Song.10 前進と課題


 放課後の物理準備室。授業以外でその部屋の近くを通ることはない。そんな人気ひとけのない場所に俺は足を運んだ。

 申し訳程度に小さくノックをすると、「はい。どうぞ」と声が聞こえたので、立て付けの悪い扉を開けると、白衣姿の立花たちばな先生が一人、本に囲まれた机に向かって座っていた。初めて入る部屋に戸惑って、扉のところで立ち止まる俺を見た先生は、メガネの位置を直して立ち上がる。


「どうかされましたか? 大丈夫ですよ、入ってください」


 中へ入るように促され、初めて物理準備室に入った。

 決して広くない部屋。壁際に並ぶ棚には、難しいタイトルの本がびっしりと詰まっている。そんな部屋でも、生徒の質問に応じるためなのか、教室にあるような机とイスが二組向かい合うように置かれていた。


「おや? 君は二年生の野崎くんですよね? 今年は私の授業はないはずですけど、どうしました?」


 先生と向かい合うように座り、俺は話を切り出す。


「勉強のことじゃないんで」

「では、相談でしょうか? 私が力になれるかわかりませんが」

「まあ、相談っちゃ相談ですかね。先生って、今、どこかの顧問やってますか?」

「顧問ですか? 今はやっていませんが……」

「じゃあ、軽音楽部の顧問になってくれませんか」

「ええ? そんな急なこと言われても……ほら、まだ身分も低い新米教師ですし、顧問になるならもっと別の先生の方が、あれこれやってくれるはずですし」


 やんわりと断られた。立花先生は見た目からしても若い。

 どこぞの会社みたいに、先生たちの中でも若いと立場が低いのかもしれない。仕事を押し付けられたり、イエスマンになることを求められているのかもしれない。だが、俺には関係がないことである。


「先生がいいんです。だって先生、羽宮高校ここで軽音部やってたの知ってるんですよ。楽器について何にも知らない人が軽音の顧問をやるより、知識がある人がやる方がいいじゃないすか」


 自分の考えを言葉にしていく。

 軽音楽、つまりバンドをやるには、色々と機材が必要だ。ギターやベース、エフェクター類は自前で用意するが、持ち運びが簡単ではないドラムやアンプ、マイクまで自分たちで用意するものではないと思う。少なくとも、スタジオで貸してくれるような機材は学校のものを使うべきだろう。大会に出るためだけじゃなくて、高い機材を購入・管理するためにも顧問という存在が必要である。


「どこでそんな情報を仕入れてきたんです? 私のことは誰にもしゃべっていないはずなんですけど」


 先生は、ひきつった顔をしている。

 かつてバンドを組んでいたことを隠していたのだろう。別に恥ずかしいことでもないのに。


「駅前のスタジオっす。弾いてる映像も見ました」

「はあ……三上さんですね。恥ずかしい……」

「まあ、お世辞にもうまいとは言えなかったですね。ぶっちゃけ、俺の方がうまいと思います」

「うっ、それは……ぐいぐい言いますね、野崎くんは」


 素直な感想は、先生にダメージを与えた。しかもクリティカルヒットだ。

 先生は自分の胸を押さえて、顔をそらしたが、深く息を吐いてからすぐに俺の方を向く。


「とりあえず、私の演奏に関しては置いておきましょう。できれば忘れてほしいですが。本題に戻りましょうか」


 そう言って先生は、話を切り替えた。


「教師という立場からも、生徒の頼みを無視するわけにはいきません。しかし、私の一存で顧問を受け持つことを受諾するわけにもいかないので、他の先生に相談したうえで、どうするかをこたえようかと思います。すぐに応えられなくてすみません」


 座りながらも、頭を下げて謝る。


「いえ、俺の方こそ突然押しかけて、すんませんでした」


 謝ってもらいたくはない。早く下げた頭を上げてもらうために、手をバタバタと振って、それらしい言葉を並べながら頭を下げた。

 互いにペコペコして、なんとも言えない空気になる。このまま長くこの場に居座るのも迷惑だろうし、さっさと戻って今後について考えなければならない。


「じゃあ……俺はこれで帰ります。お時間、ありがとうございました」

「はい。気を付けて帰ってくださいね」


 滞在時間、約十分。

 たったそれだけの時間。一歩、軽音楽部を作るために進んだはず。

 はたから見れば小さいかもしれないが、俺にとっては大きな一歩だ。

 吹奏楽部の音が小さく聞こえる物理準備室から離れ、いつもの教室へ向かった。




「なあなあ、一緒にやろうって! 絶対楽しいから!」


 いつもなら人がいない放課後の本校舎を歩いていると、聞き覚えのあるうるさい声が響き渡っていた。目的地である教室へ向かうには、この廊下を通らなければならない。面倒なことに巻き込まれないように祈りながら声が聞こえる方へと、向かう。


