第二話 うみなり屋の忍び

 蚊やりの煙にいぶされながら、は味噌の香りを鼻いっぱいに吸い込んだ。

 どじょうは味噌鍋に限る。

 特に夏の終わり、疲れがたまる時分には。

 湿度の高い南西からの風が吹きだまる名古屋の夏は、すこぶる暑い。

 これでもかというくらい暑い。

 甲冑であちこち駆け回り、蒸されなれたみぎわでも、うんざりするほど暑い。

 だから精をつけなくてはならない。

 こんな姿を仲間に見られたらぼこぼこにされるような気もするが――まあいいか。

 みぎわは、たるんでいるのではないのだ。

 常の姿、すなわち市井の人々を完全に真似することで忍んでいるのだ。

 くつくつと煮える鍋から汁をよそってぶっかける。

 どじょうは店の裏の江川で取れたもので、泥臭くなく誠に絶品であったでえりゃあうみゃあ

 八丁味噌と野菜のうまみをぶっかけられた米は、戦場往来で嫌というほど味噌を舐めて生きてきた身にとっても、泣くほどうまい。

「ああー、極楽」

 と、みぎわは、思わず言った。

 ぼんやりと空を見上げると、もう雲だけはいっぱしの秋の顔をしている。

 その空のもと、名古屋城大天守五重目の屋根が傾いた日輪を受けて輝いていた。

 名古屋城は、天守の最も高い部分の瓦だけが銅葺きになっている。

 それは質素倹約――言うてしまえばケチな徳川家の考え方の反映のようにも思われるが、実はそうではない。

 大天守小天守のすべての瓦が銅葺きだったら、と思うとみぎわは身震いする。

 年がら年中、朝から晩までそのド派手で恐ろし気なぴかぴか屋根を見る?

 間違いなくうんざりするだろう。

 町人の目線、地べたからの目線から見て、あんまり派手過ぎるのもいい加減にしろよたーぎゃーにしてちょうよお気楽な殿様どもめという反感をあおるだけだ。

 そんな下々の心情までも計算して造られているのではないか、と思わせるほど隙の無い城。

 淡く夕暮れに染まる白壁は愛染明王の腕のようで、この名古屋城の御膝元にいれば何も怖くない、負け戦の慄きを味わう心配はいらないのだと、言葉なき主張が聞こえる。

 その名古屋城を造れと命じた人が、みぎわの主の主だった。

「うーん、滅茶苦茶すごいどえらけにゃあとこに勤めてたんだなあ、儂ってば」

 というようなことを噛みしめつつ、日々の命が繋がって、おまんまが食えればこれすべて問題なし、というのがみぎわの思うところであった。

 縦糸をぴんと張れば、徳川家康公配下の服部半蔵率いる鳴海伊賀衆の端っこにいるのがみぎわという男である。

 一応、忍者の端くれだ。

 糸を弾くと落っこちてしまうほどの端っこだが、当人にあまり劣等感は無い。

 そもそも服部家は既に伊賀頭領の座を既に解かれてしまい、鳴海伊賀衆も解散帰農し、今の名古屋を護るのは甲賀衆の役割となっていた。

 だから既に糸から落ちていると言っても間違いではない。

 それでも、みぎわは己の任務を遂行することに誇りを持っている。

 名古屋を平和な都市として存在させること。

 徳川家康公がそのように名古屋を設計されたのであれば、それ即ち服部半蔵様が命ぜられたことに等しい。

 もはや天の上に行ってしまった主の命として、今、みぎわはここにいる。

 それが、凡たる忍びのみぎわの役目、凡たる忍びにしかこなせない使命。

 野心もなければ殺気も皆無、鍛錬で目立った成績を上げたことも無ければ、戦場で功を立てたことも片手で足るし、顔立ちだってどこの山から切り出した木偶かとむしろ疑われるほどの凡なみぎわの、それは唯一誇れる立ち位置なのであった。

 風が吹く。

 雑草がざわりと揺れ、バッタが飛んだ。

 歓声を上げて追いかける農民の子ら。

 慌てることなく後ろを歩む、擦り切れた着物に包まれた母の貫禄。

 その穏やかな姿に目を細める船着き場の男たち。

 材木屋の主が手を止めた船方にきいきいと怒る。

 振り売りが笊に売れ残りの山菜を載せて、少し肩を下げて歩いて行く。

 意気消沈した山菜売りに声をかけたのはどこの商家のおかみさんだろうか。

 たちまち値段交渉が始まる。

 みぎわは、耳をそばだてて聞いていた。

 忍びは耳が良い。

 一度聴いたら忘れぬように仕込まれている。

 凡なるみぎわも、それくらいは流石に――、

「頼もう!」

 耳を澄ませた矢先の大声に、みぎわは箸を取り落とした。

「うみなりや殿、いらっしゃいませぬか!」

 店の戸を叩く音。

「うみなりや殿!」

 声は、まだ若い。

 むしろ青臭いと言えようか。

 血みどろの戦場など、一度も見たことがないかもしれない。

 みぎわの耳には嫌みなほど純に響く。

 戦の数が少なくなるにつれ、こういった手合いが増えていた。

 みぎわは青二才が嫌いではなかったが――ただ夕飯時に来たというだけで嫌いになる。

「お留守かな!」

 と、若者は独り言まで大きく言った。

 元気である。

 彼が呼ぶところの「うみなりや殿」であるみぎわは、知らんぷりを決め込もうと思った。

 もう少ししたら若者は諦めて、回れ右をするだろう。

 するに違いない。

 いや、してほしい。

 何故って、夕飯時に押しかける馬鹿たあけほど鬱陶しいものは無いのだから。

 鍋が煮詰まってしまうし、そもそも箸を落とした。

 ちょいちょいと歩けばすぐそこを江川が流れている。

 早く洗いに行かせて欲しい。

 ただ流石に動けば足音で気づかれるだろうし、それは嬉しくない。

 みぎわは待った。

 なんなら日頃薄い信心をここぞとばかりに奮い立たせ、神仏に祈ってもみた。

 彼のものを疾く去らせ、儂の夕飯に平穏を。

 しかしその願いに反して若者は、

「では待つか!」

 と言い放って、店先にすとんと腰を下ろした。

 だから神も仏も嫌いなのだ。

 みぎわは、眉間の辺りを指でもむ。

 それから決心して、やおら立ち上がった。

 よし、どじょう味噌鍋の分まできっかりと商売させてもらおうじゃにゃあか。

 どこの誰が寄越した若造か知らんけどよう。

 できるだけむっとした表情を作ってから、みぎわは店先に顔を出した。



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