第002話 少年のように
役所に揃って行ったのは、婚姻届を出す時以来かもしれない。なんだかそれが懐かしいなと思い出に浸っていれば、妻に袖を引っ張られた。
「何してるんです。こっちですよ」
「お、おぉ……」
あの頃の、袖を引っ張るのにも一々頬を染めていた妻はいない。昔を思い出し過ぎて虚しくなったのは秘密だ。
小さな会議室が並ぶ場所。その前で、二人のスーツ姿の三十前後の若い男女が待っていた。
「
「はい。ほら、行きますよ」
「お、おお……」
妻に急かされながら、その二人へ近付いていく。相手はきっちりスーツでキメているのに、自分達は本当にその辺に買い物へ行く気軽な服装だ。不安に思ったが、受からなくても問題はないのだったと考え直す。いったい自分は何にビビっているのか。
「よろしく頼む」
「ふふ、はい。ではムネノリ様はあちらへ。ヒサコ様は私とこちらにお願いします」
「え、別……」
別々でと言われ、先ほど決まった心が揺れた。そんな情けない思いを察せられる寿子が背中を叩く。
「シャキッとしてください。投げ飛ばしますよ」
「ま、待て。外では思っても言うなって……」
そして言ったらやるのが寿子だ。七十を過ぎていてもやる。お陰で、受け身は世界の誰よりも上手くなったと思っている。
この歳になると、表情が出にくい。それが救いになっているのも知っている。
宗徳は、これまで一言も発していない男が開いた部屋の中へ入った。
そこは小さな個人面談に相応しい大きさの部屋。その中央にあるのは、簡素な木の机と椅子。これがアルミの机とパイプ椅子的なものなら、刑事ドラマの取調室かと思いそうな場所だった。ただ、ここの役所は数年前に改装工事を行ったばかり。それを考えると異様に見えた。
「そちらへ……」
ようやく喋ったかと思いながら、勧められた椅子に座った。男はそのすぐ後に向かいの席へ座ると、まっすぐに宗徳を見る。
その視線が、まるで野生の肉食獣のように一瞬感じられた。しかし、生来の負けん気がそれに負けてなるものかと見つめ続けた。ライオンだって、真摯に見つめ合えば、通じるものはあると思っている。
そうやって集中していた為、男の口が動いてもすぐに反応出来なかった。
「……らず、良い目をしている……」
最初の方は聞き取れなかったが、鋭い瞳が和らぐのを感じて推察すると『相変わらず、良い目をしている……』なのではないかと思えた。しかし、この男の顔も声も知らない。
だから、宗徳は今よりも眉間に力を入れる。一本縦皺が増えたのを確認したのか、男は苦笑して足下の机の脚に立てかけてあった薄いアタッシュケースを机の上に乗せ、開いた。
「うおっ!?」
宇宙の立体映像。そう呼べるものがアタッシュケースの中にあった。
宗徳はそれを横から上からと角度を変えて観察する。
「あ~、アレだ。その~、何って言ったか~、アレだよ、アレ!」
一向に出てこない。老いれば老いるほど幼い頃へと退行していくようで恐ろしい。
『ママ、アレ! アレなぁに』と言っているのと変わらない。伝わらないもどかしさ。知っているからこそ苛立つ。
「アレだよ! 何とかデー」
「デー……3デっ……3D映像と言いたいのか?」
「それだ! スリーデー!」
「Dだ。まぁ、これは仕方がないな……」
横文字は文字にし辛い。だいたい、小文字の『い』なんて、そうそう言葉で使わないのだから、突然対応できやしないと思っている。
幼い頃には小文字のや、ゆ、よを付けた言葉をどう読めばいいのか分からなかったように、戸惑いを感じるものなのだ。
「すげぇ時代だよな」
宗徳は、世間一般から見れば『頑固じじい』のカテゴリーに分類されるのだが、別に新しい物を受け入れないわけではない。何より、自分の知らない物を見るのは心が躍る。
自分には考えも及ばない物を見るのは楽しい。ただ、見るだけなら良いが、使う物は別だ。自分では扱えない物は怖い。
不安に思いながら使うのはストレスがかかる。今まで散々、苦労もストレスも経験してきた。だからこそ、こんな歳にもなってそんなストレスを感じながら使う意味が見出せない。
近いところで言えば、スマホだ。あれに憧れがない事はないが、使いこなせる自信がないから欲しいとは思えないという感じだ。
何か新しいものを始めたり、知りたいと思っていても、物事を覚えていられる自信が持てない。歳を理由に逃げているだけだと言われればそれまでだが、何かが出来るイメージが持てなくなるのだ。
しかし、変わらないものもある。
「好奇心を持つのは良い事だ」
「あ、すんません。許可もなくジロジロと……」
今も映像は消えていない。本当にそこに宇宙が切り取られてあるようだった。時折瞬くように光る星々。少しずつ動いていく惑星。美しいと思う。
寿子が言うには、宗徳は未だに少年の頃と変わらない瞳を持っているらしい。きっと、自分は今そんな瞳でこれを見つめている。
そんな宗徳が男には好ましく映ったようだ。子どもに教える時に見るような優しい眼差しを向けて言った。
「これはとある異世界のある宇宙だ。この世界の銀河系と似てはいるが、同じではない」
「ふぁんたじーってやつか?」
息子の徹はそんな異世界の話が好きだった。面と向かって話す事はなかったが、別に知らないわけではない。否定しているわけでもなかった。
宗徳が許せなかったのは、日がな一日部屋に閉じこもる事。徹が今の仕事に就けたのは、そんな世界観を好いての事だし、嗜好を否定しているつもりはない。
それでも、それだけになって、現実と非現実が分からなくなるような生活はよくない。外で遊ぶ事も、子どもの時にはとても大切な事だ。
幸い、寿子が食事にも注意していたし、宗徳もむやみにお菓子を与えなかった事で、肥満になる事もないが、適度な運動が必要なのだということを教え損ねてしまった。
宗徳にとって、ファンタジーや異世界という言葉は、少々の後悔を思い出すものだった。
「間違ってはいない。この世界でファンタジーと呼ぶものは、異世界で現実に存在する世界だ。想像上のものだとバカにする者もいるだろう。だが、この世界の者達が想像できる世界など、それほど奇天烈なものではない」
この世界に生きる者達が想像するものは、非現実的だと言えるものではないらしい。
「この世界では科学が発展した。魔術が発展しなかったからだ。この世界の者達が想像出来るものは、いずれほとんどのものが現実になっている。それが奇天烈なものではないからだ。思考は、全ての世界の常識の枠を超えないよう制限がかかっている。故に、この世界の者達が想像できる異世界はあってもおかしくはない現実。それを否定するか?」
「……いや……」
それがあるものだと知って、否定するような頑固者ではないつもりだ。しかし、例えそうだとしても、目の前に現実が示されない以上、難しいことも確かだった。
男はそれを見抜いたのだろう。
「では、見せてやろう」
そう言って男はアタッシュケースの中に浮かんでいる宇宙へ手を伸ばす。その中の一つの惑星へ手をかざした。
すると、そこから急激に光が溢れ、一瞬で辺りを呑み込む。
「うわっ!」
宗徳は、反射的に腕で顔を庇い、目をきつく閉じたのだ。
**********
読んでくださりありがとうございます◎
おじいちゃんの異世界体験が始まります。
また明日!
今後も二話ずつ上げられるよう頑張ります。
よろしくお願いします◎
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます