意気地なし
『エドガーさま弱すぎです。本当に童貞なんですね』
『全く。腑抜けがいては目障りだ。今すぐ出て行ってもらおうか』
『ダーリン……。情け無いにも程があるぞ』
三人が皆一様に白い目で見下ろしてくる中、一人寝袋におさまった毒虫が、ゴロゴロ転がりながら叫んでいる。
『とっととサインを持ってくるでござる!』
「牧村、てめぇだけ自由かっ!!」
シーツをめくりながら起き上がったそこには、女性陣の誰一人としていなかった。混乱する頭で辺りを見回すと、そこはオレが貸してもらっていた例の部屋だった。枕元にある三本の蝋燭がわずかに揺らめきながら、オレンジ色にオレの手元を染めている。
「あ……そうか、オレ……」
思い出してきた。あの時、アヤさんに悪戯されて、恥ずかしさのあまりに気絶してしまったのだ。今考えただけでも頭の中が痺れる。魔性とは彼女のことを示すのだろう。しばらくはあの人の影に取り憑かれそうだ。
「随分と、嬉しそうになさるんですね」
「うおっ!?」
突然死角から声をかけられて、心臓が飛び上がる。声のした方に振り向くと、仏頂面のリュカが、じっとりとした視線を向けてきていた。
「な、なんだリュカか……」
「アヤさんだと思いましたか?」
リュカはつーんと唇を尖らせて目を瞑る。いかん、これは……
「そうですよね。アヤさん美人ですものね」
やっぱり! リュカ激おこだ! 馬車の旅の時とは違う、纏わりつくような怒り方に怯む。
「あ、あれは何と言うか、オレもびっくりしちゃっただけで」
「はい。
そっぽを向くリュカは、オレのベッドのすぐそばで、椅子に座っていた。拳を作る両手が、膝の上で震えている。丸まった角が尖って見えるのは、きっと目の錯覚だ。
「あの、それでアヤさ……ハーピー達は?」
「私とリーリで屋敷から叩き出しました。今日は一晩、外で頭を冷やしてもらいます」
「ち、小さい子もいるんだ。それは流石に酷いんじゃないか?」
「もちろん、アヤさん以外はもう屋敷の中です。みんな眠っていますよ」
まあ、他のハーピー達は何も悪いことしてないからな。だが、オレの頭を支配するのは、アヤさんの色っぽい表情と、甘い香り、耳たぶに触れた唇の柔らかさ。今すぐにでもあの一瞬を思い起こせるほど、色鮮やかに脳裏に焼き付いている。
「また、アヤさんのことを考えていますね?」
「あ! いや!」
リュカはその二色の瞳をきらりと光らせる。これが女の勘と言うやつだろうか。鋭い。何とか話をそらさねば。
「その、リーリと団長は? 何してるんだ?」
「リーリは、まだ食堂の掃除をしています。鶏がら共の羽が凄いので。団長さんはもうお休みになられてますよ」
流石は団長。敵の本拠地だと言うのに、普通に眠れる豪胆さ、何と言う無警戒。襲撃されたらどうするつもりなのだろう。結婚のことばかり考えていて、他の事に頭が回っていない。
「リュカ……その、さ」
「何でしょうか」
まだ眉根に深い皺を作っているリュカは、こちらを見てくれない。
「アヤさんは、ちょっとオレの女性免疫がなかったのを見抜いてからかってきただけだ。特に他意はねぇよ」
あろうことか色気にやられてぶっ倒れた分際で、何とも説得力のない話だが、本気でそう思っていた。アヤさんだって全然本気じゃなかった。オレを見るあの人の目は、新しい玩具を見つけた目だった。しかし、
「そんなことはわかっています。ただ、私が気に入らないのは……」
「なんだ?」
「エドガーさまが、全然抵抗しなかったことです。きっとあなたは、誰に迫られようが、これからもされるがままなのでしょう。それが」
辛いのです。リュカは、両手でスカートの裾を握り締めながら、ぽつりとこぼした。薄暗い室内に反響することなく、その言葉は空気に停滞する。
「いや、リュカ……」
「エドガーさま」
リュカが、初めてオレの目を見た。その朱と蒼の瞳は少し揺れていて、そのことだけでオレの鼓動が早まる。
「今、ここには私とエドガーさまだけです。お父様もセルバスも、リーリもいません。ですから……」
オレの醜い右手に、リュカの細く綺麗な指が絡められた。どうしたら良いか分からなくて、握り返すことは出来ない。ただ冷たいその指先の体温を感じているだけだ。身を乗り出してくるリュカの右手が、オレの左頬を撫でた。火照った顔が近づいてくる。
「私では、ダメですか? 私には、そんなに魅力がありませんか? こんなにお側にいても、その胸は高鳴りませんか?」
不安そうに、悲しそうにリュカはオレの目を見る。そんなのもちろん、高鳴っているに決まってる。このまま爆発してしまうのではないかと思うほど、オレの心臓は激しく脈打っていた。
「するよ、凄く。ドキドキしてる」
リュカの左手を取った。やっと神経が繋がった右手が、絡まった指に力を込める。
「では、証明……して下さい」
鼻と鼻が触れ合う距離で、甘く囁かれた言葉を合図に、リュカがゆっくり瞼を閉じた。その瑞々しい唇と、口元の小さなほくろから目が離せなくなる。震えるリュカの肩をおっかなびっくり抱き寄せた。空気が甘く甘く溶解していく。オレは、その赤い頬に、そっと唇を落とした。
「ごめん。今は、これが精一杯」
