一つ残さねぇから覚悟しろ!!」
「グ……! 人間風情が。思い知らせてくれる!!」
オレの拳に吹き飛ばされ、ぬいぐるみが並べられた棚に激突したセルバスが、怒りを剥き出しにして起き上がる。
「神槍ゲイ・ボルガ!! くらえ!!」
またセルバスが槍を投擲してきた。すると、その槍は空中で三十の
「な、何故だ!? ゲイ・ボルガは必中必殺の神槍!! それを全て払い落とすなど……!?」
「だからそう言うのがカモだって言ってんだ!!」
焦るセルバスは、魔法で槍を自身の手に戻すが、それと同じタイミングでオレが懐に入りこんだ。脇を締めた
「ガ……ゴボォッ!?」
そのまま手首を捻り、天井にセルバスをぶち上げた。こいつの身体、いやに硬い。おそらくは全身を覆う黒い鱗のせいだろうが、何かを殴って痛いなどと、
天井に首から突き刺さっているセルバスを左手で引っこ抜いて床に叩きつける。その衝撃でセルバスが気を失いかけるが、もう一度顔面を殴って正気を保たせた。すると、
「と、取引しよう!」
尻餅をついたまま後退りながら、何か喚き始めた。
「わ、私の神槍と貴方の力なら、アスモディアラどころか全ての魔王を殺し、真の魔界の覇者となれる! そうなれば人間界など征服したも同然だ! 二人で世界の覇者となろう!」
「興味ねぇな」
「なら金か!? 女か!? 名誉か!? 望む物全てを与える! それならどうだ!」
「いらない」
セルバスは涙と鼻水を垂らしながら、唾を撒き散らす。
「なら何が、何が欲しいんだ!?」
口に流れこんできた自らの血を吐きすてる。とにかく気分が悪かった。
「言っても分かんねぇよ。少し黙ってろ。オレはリーリの薬を作る」
セルバスに背を向ける。シミズ草の花弁は、彼女のベッドのそばに落ちてしまっていた。
「何故だ! 何故その女に拘る!?」
ビクリと、オレ達を見ていたリーリの身体が跳ねた。
「そいつは、人間に村人を皆殺しにされかけていたのを私が助けた! 今でも人間を、お前達を憎んでいるぞ! そんな奴を……」
「……ねぇよ」
オレの声は、セルバスには聞き取れていなかった。
「そんなの関係ねぇ!! オレがこいつを助けたいんだ!!」
「だから何故……!?」
「泣いてんだろうがっ!!」
リーリの頭を撫でながら、
「気が強くて会えば悪態ばかりついてくるこいつが、泣いてんだよ! 辛いって、苦しいって! そして何より! 自分が死にそうなこんな状態でも、こいつはリュカを心配して泣いてんだ! そう言う奴なんだよこいつは! そんなこいつを助けたいって思うのは、皆当たり前のことだろうが!!」
大粒の涙を零すこいつを、一刻も早く救いたい。また元気なこいつに戻って欲しい。こいつがいないと、ダメなんだ。
「こんな……こんな事で私の野望が……! こんなどこの馬の骨とも分からん奴に私の野望がぁ!!」
激昂したセルバスが、槍を片手に突進してくる。漆黒の執事服のポケットから小さな瓶を取り出すと、それを叩き割った。そこからは、数百を超える赤と黒の模様の蜂が飛び出してくる。一匹一匹が鋭い針をオレに向けていた。
「邪魔だ」
オレは
「待ってろリーリ」
水か湯を取ってくるために、キッチンに走った。リーリは真っ赤になった瞳から、いつまでも涙を零し続けていた。
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