民俗学者はウンディーネの夢を見る

佐野N

序章-sideB


考えたことがあるだろうか。

自分の生まれ育った地域だけの風習や、当然のように思っていることが他の国ではありえないものだと言うことを。

僕はそれを確かめる為に、民俗学者になった。

そして今。

その決意を果たす時が来た。

僕のことは忘れて。そして幸せに生きてくれ、█████──。



「そう、兄さん。私ね、今回の儀式で巫女になる事が決まったのよ」

妹の凛とした声がリビングに響く。久しぶりの朝食に口をつけた所だったが、一気に食欲が失せた。

「……本当に?オリヴィアが、今回の?」

「そうよ兄さん。だから今帰ってきてくれて良かったわ、もう会えなくなると思ってたもの」

会えなくなる。……そう。巫女に選ばれた者は儀式の後、二度と姿を見る事は無い。永遠の別れを告げる事になる。

儀式とは洞窟に入り、湖の水を汲んで飲むことだ。だが巫女は帰って来ず、洞窟の入口に現れるのは歪んだ姿の獣なのだ。それも馴染み深い織物を体からぶら下げた。そしてこれからの村の安泰を告げた後、そいつは息絶える。これで村の平和は約束されていた。現にその儀式を実行している限り、この村に災いは訪れていないとか。

黙り込んだ僕を後目に、妹は続ける。

「良いの。もともと村で1番気の強い若い女性が巫女に選ばれるんだし。きっといつか選ばれると思ってたわ」

「……オリヴィア、君は確かに強い。だけど……」

……おかしいとは思わないのか?

元々僕はこの風習が理解出来ず、村を飛び出して民俗学者になった。昔仲の良かった歳上の女の子が巫女に選ばれて、美しく着飾って儀式の場に赴く彼女の涙を忘れることが出来なかった。後悔して、僕は……

「兄さん。気持ちは分かるけど、私は村の安泰に貢献できるならいいのよ。別に織物とかを学ぶのは好きでもないしさ」

……やっぱりダメだ。2度もなんて。

「……ちょっと出かけてくる」

「兄さん?ちょっと!……あぁ、首飾り忘れて……」

今年は星の歪みを直す為に、一日だけ儀式の日がズレている。今日しかないのだ。

調査用の鞄を引っ掴み、家から飛び出す。まだ早朝だ。儀式の場にはまだ誰も居ない。

洞窟の前で、一息をつく。儀式のある洞窟だ。この洞窟には少しだけおかしな所がある。入ると急速に喉が渇き、水筒の類の水分も蓋を開けてしまえば飲む間もなくすぐに無くなってしまう。外のものが空間に立ち入るだけで水分を奪われる空間なのだ。

動じないように。やるべき事がある。

背後から冷たい風が吹く。湿気た風が洞窟に飲み込まれていくのに合わせて、僕も足を踏み入れた。

一歩一歩暗闇に向かう度、カンテラの光が強くなると共に口の中から水分が奪われていく。強烈な渇きは僕の判断を鈍らせていく。だからといえ、止まる訳には行かない。

奥へ、奥へと進む。気の強い女性が選ばれるのは恐らく、この苦痛に耐えられるかどうかなのだろう。

開けた場所に出る。最早何もかもを絞り尽くさんとしているかの如く口を開く空間が待ち構えていた。地面は真っ黒で、妙に反射している。これはまさか……そう思った瞬間、多めに入れてきたはずのカンテラの燃料さえもが僕の頬を撫でていった。

不安定な灯りが目に入った……突如、ぐらりと体が傾く。身体に力が入らない。……目眩だ。水分が奪われた事による、脱水症状。

地面に身体を打ち付けてしまう……そう思い身構えていると、ドボンという音と共に、冷たい……身体そのものが焦がれた物に身を包まれる。……水だ。真逆、この洞窟で?あぁ、そうか。そうだ。

口から空気が漏れる。まずい。これは、この水は。とてもまずい。急いでどうにか這い上がろうとしようにも、上手く体を動かせず多めに水を飲んでしまう。

一旦落ち着き、硬い岩を掴み、身体を引き上げる。先程まで感じていた渇きはすっかり無くなっている。だが僕は、これがどういうことか知っている。知っているからこそ──

「っが、あ……ッ」

──苦しみが身体を劈いた。

身体を巡る何かが、己の体を引き裂き、突き破り、呑み込んでいく。

陸にいるはずだ。なのに、今僕は溺れそうになっている。悶え、身を屈めてふと気づく。湖面、カンテラの消えかける光に照らされた己の姿は、酷く醜いものだった。顔がボロボロと崩れ落ち、右腕は肩先から千切れている。断面からは黒い水が流れ落ち、背中の翼や角は黒光りし、ポタリポタリと水滴を落とし続けていた。

揺れる光がますます弱まり、辺りは暗がりに呑まれていく。どうにか、どうにかならないか。もがき続ける。されどそう、長くは続かず。左腕が崩れ始めた……そう思った瞬間、何もかもが暗闇に呑まれた。暗がりに閉じ込められる。最早身体の感覚はない。だが既に失われた頬を撫でるように、ちぎれ落ちた腕を這い上がってくるように……意識さえも何かが飲み込もうとしてくる。

いいや。いいや!負けてたまるものか。身体は渡そう。でも…精神まで食い尽くされてたまるものか。せめて1晩くらいは耐えてみせる。

僕は君を助けたい。

だからどうか僕を見つけて、オリヴィア。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る