お狐さんの話

1 古今著聞集の狐

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巻第六 管弦歌舞

知足院忠実ちそくいんただざね大権房をして陀祇尼だきにの法を行はしむる事ならびに福天神の事


藤原忠実は何か願い事があったので、大権房という霊験あらたかな僧に咜祇尼だきにの法を行わせた。

何日までと決めて結果を待っていたが、この期日が差し迫ったので大権房を呼んで聞くと、「今七日下さい。それでも験が出なかったらもう七日下さい。それでなければ流罪にしてください」と自信たっぷりに言った。

七日後、道場に人を恐れない狐が現れた。

そのさらに七日後には忠実の夢に美しい女性が現れ、目が覚めると握っていたその女の髪は狐の尾に変わっていた。

その後願いも叶い、大権房を有職に成して、自分も咜祇尼だきにの法を習い、特別な願望がある時には自分で法を修めていた。

狐の尾は本尊として祠を作って福天神として祀ったという。

この福天神は不思議が多く、寛喜元年の頃に七条院に邦成くになりという越前の目代の者がいた。

その息子は左衛門尉某さえもんのじょうなにがしと言って隆房たかふさに仕えていると、夕暮れに屋敷から出た時に、他の者には聞こえない素晴らしいことの音を聞いた。

その後、家で胸苦しさを訴え、モノにとり憑かれたようになった。

どうにか西の方に行こうとするので押さえたが、法深房の家を指したので法深房を呼ぶと、人を払い、琵琶やこと催馬楽さいばらなどを求め、法深房が応えると大いに喜び、左衛門尉さえもんのじょうから離れると言った。

しかし、再び以前よりも暴れたので、法深房を再度呼ぶと「まだ、聞いていない事があった」と言って琵琶やことを所望した。

その後、夜が明け、犬が部屋を嗅ぎまわり出すと、左衛門尉さえもんのじょうが不機嫌になったので、憑いているのが福天神だとわかり、犬を追いやってから、福天神の元で楽を奏する約束をして左衛門尉さえもんのじょうから離れるように言った。その後、左衛門尉さえもんのじょうは臥して四時までは起きれなかった。

法深房はその後姉妹達を誘って福天神に行ってことや琵琶を奏したという。


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巻第十七 怪異・変化

大納言泰通だいなごんやすみち狐狩催さんとするに老狐夢枕に立つ事


藤原泰通の五条坊門高倉亭は父親の代からの古い家で、狐が人を化かす事が多かった。

年をるとその頻度がさらに多くなったため、狐狩をする事になった。

その夜、泰通は、西の庭の柑子の木の所に木賊とくさ色の狩衣を着た童子形の老人が現れる夢を見た。

この老人は、自分は狐で、これ以降は泰通の家を守り、吉事がある時は姿を現そうと言った。

夢から覚めて庭を見ると、老人がいたところに年老いた狐がかしこまっていた。

不思議に思ってその日の狐狩は中止にすると、その後は化かされる事はなくなった。


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巻第二十 魚蟲禽獣

承平のころ狐数百頭東大寺の大仏を礼拝らいはいの事


承平の頃に狐数百匹が東大寺の大仏を礼拝らいはいした。

皆がこれを追い払うと、人に憑いて「長らくこの寺に住んでいたが、この大仏像が焼かれてしまうので礼拝らいはいした」と言った。


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第二十 魚蟲禽獣

或男あるおとこ朱雀大路にして女狐の化したる美女にひてちぎる事


ある男が日暮れ後に朱雀大路で美女と出会い、口説いたがつれない反応を返され、女は「貴方が死ぬことになる」とまで言った。

それでも男が強く言うと、女は「ならば代わりに私が死にましょう。私を憐れんでくださるなら、法華経を書いて供養してくださいまし」と言って了承した。

明け方になると女は男の扇を取って「私の言った事は嘘ではございません。その証が見たいならば、武徳殿ぶとくでんの辺りを見てください」と言って別れた。

朝になり、男が武徳殿ぶとくでんに行くと、男の扇で顔を覆った狐が死んでいた。

男は悲しんで、七日ごとに法華経一部を書いて供養した。四十九日にあたる夜に女が天女に囲まれて表れ「法華経のおかげで、忉利天とうりてんに生まれることができました」と夢で告げて去っていった。

この話は法華伝(本朝法華験記)にもある。


※実際『本朝法華験記』に載っている。しかもこの話の前後一話ずつも『本朝法華験記』に同話が載っている。

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『古今著聞集』は全二十巻三十分類からなる橘成季たちばなのなりすえがありし日の有職故実を後世に残す目的で、1254年に作成し、後年増補が行われたと思われる説話集である。

『宇治拾遺物語』や『今昔物語集』と並べて日本三大説話集とか言われるが、他二つと比べて研究の人気はない。「先行研究がありすぎるのも問題だが、先行研究がなさすぎるのも問題である」とは、これを題材にした卒論の時に、『源氏物語』専攻した友人と嘆いた時の結論(余談)

その一端は物語と呼ぶにはあまりに記録然とした文章というのがある気はする。端的に言うと、成季なりすえさん曰く事実ベースのため、割とよくオチがない。

とはいえ、注目すべきはその分類の細かさであり、分類と収録された話の比較により、橘成季たちばなのなりすえの意識として、その話のどこに重きを置いて分類したかがうかがえるのである。


そういった意味で先に挙げた話を見ると、福天神のお話は咜祇尼だきにに重きを置いているわけではない。

なぜなら、そこに重きを置いているのであれば、『古今著聞集』上、管絃歌舞という分類は相応しくない。神祇あるいは釈教に分類されるべきなのである。

というわけで、この福天神で第一に重きを置かれているのは音楽関係の事なのである。まあ福天神祀った忠実さん自身、ある程度名手ではあったらしい。

あと、法深房は成季なりすえの琵琶の師匠である藤原孝時ということなので、神をも慰める法深房の楽才という意味で、身内贔屓の気もあるかもしれない。


その一方で、変化に分類された、夢枕に立つ狐の話。

これはたびたび怪異を起こしていた狐が「もうしないから狩らないで」と約束した話であるので、変化への分類は妥当である。

「たびたび起きている」時点で、致命的な怪異を起こしたわけではなくいたずら程度が積み重なった結果の狐狩りと考えられる。


残る二つ。

魚蟲禽獣に分類された、東大寺の狐、朱雀大路の狐。

魚蟲禽獣、つまりは動物の話であることに重点を置いて分類されている。

東大寺の狐の話はどういった話か、というと、狐の信仰心についての話と考えられる。ちなみに仏教では礼拝は「らいはい」で「れいはい」はキリスト教である。

朱雀大路の狐も同じく、法華経で供養してくれと言うあたり信仰心の強い狐であるが、同時に男の身代わりに死ぬという獣ではなく人間に通ずる情の深さをも描いた話である。

実際、この魚蟲禽獣には割とまるで人間のような所作・感情を示す動物の話も多く収録されている。「武田太郎信光たけだたろうのぶみつ生捕いけどりたる猿の事ならびにさるしゃまぬかれんとし牝鹿を指す事」とか。


なんにせよ、これらの狐の話は怪異を起こすとしても、そこまで大事にはしない害意のない狐の話なのである。


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