First:

「秀、これお願いできる?」

「ええ。真緒、昨日言ってた資料の修正は?」

「終わってクラウドにアップ……してなかったから今する」


 東雲秀。名前の通りを秀でた才能を発揮する彼女は私――西口真緒の同期だ。入社二年目にして成績はチームトップ。誰にでも丁寧で優しく性格もよく、その上外見も整っている。長いこげ茶の髪がタイピングに合わせて揺れる姿に見入っていると、


「わたしの顔になにかついてる?」

「うん。綺麗なお目々とスッと通った鼻と口が」

「それは真緒にもついているでしょう」

「んー、私のパーツはそんなにも美しくないので」

「真緒のは可愛いものね」

「えーそう? 秀に言われると照れちゃうなー」

「はいはい」


 波に乗っているかのようなタイピングを止めると、秀はマウスを操作して「よし」と小さく呟いた。そして、そのまま時計を確認して、


「じゃあ、私はこれで」

「相変わらず定時ぴったしだね」


 秀はいつも定時きっかりに帰る。どうやら妹と同居しているらしく、飲み会に誘われても来たことがない。


「お疲れ様です」

「おっつー」


 古風な会社でもないし、成果を出している彼女に定時で帰るなと言う者はいない。言うとしたら私くらいで、「あと五分で終わるから待って!」だ。ちなみに待ってくれたことはない。


――本当に妹なのかなー。


 私にも実家暮らしの弟がいるが、例え一緒に暮らしていてもあんな風に早く帰ろうだなんて必死にならない。


――もしかして彼氏?


 美人で性格もいい。彼氏がいない方がおかしい。


「ん?」


 隣りの机に見慣れたスマホが残されている。先程小走りで帰って行った同期のものだ。


「え、忘れてんじゃん」


 取りに戻ってくるかとも考えたが、あまりスマホを見ないと言っていた彼女のことだ。家に着くまで気づかないかもしれない。


 私は半分は親切、半分は好奇心でそのスマホを手に取り、彼女を追いかけることにした。緊急時のために、私たちはお互いの連絡先と住所を交換している。


――確か住所的には私の家と近いんだよねー。


 彼女とは社内で一番親しくしているつもりだが、いろいろと知らないことの方が多い。ただ友人のことを知りたい。それだけだった。




「あれー。追いつかなかった」


 日々ランニングをしているおかげなのかせいなのか、いつの間にか抜かしてしまったのかもしれない。秀に出会うことなく、登録された住所に到着してしまった。


「帰ってんのかな」


 彼女の住んでいるらしいマンションは小ぶりではあるものの、オートロック機能がついている。エントランスでメモした部屋番号を躊躇いなく押すと、


『はい……』


 小さな声が返ってきた。似ているが、秀じゃない。ということはおそらく噂の妹の方だろう。男の声ではなかったから彼氏じゃない。


「東雲さんのお宅で間違いないでしょうか?」

『……』


 モニター画面で私の姿は見えているはずだが、警戒されているようだ。会社帰りのため、街中を歩けるくらいにはまともな格好をしているつもりだ。


「私、東雲秀さんの同僚で西口真緒って言います。秀のスマホを届けに来ました。これね」


 カメラに映るように秀のスマホを掲げる。


『ぁ……お姉ちゃんの……。えと、どうすれば……』

「うーん。ここに取りに来てくれても届けてもどっちでもいいけど」

『出ちゃ、だめだから……』

「? じゃあ届けようか。開けてくれる?」

『ぁぅ……』

「怪しくないよ!? ほら!」


 社員証も掲げる。


「お姉ちゃんのと同じでしょ?」


 納得したのか、扉が開いた。


――いくつなんだろう。小さいのかな。


 部屋は一階の角だった。少し薄暗い。

 部屋番号を確認してチャイムを鳴らそうとしたら、


「……あの、すみません」


 チェーンがかかった状態で扉が少しだけ開いた。


「秀の妹ちゃん?」

「……はい。あの、おねえちゃんは?」

「私より先に出たんだけどね」


 隙間から覗かせた顔は中学生くらいの女の子だった。左半分しか見えないけど、秀よりも色素が薄い気がする。


「はい、これ」


 スマホを渡す。伸びてきた手は指が長くて姉妹揃って綺麗な形をしていたが震えている。


「ちょ、真緒!?」


 廊下の先から走り寄る音が響いた。


「何でここにいるんですか」

「いや、秀がスマホ忘れて行ったから届けに」


 彼女の手にはスーパーの袋が下がっていた。


「あぁ……ごめん。手間かけさせちゃって」

「ううん、全然! 噂の妹ちゃんも見れたし」

「……そう。……せっかく来てくれたし、夕飯くらいは食べて行って」


 感謝の意を込めた社交辞令なのは分かったが、こんな正確なもので私は遠慮なく「お邪魔します!」と答えた。一瞬、秀の顔が曇った気がしたけど、毎日眉をひそめられているのでこれくらい慣れたものだ。


