序章

 夢なのか、昔の記憶なのかよく分からないもの。そんな場所に彼女は立っていた。

彼女の目の前には、二人の男女がいる。


「退職届 木崎桃華きざきももか


 そう書かれた書類を前に、年配の男性と女性が話をしていた。女性を見て、あれは自分だ、と彼女は確信する。


 木崎桃華。それが彼女の名前だった。年齢は、二十六歳で社会人生活四年目に突入しようかというところ。しかしこの会社での彼女のキャリアは数か月後に終わりを告げる予定だ。


 肩まで伸ばした黒髪に、たまご型の顔。本来大きな瞳は、今は細められ、何か決意を含んでいるように見えた。


 ふと視界が揺らいだかと思うと、今度は別の場所に桃華は立っていた。さっきの映像も、今度のイメージも、自分のかつての記憶なのだと彼女は思う。


 アスファルトの道路の上に、かつての自分が横たわっているのが見える。その少し先には乗用車が一台。大きく凹んだその車体から、人が飛び出してくるのが見える。


 桃華はこの時、かつての自分がどんなことを思ったのか鮮明に覚えていた。


『ああ、もっと本を読みたかった。もっと小説を書きたかった……』


 やりたかったことが頭の中にあふれながら、視界が真っ暗になったこと。それが、桃華に残った最後の記憶だった。


――

 桃華が目覚めたとき初めに目に入ったのは、木製の天井だった。周りを見渡すと、自分の体に、毛布がかけられていることに気づく。


(この毛布、すごくチクチクする……)


 桃華はそう思いながら、半身を起こした。ギィギィとベッドの木枠がきしむ音がした。ふと傍らを見ると、大きなピンクの物体が目に入る。ちょうど、ハートを上下逆にして置いた形。なんだか昔見たことのある形のように思う。


 その物体は、しゃがめば大人が一人おさまりそうな大きさをしていた。そっと触ってみると、ふわふわで少し甘い匂いが風に乗ってやってくる。


桃華はそっとベッドから降りる。木の床が、ミシミシ音を立てる。部屋に一つしかないドアは閉まっていた。ゆっくりとドアを開けようとしたとき。外から話し声が聞こえて来た。


「桃から生まれたってことになるのか? それじゃ、あの言い伝え通りじゃないか」


 一つの声が言う。声からして、男性の声だ。話をよく聞こうと、桃華はドアにぴったりと耳をくっつける。


(桃? 桃って、なんだっけ……)


そこまで聞いて、桃華は背後に置いてあるピンク色の物体を振り返る。そして、物体が「桃」と呼ばれるものだと思い出す。その時、ドアの向こうから別の声が聞こえてきた。


「いや、言い伝えでは男のはずだ。でもあの子は、そうじゃないみたいだねぇ」


 今度は女性の声だった。


「そもそもあの言い伝えは本当なのかねぇ。桃から生まれた男が、村を救うなんて」

「桃には魔力が宿っていると昔から言うじゃないか。きっとそうだよ」


 ドアの向こうの会話に耳を傾けながら思う。


(私、桃から生まれたの……?)


 そして、遠くからじっくりと桃を眺めた。人があの中から生まれるというのは、想像できない。

 それに、と桃華は自分の胸に触れる。大した大きさはないが、あるにはあった。


(……私、どうやら昔も今も女性みたいだし)


桃華は首を左右に振りながら、外の会話に集中する。


「赤ん坊じゃなくて、まさか大人がそのまま入ってるなんて、驚きだねぇ」


 女の人の笑い声。男の人は、少し深刻そうな声で言う。


「本当だよ。でもこれからどうしようか? ずっとここにいられても困るし」

「男でも女でも関係ない。鬼退治に行ってもらうに決まってるじゃないか」


 女の人の声に、桃華はあわてる。


(私が鬼退治!? そんなの……)


「わ、私には無理です!!」


 思わず桃華はドアを勢いよく開いて叫んでしまった。

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