空海の系譜
1-1 説話集における空海 『今昔物語集』の空海
弘法大師こと空海についての『今昔物語集』においての説話。
結構長い説話ばかりである。
というか『今昔物語集』は基本お話長めなせいか、お話のまとめ書いただけで3000文字超えたので覚悟をしてほしい。
※次ページの超ざっくりまとめでいい人はこちらから→https://kakuyomu.jp/works/1177354054894714390/episodes/16816452220475292835
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『今昔物語集』 巻十一
九
昔、弘法大師という僧がいた。
佐伯氏の生まれで讃岐の国、多度の郡、扇風の浦の生まれである。
この人の母親は「尊い僧が腹の中に入る」夢を見て懐妊した。
また、5、6歳の頃に泥で仏像を作り、草木で堂の形に建てたりし、夢の中では八葉の蓮華の中で多くの仏と語らう夢を見たが、それを両親や周囲には語らなかった。
両親はこの子を敬い尊び、またある人がこの子を見ると四人の童が常に従って
また、母親の兄の一人が五位の貴族であったため、この人のもとで漢文を学び、15歳になると都に出て毛詩・左傳・尚書などを学んだが、弘法大師は仏教の道を志した弘。
法大師は全国に遊行し、ある時、阿波国の大龍の
そうして槙尾山寺で出家をし、名を教海とした後、如空と改め、22歳で東大寺の戒を受けた際に空海と名乗るようになった。
ところがどれだけ経を読んでも、空海は悟ることができずにどうすればよいのか思案していた。そうしていると夢に人が出てきて「
目が覚めて、喜んでその経を探すと大和国の久米寺にその経を見つけたが、これを読んでも悟ることはできず、日本中を探しても、この経を知っている人はいなかった。
そこで、弘法大師は唐に渡って習おうと考え、遣唐使とともに、唐に渡った。
蘇州や福州を経て後、長安の西明寺に移り、青龍寺の恵果の許を尋ねると、恵果は弘法大師を見て笑い、
「お前が来るのをずっと待っていた。今日出会えたことは幸いだ。
私は法を授けるべき弟子がいないからすべてお前に授けよう」と言った。
そうして弘法大師は修行を始めたが、玉堂寺の
「いかに尊い日本の僧でも門徒ではない以上、秘密の教えを授けるのはいただけない」と再三言ったが、すぐにその夢の中に人が現れて
「日本の僧は菩薩である。外は小国の僧であるが内に大乗の教えの心を秘めている」と言って
また、唐の帝に求められ、弘法大師は筆を口と両手足にとって、五つの文を同時に書いたため、五筆和尚という名と菩提子の念珠を賜った。
ある時、長安の中を見て回っていると、ある川のほとりに一人の貧しい衣を着て髪の毛はヨモギのようにぼうぼうとした一人の童子が
「お前が五筆和尚か」と問うた。
弘法大師が肯定すると、童子は川の流れに字を書くように言ったので、弘法大師は清い水をたたえる詩を川に書いた。
するとその文字はそのまま崩れることなく流れていき、これを見た童子は笑って感心するさまを示した。
そしてまた童子は「これから私が書こう。和尚はこれを見ていなさい」と言って、水の上に「龍」の字を書いたが、右の点が足りなかった。
この童子が書いた一画足りない「龍」の字は崩れず流れなかったが、弘法大師が足りなかった点を付けた途端、音を発し光を放ち、その文字は竜となって空へと昇っていった。
この童子は文殊菩薩であったので、すぐに消えてしまった。
弘法大師は日本に帰る際に、岸部で
「私が学んだ密教を伝えることがふさわしく、
その後、日本に帰った弘法大師は宮中の門の額や応天門の額を書き換え、すべての人がその筆跡に手を打ち感じ入った。
また、あらゆる宗派の学者と即身成仏について議論している際に、学者たちの疑いを晴らすために、弘法大師は清涼殿で南に向かって大日の定印を結んで念じた。
するとその顔の色は金属のようになり、その体からは黄金色の光が放たれたので、すべての人がこれを
このような霊験はどれほどだろうか。