「ちょっとだけ片付けるから、ここで待ってて」


 名前も知らない妹ちゃんに扉を一度閉じさせ、そそくさと姉の方が中へと消えて行った。覗く気もなかったが、覗く間もなかった。


 五分ほど待っていると再びドアが開いた。妹ちゃんではなく秀だ。


「どうぞ」

「もしかして迷惑だった?」

「そんなことないから気にしないで」


 招かれた玄関は女二人にしては靴が少ない気がした。


「すぐ作るから、妹が」

「家事担当は妹ちゃん?」

「そう」


 短い廊下の突き当りがダイニングキッチンで、ちょっと大きめなジャージを着た妹ちゃんが冷蔵庫をゴソゴソ漁っていた。


「妹ちゃんってなんて言うの?」

「翔。高校生」


 しょー。しょう。しゅう、しょう。姉妹っぽい。


「翔ちゃん、高校生なの?」

「まだ幼く見えるでしょ」


 後ろ姿のままの妹の頭を撫でる。


「そうだ、なにか飲む? うちはあまりお酒ないけれど……」

「明日も仕事だからアルコールはいいや」

「そうなの? 意外と真面目なのね」

「なにそれ。私のこと真面目と思ってなかった感じ?」

「まぁ……」


 歯切れの悪いまま、妹の頭からやっと手を離した姉はケトルに水を入れ、スイッチを押す。どうやらお茶を入れてくれるらしい。


 翔ちゃんの方は、慣れた手付きですでに下ごしらえをしていた野菜をフライパンで炒め始めていた。


――そっか、秀の帰りにあわせて作ってるんだ。


「?」


 色素の薄い髪の下から覗いた片目の色味が違う。


「あの子ね」


 湧き立てのお湯で淹れられたお茶が目の前に置かれ、秀も腰を下ろした。


「昔事故に巻き込まれた時の怪我で右目が見えないの。あまり気にしないであげて」

「事故……?」

「交通事故よ」


 私は人生二十年ちょっと――まだ二十と三年と数カ月――事故に遭ったこともなければ入院すらしたことがない。怪我で言えば足の小指を折ったことが、人生の中で一番重症だった。ちなみに誰もが想像した通りタンスの角にぶつけた。


「私は一緒にいなかったからなんともないけどね」


 「私は」ということは……ご両親が一緒だったのだろう。


 さすがに場も気まずくなったので、テレビをつけささてもらい、どうでもいい世間話をしている内に夕飯の準備ができた。メインは八宝菜で、味噌汁にもちゃんとわかめと豆腐と具材が入っている。


「美味しい!」

「でしょう」


 なぜか姉の方が得意気だった。


「美味しいよ、翔ちゃん」


 姉の真横――私の斜め向かいに小さく座っている彼女は小さな声でお礼を返してくれたが、目は合わせてくれない。人見知りかな。


「そんな警戒しないで~。お姉ちゃんの友達だよ?」

「友達?」


 だからなんで秀が「えっ」みたいな顔するの。ふつーに傷つく。確かに仕事でしか関わらないし、飲みにだって行ったことないけど!


「そうだ。翔ちゃんにはこれをあげよう」


 ガサゴソと入れた覚えはあるものを鞄の中で探す。


「はい」


 数日前に買ったはいいものの、開けていない飴。


「賞味期限大丈夫だよ?」


 多分単なる遠慮だと思うけど受け取るどころか手を動かすとかもしてくれない。


「いいよ、もらっておきなさい」


 姉の許可が降りるとおずおずとジャージで隠れていて見えないけど細そうな腕が伸びてきて、つまむようにして私の手の平からスティックタイプの飴たちを持って行った。


「ぁ、ありがとうございます……」


 まぁ龍○散だけどね。


 夕食後は片付けはいいと言われ、図々しさの後ろめたさもあったからか早々と退散する運びとなった。


――最後少し笑ってくれたなぁ。


 飴をあげた時のことを思い出す。


「あっ!」


 連絡先を聞いていなかった。


「ま、いっか」


 姉の方は明日も会うし。また飴でも持って訪ねに来ようと思った。

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