「意気地なし」
リュカが少し怒ったように言う。
「しょうが無いだろ」
「しょうが無くなんてありません。ですから……もう一度。もう一度だけ、期待させて下さいませんか」
「あぁ、もう一度だけ……」
オレの首に回されたリュカの手の軽さを感じる。林檎のように火照った、その柔らかな頬にオレの醜い右手をあてるのは躊躇われて、左手だけで優しく包み込む。オレは今度は、リュカの可愛いらしい鼻先に、触れるだけのキスをした。
「……本当に、意気地がありませんね」
「震えてるくせに、良く言うよ」
そんなことを言い合って、そして、どちらからともなく、くつくつ笑い始めた。花の咲いたようなリュカの笑顔が、手の届くところにある。心がくすぐられたかのように照れくさくて、楽しくて。湧き出してくるこんな気持ちを何と呼ぶのだろうか。きっと、いつかそれが分かる頃には、もっと近くにこの娘を感じられるだろう。
「はぁ……。若いって、良いわねぇ」
「っ!?」
「なっ!?」
オレ達だけのはずの室内で、いきなり第三者の声が聞こえてきた。二人して飛び上がって、おでことおでこをぶつけ合う。
「あ、あんた……!?」
「マミン、様!?」
「やっほー」
ニマニマといやらしい笑いを浮かべる黒魔女が、椅子の背もたれに顎を落として、こちらを見つめていた。
「あの……何て言うかですね……」
「ん? 別に良いじゃない。婚約者同士なんだし」
黒のとんがり帽子を手でいじりながら、魔女は興味なさそうに言う。そうだ。今更だが、オレは何て事をしてしまったのだろう。あの瞬間のリュカの表情を思い出して、またおかしな気持ちになってくる。
「さっきのことは、皆には秘密に……」
「まあ、勝手に覗いたのは私だし、それくらいは良いわよ」
今この部屋にいるのは、オレと魔女だけだ。リュカは脱兎の勢いで部屋から飛び出して行ってしまった。ここから扉までの短い距離で、二回も転んでいた。どこまで走って行ってしまったのだろう。少し心配である。
「はぁ……それにしても、若いって良いわねぇ」
「もう忘れてくれよ……」
両手で顔を覆う。女子かオレは。恥ずかしくて堪らん。睨むような視線で魔女をうかがう。
「で、何しに来たんですか? 魔王様ならいませんよ」
「知ってるわよ。ちょっと研究に行き詰まっちゃって、息抜きにきたの。いやぁ、おかげで良いものが見れたわ」
「だから忘れてくれって」
からかっている風ではないから、おそらく素なのだろう。余計タチが悪い。
「さて、しばらく厄介になるし、リーリに挨拶してくるわ。あなたもモンモンとしてるかもしれないけど、今晩は我慢して寝なさいね」
「嫌な心配をしないでいただきたい」
魔女は流し目で笑って、部屋から出て行った。自然一人切りになる。枕に顔を押し付けるようにして倒れ込む。少しずつ冷えてきたオレの頭に浮かんでくるのは……
『意気地なし』
『期待させて下さいませんか』
「眠れねぇーー!!」
ダメだ。健康的な男の子としては、この滾る気持ちが抑え切れない。何か、何かないか。気を紛らわせるような何か。そうだ!
「おいポンコツ! ポンコツレイヤー女神!」
妄想を振り払って集中する。脳内で叫ぶ。
「出てこいポンコツ!!」
『もう! 今何時だと思ってるんですか!?』
「知るか!! 黙れ!!」
『まさかの逆ギレ!? 何なんですか!』
声に怯えが混ざるポンコツを無視して、これまでの顛末を話す。それでも時折リュカの唇や瞳が割り込んできて焦る。
『魔界アイドルレヴィアのサインですか……』
「そうだ。お前の力で何とか出来ないか?」
一応女神なんだ。むしろそれくらい出来なくてどうする。
『すみません。無理です。そんな事出来るなら、私だってサイン欲しいですよ』
「……あぁ、そう」
これはレヴィアと言う魔王が凄いのか。それともこのポンコツがダメなのか。この場のオレの一存では判断しかねる。
『ですが、流石は竜士さんです。あの勇者に外に出る約束を取り付けるなんて。私は何度やってもダメだったのに』
「いやぁ、まあな。フフン」
なんか久しぶりに誰かに褒めてもらえた気がする。
『なら、魔女王マミンに、チケットが貰えるかどうか交渉してみると良いですね』
「あ、そっか。忘れてた」
何故忘れてたのかを考えると、また別の事がらが浮かんできて眠れなくなる。
「なぁ、ちょっと話し相手になってくれよ」
『えぇ、嫌ですよ。今決算期で忙しいのに……』
「理由がそれかよ」
女神が一体何を決算しようと言うのだ。その後何度か頼んでみても、同じ理由ですげなく断られてしまった。それではまた今度! そう言って一方的に通信を切られてしまう。あーあ。もう異世界救うの辞めちゃおっかなぁ。
仕方ないので、素数を数えながらシーツにくるまる。ただ、生憎と学がないので、十個ほど数えるとストップしてしまった。
「あ、そうだ。羊を数えれば……いや、それが一番ダメだ」
羊から連想されるのは、間違いなくあのモコモコだ。何とままならない世の中か。結局、その後一睡もすることなく日の出を迎えたのだった。
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