「嫌だって言ってるでしょ」

「なんでだよー? ユーマ、めちゃくちゃピアノうまいじゃん」


 本校舎二階の廊下。

 そこで騒いでいたのは大輝と大輝の知り合いである悠真ゆうまだった。

 何やら言い合う二人の様子をうかがうようにして、周囲には女子が三人。中にはこの前悠真を探していた女子もいる。だからおそらく女子たちは、悠真の追っかけなんだろうと予測できる。

 間に誰も入れない雰囲気。話に加わることも、どこかへ行くこともできない俺は、誰にも気づかれないように死角で耳を澄ませる。


「僕はもう、ピアノをやめる。もう音楽はやらない」

「なんでだよ! 昔っからあんなに音楽が好きだって言ってたのに。どうしたんだよ?」


 大輝が普段よりも声をはる。 

 二人以外の声は全く聞こえない。それだけ間に入りにくい空気だ。


「しつこいなぁ。もう嫌いになったんだよ。それにもう、受験についても考えなくちゃいけない。いい機会だから、やめるんだ」


 熱のこもった大輝とは反対に、冷静な反応だった。

 そして大輝を置き去りにして、悠真は歩き出す。


「……盗み聞きするなんて、悪趣味」


 昇降口に向かうのに一番近い階段付近にいた俺に気づいた悠真は、そう言い捨てて去っていく。追うようにして、女子たちもいなくなった。

  お前もこの前盗み聞きしてただろうに。というセリフは心の中にしまっておいた。

 残っているのは俺と大輝。

 静かで重い空気がのしかかる。


「わり、勧誘はできなかったわ」

「気にすんな。こっちも先生に話してきたけど、すぐには応えてもらえなかったし」


 浮かない顔で謝る大輝を放置するわけにもいかなかった。

 まだ、何か言いたそうな顔をしているので、そのまま待つ。すると、大輝は口を開いた。


「ユーマ、音楽やらないって。あのユーマが、音楽を嫌いになるわけないのに。あんなに生き生きとして、ピアノ弾いてたのに。やめるなんて言うような奴じゃないんだよ、あいつは。だっていっつも音楽聞いてたし、音楽を嫌いになるなんてありえない」


 このまま話を聞いていていいのだろうか。

 俺の心配をよそに、大輝はつらつらと話し続ける。


「ユーマは全部兄貴と比べられるから、負けないように頑張らなきゃって言ってた。昔はよく一緒に遊んでたんだけど……じゃこんな冷たい関係になっちまった」


 そう言って大輝はうつむく。

 話を聞いていると、少しだけ、御堂悠真という人間がわかったような気がした。

 負けず嫌い。兄弟間で比較される。そして敗北、挫折を繰り返したのだろう。

 人はずっと勝ち続けるなんてできない。誰でも負けることはある。受験しかり、勝負事しかり、だ。


 そこからどうつながって、「音楽が嫌い」という結論に至ったのかはわからない。

 だけど親父が好きだった音楽。それを否定されるのは嫌だった。

 俺が味わった、あの興奮する音楽を。

 みんなを奮い立たせる音楽を。

 人を変えられる音楽を。


「なら」


 一つ、ひらめいた。

 それを、ぶれのなく、信念を込めた声で言う。


「あいつが嫌いになったっていう音楽で、嘘つきなあいつを変えてやろうじゃねえか」


 俺の提案に、大輝が顔を上げた。

 一瞬だけ驚いていていたが、大輝は強い目をしていた。

 だが、すぐに大輝の頭上に「?」が浮かぶ。


「音楽は人を変えられるんだよ。あいつが音楽を嫌いって嘘つくなら、音楽で本音を引き出してやろうじゃねえか。音楽は楽しい。やっぱり音楽が好きだってな」

「そんな簡単に言っても、できるわけ――」

「できる。俺たちなら」


 確証はない。

 だけど、自信があった。

 鋼太郎にも言ったが、音楽は人を変えられる。

 音楽は人の心を揺さぶる。

 人を変えられる。

 だから大輝が「できるわけない」と言いかけたのを遮った。


「……なんか、そう言われるとそんな気がするな。キョウちゃんが言うなら、変えられるかもしれないな! 俺、頑張るから!」

「ああ!」


 目の前の人、一人を変えられなくて何がプロになるだ。

 手始めに、御堂悠真を音楽で変えて見せる。

 音楽の可能性を見せてやる。


「ひとまずは、瑞樹と鋼太郎に話して、今後の予定を立てる。ボーカルだからって何も練習することないって訳じゃないからな。そうだな……六月には一曲できるようにするぞ」

「おうよ!」


 やる気と希望に満ち溢れた声が、響き渡った。



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