そうして真言教を広め、嵯峨天皇の護持僧として位を授かり、この国に真言宗が盛んに広まるようになったという。
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『今昔物語集』 巻十四
四十
嵯峨天皇の御代に弘法大師という人がいて天皇の護持僧だった。また、山科寺の修円という人もまた護持僧としてともにつかえていた
この二人はともに仏道に励む者だったので天皇も不平等に扱うことはなく、弘法大師は唐に留学に行って真言宗を伝え、修円は密教を深く志して、修行を行っていた。
ある時、修円が天皇の御前にいた時、生栗があった。天皇はこの生栗を煮てこいと言ったが、それを見た修円が法の力で煮ることを提案した。
天皇はそれを受けて、修円に加持をさせ生栗を煮させてみると、とてもよく煮えたので、天皇はこれを尊び、味もよかったので、何度もそういうことを行わせた。
天皇がこれを弘法大師に語ると、弘法大師は「それならその時に自分は隠れて見ていよう」と言った。
そうして天皇に呼ばれた修円がいつものように生栗を煮ようとしたが、何度やっても煮えなかった。
修円が「これはどうしたことか」と思っていると、弘法大師が姿を現し、修円は「こいつが邪魔をしていたのか」と悟り、嫉妬の心を芽生えさせた。
その後、この二人は仲が悪くなり、互いに「死ね」と呪詛しあったが、この呪詛が拮抗していたため、そのまま二人とも生きていた。
これを受けた弘法大師は策を考え、弟子たちを市にやって葬式の道具を揃え、弘法大師が死んだことを言うように言った。
修円の弟子が弘法大師の弟子たちが言ったことを聞き、喜んで修円に知らせに言った。
修円はこれを聞いて喜び、自身の呪詛が完了したと思った。
弘法大師はその様子を伺い、修円が自身の呪詛が完了したと思っていることを知ると、すぐさま修円を呪詛したので、修円はすぐに亡くなってしまった。
その後、弘法大師は「修円を呪詛して殺したが、長年自分に挑み、時に自分が勝り、時に向こうが勝った。そうして長年を経たということは修円は決して
そこで加持を行うと壇の上に
これを考えると菩薩がこういうことを行うのは、その先の悪行を辞めさせるがためという。
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『今昔物語集』 巻十四
四十一
昔、とある天皇の御代で全国的な干ばつが起き、天皇をはじめすべての人がこれを嘆かぬことはないということがあった。
その時に弘法大師を天皇が召し、
「どうにかこの干ばつを止めて、雨を降らせ、世間を助けてほしい」と言った。
弘法大師は「私の学んだ術の中に、雨を降らす術がある」と答えたので、天皇はすぐにその術を行うよう命じた。
弘法大師は
七日ほど行った後、壇の上に五尺ばかりの蛇が現れ、よくよく見ると、五寸ほどの金の蛇を頭に乗せていた。
しばらくたってからこの蛇は池に近付き、池の中へと入っていった。
この時、お供の僧が二十人ほど並んでいたが、この蛇を見ることができたのはすばらしい四人の僧のみであった。
これを見たお供の僧の一人が「この蛇が現れたのはどういうことですか」と弘法大師に問うと、
「お前は知らないのか。あれは天竺にある
その竜王がこの池にやってきたのだから、この術がかなうだろうと現れたのだ」と答えた。
すると、すぐに空が曇り、北西から黒い雲が湧くと、全国に雨が降り、干ばつは終わった。
これから後、全国的な干ばつが起きた際には弘法大師の流れを受けてこの術を伝えられた人により、神泉苑でこの術が行われるようになった。
そうすれば、必ず雨が降り、僧には恩賞が与えられることが定められたというのはこの例のためである。
今も絶えることなしと伝えられている。
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長いのでまとめは次ページ。
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