グラウンドに響く始まりの合図(ホイッスル)

シャルロット

グラウンドに響く始まりの合図(ホイッスル)

 ポケットからiPodを取り出し、イヤホンを耳につけた。かじかんだ指で電源を入れ、ミュージック画面を開いて再生ボタンを押す。いつもの曲がかかる。最近この歌手のエンドレスループだ。普通なら飽きてしまいそうなものだが、この人の曲は何度聞いても飽きない。流れてきたのはついこの間買ったばかりの新曲だ。空で歌えるようになったその曲にループをかけて歩き出す。


 街を歩くと結構寒い。さすがに二月だけあって、行きかう人もコートにマフラーをまいて、手袋をつけた手を擦り合わせている。僕もマフラーを少しきつく巻きなおす。でも今住んでいるところでは、雪が降り積もると大学までの少しの道のりも結構大変だ。それに比べると故郷の冬はずっと過ごしやすい。昨日の土曜日に弾丸で帰ってきたから、あんまりゆっくりもできそうに無い。月曜日が祝日だったのが幸いだった。


 CDショップの前を歩くと、人気アイドルグループの新曲のポスターが貼ってあった。その横に、いま僕が聞いている曲の宣伝もあった。ギターを抱えた女性のシンガーソングライガー。その写真を横目に見ながら、僕は見慣れた街並みを歩いていた。優しく透き通る声で紡がれる甘くて切ない言葉たち。彼女の思いが詰まった言葉の一つ一つは、どれも心の響く強い力を持っている。空を見上げるとどこまでも突き抜けるような淡い青。この青さが少し切ない。


 長い坂を登り切ると数年前に通っていた自分の高校が見えてきた。校舎も、図書館も変わっていない。門を通ってまっすぐ進む。左手には僕が部活で使っていた北校舎がある。さらに坂を上ると右手にグラウンドが見えた。サッカー部が練習しているらしい。白と黒のボールを追いかける高校生。高校二年の冬のある夕方、僕もあのグラウンドに立っていた。




 あの日、誰もいないグラウンドで僕は一人ボールを蹴っていた。サッカーをやったことなんてほとんどなかったから、どの球もゴールにはちっとも入らない。でもそんなことはどうでもよかった。暗くなる空。俺は―――その頃は自分のことを俺と言っていた―――ただ家に帰りたくなかっただけだったから。


 そんな俺のところに一人の女子が来た。秋穂だった。どうしてここにいるとわかったのだろう。でも俺は気付かないふりをした。ゴールは狙っているけれど、かすりもしないボール。それでも転がっている球を黙って蹴り続ける。


 秋穂はゆっくりと、俺の目の前にあるゴールへと近づいた。蹴ったボールが秋穂のすぐ隣を過ぎていく。でも秋穂は動かなかった。ただゴールポストに寄りかかりながら、俺をじっと見ていた。それでも俺は何も言わずにもう一度ボールをける。今度は秋穂の寄りかかっているのとは逆のポストにぶっつかって跳ね返る。ボールなんてどこへでも行けと思った。俺はもう一つボールを、今度はもっと強く蹴る。グラウンドにボールをける音だけが響く。


 ピーッといきなり高い音がした。はっとして顔を上げる。ホイッスルだ。秋穂はもう一度ホイッスルをくわえると思いきり鳴らした。


「何だよ!」


 俺は秋穂に怒鳴りつけた。短い距離なのに、秋穂と俺の間の距離がやけに長く感じられる。秋穂は黙っている。どうして?なんでだ?


 どうしてここにいるのが秋穂なんだよ!


 秋穂は俺にゆっくりと近づきながら、静かに、でもはっきりと言った。


「何があったの?」


 秋穂は悲しそうに、苦しそうに、でも優しい目をして近づく。


 その頃俺の家は平穏な場所ではなかった。家に帰るのも苦痛だった。いつも親に反抗していた。俺なんてどうせ。それがあのころの口癖だった。そんな俺にも好きな奴がいた。同じクラスの美冬だった。美冬はクラスのアイドルだ。勉強も運動もたいして出来なかった俺には初めから勝ち目なんてなかった。それでもいつかは、って思っていた。それが、美冬が男子と手をつないで歩いているところを見かけるなんて、さ。どうせ俺なんてダメなんだ。そう思ったら何もかも嫌になった。家にも帰りたくなくなった。誰とも会いたくなかった。だから一人グラウンドで、ただただボールを蹴り続けていたのだ。


 それなのに、そんな俺のところに秋穂は来た。もう空は真っ暗だ。


 秋穂は俺から数メートル離れたところで立ち止まる。


「辛いことがあるなら聞くから」


 秋穂はそれだけ言った。家のことも、美冬のことも秋穂に言ったことはない。同じクラスってだけで今では大して話をすることもない。それなのにどうして俺のことなんか構うんだ。


「心配、なの」


 俺の心を見透かしたようにそう答えた。腰まで届きそうなロングヘア。前髪は眉のあたりで切りそろえられている。二重の目と少しぷくっとした頬。背も小さくてリスのようだ。小学生がそのまま高校生になってしまったような少女。そう、あのころからちっとも変わらない。


「どうして俺のことなんか心配なんだよ!」


 口調が乱暴になる。いらいらしていたはずなのに、こいつの顔を見たら何だかそんな自分が情けなく思えてくる。


「心配だから、じゃダメ?」


 秋穂はいつも純粋だった。水晶のように透き通った秋穂の前で、俺の心は泥にまみれた粘土団子だ。比べたくなんかない。はじめから秋穂の清らかさになんて勝てない。


「どうせ俺なんてさ……」


 いつもの口癖が口を突く。すると秋穂は首を振った。


「『どうせ』なんて言わないで。昔はそんなこと言わなかったでしょ?自分のことも『俺』なんていわなかったよ?」


 秋穂の言葉はどこまでも真っ直ぐだ。そしてその真っ直ぐさは、ねじ曲がった今の俺には辛い。


「そんなこと、どうだっていいだろ?」


「よくないよ」


 また秋穂は頭を振る。かっこつけたつもりで、ぐれたつもりで、本当は突っ張っているだけのもろい俺が悲鳴を上げる。辛い。苦しい。悲しい。寂しい。そんなしおれた言葉が口から出そうになる。


「小学校のころ、わからない問題があったときとか私に教えてくれたよね」


 秋穂は俺の目をじっと見据えたまま話し始める。俺はつっと目をそらしてしまう。


「すごく嬉しかったんだ。私不器用で、でもそんな私のこといつも応援してくれた」


 そんな昔のこと引っ張り出すなよ。あのころはまだ子供だったんだ。今だって法律の上では子供だ。でも人にはどうしても大人にならなきゃならない時がある。今の俺が大人と言えるかはわからないけど、でももう子供には戻れない。


「中学は離ればなれになっちゃったけど、この高校目指してるって友達から聞いて、私、一緒の高校に行くために頑張ったの。だから合格して、四月から一緒の学校に行けると思ってすごく嬉しかった。でも同じクラスになったら・・・・・・なんだか昔とは違ってた……」


それ以上秋穂の苦しそうな声を聞きたくなくて話題を変えた。


「そのホイッスル、どっから持ってきたんだ」


 俺は聞いた。でも本当は覚えている。


「小学六年の時、一緒に学級委員やったでしょ。あのとき一緒に買ったホイッスルだよ」


「やっぱりか」


 クラスのみんなで長縄の練習をするために、二人で買いにいったホイッスル。たかが百円のホイッスルを買いに行くことが、あの時の俺には小さなデートに思えた。すごくドキドキする何かのように。そうだ。あの頃俺は、秋穂が好きだった。どこまでも、冬空の青のように純粋で真っ直ぐな秋穂のことが大好きだった。だから、本当は同じクラスになって嬉しかった。五年たった今でも、俺は秋穂の姿を追いかけていたんだ。でもそれは子どもっぽいことだと勝手に思い込んでいた。高校生なら高校生らしい恋がある。小学生の恋を引きずっているなんてかっこ悪い。でもそんな風に思っていた俺の方がよっぽどかっこ悪い。


「俺さ、今、辛いんだよ」


 気づいたらそう言っていた。秋穂は黙って頷く。それから俺はしゃべり続けた。家のこと。クラスのこと。美冬のこと。寂しい。苦しい。悲しい。そのすべてを秋穂は受けて止めてくれた。そして俺が話し終わってずいぶん経ってから、秋穂はそっと言った、


「辛い時に辛いって言えばいいんだよ。だって大人だって辛くなる時があるんだから」


 秋穂の言葉は俺の心の奥底にそっと沈み込んだ。そして凍り付いていた心を少しずつ内側から照らす。大人だって。大人だって辛いから。


「俺は子供のままじゃいられなかったんだ」


 その言葉の意味を秋穂に分かってもらえるかどうかは分からない。俺は近くにあったボールを目の前に置いた。そして正確にゴールを見据えて、蹴った。


 ボールはまっすぐゴールを貫いた。秋穂はホイッスルを高らかに吹く。


「ゴールだね。これで試合終了にしよう」


 もうこんなこと終わりにしよう。秋穂の言葉に俺はうなずく。秋穂は俺の顔をまっすぐ見上げる。


「そして始まりの合図だよ」


 そう言って秋穂は微笑んだ。俺は大人にならなきゃいけない。でも支えてくれる人はいつも傍にいる。どんなに辛くても、俺には秋穂がいる。そう思えた。




 夢から覚めるように周りの景色が戻ってくる。目の前にはボールを追いかけるサッカー部員。あの後きちんと家に帰って両親とも話した。それからしばらくして、母と弟と三人で暮らすようになった。いつしか『俺』という言い方も『僕』に戻った。そして念願の大学に合格してこの町を出た。転びながらも、僕は着実に大人へと成長した。


 秋穂にお礼を言いたかった。でも秋穂は高二が終わるのと一緒に転校してしまった。急なことで連絡先も知らないままだ。


 僕はいまでも秋穂が好きだ。あの寒い冬の夜、僕のことを秋穂は丸ごと全部受け止めてくれた。そばにいた秋穂の温かさは今も忘れない。あの時好きだと伝えていればよかった。それだけが後悔だ。


 ポケットから紙を取り出す。今もiPodから流れる曲を歌っている歌手の、コンサートのチケットだ。今までそういうのには行ったことがなかったけれど、今回は行ってみようと思う。


“君と過ごした日々”


 この曲のそのフレーズが好きだ。秋穂と過ごした日々はかけがえのない日々だった。君もそう思っているのかな。でも今は君の言葉を信じようと思う。


 母校のグラウンドに背を向ける。そして歩き出したとき、ホイッスルが鳴った。はっとして振り向く。グラウンドにはまだ走りまわる高校生。もう一度前を見る。そこには女の人の小さな影。にっこりと笑った顔と手に持った小さなホイッスル。二月の少し冷たい風は、彼女の長い髪をふわりと撫でていく。

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グラウンドに響く始まりの合図(ホイッスル) シャルロット @charlotte5338

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