始まりの終わりの始まり
@kamimurashinobu
第1話
「5」
雑踏の中に、響きわたる声。
「4」
立ちすくむ身体。
「3」
のどの奥がヒリヒりする。乾いて、ねばついて、言いたい一言が出ない。
「2」
まっすぐと見つめるその眼には、不思議な力がある。
「1」
目を離すこともできずに、ゆっくりと動く口元だけを見つめていた。
「0、タイムオーバー」
それが、最後の記憶となった。
それからというもの、その記憶がつみあがることはなかった。
なびく髪、迷いのない歩き方、手を伸ばしても何もつかめない。
それは、その瞬間から終わり、そして始まったのだった。
「えっとねぇ、じゃあねぇ…タイ、タイに行ってみたい。」
白い壁にアンディウォーホールの絵が飾ってあるおしゃれなカフェで、大沢かすみは笑顔で言った。
道路に面した壁は一面ガラス張りで、一客何十万もする椅子が飾ってあるこのカフェは、インテリアだけではなく、しっかりとした料理も出すということで若いカップルだけではなく、少し年配の夫婦なども足しげく通う。
その中のメニューの中に、期間限定でのトムヤムクンがあった。
それを箸でつつきながら、かすみはタイを思いついたのだった。
「タイ…タイか…」
と、言葉に詰まりながら、吉田春人は答えた。そして、気まずい気持ちがかすみに伝わらないよう、ごまかすかのように薄く茶色に染めた坊主頭をカリカリかいた。
春人とかすみは、交際を始めて1年になる。
春人は市内のイタリアンレストランの厨房で働いている。オープンキッチンの小さな店で、カウンターしかない店内では、料理の腕と同様に接客も大切な要素の一つとなる。
その店に、かすみは同僚の女の人とやってきた。
かすみは、医療系の事務をやっている。9時に勤務し、5時の定時に仕事を終わらせるのが毎日の目標だった。毎日毎日、目まぐるしく降ってくる仕事を、いかに効率よく終わらせるか考え、アフター5には同僚と一緒に食事に出かける。
そうして、食べ歩きに出かけるのが小さな趣味としていた。
ある日入ったイタリアンレストランで、春人の作るカルボナーラの味に惚れ込んだかすみは、店に通いつめ、いつしか店の外でも会うようになった。
そんななんてことののない日常の中のひとコマだった。
「そう、タイ!料理もおいしそうだし、物価も安いっていうからさ。年末年始は、お店も休みでしょ?」
「まぁ、オーナーが里帰りするからね。29から、3日まで休みになってるけど・・・」
「じゃあ、年末年始に行けるよね?春人さんは、海外旅行には行ったことあるのかな?」
「…あ、ああ。一応、料理人のはしくれだから、いろんな国食べ歩きに行ってはいるんだ。」
春人の口調はぎこちない。
「やっぱりプロの料理人は違うのね、なんだかかっこいいな。」
「いや、でも、今まで韓国とタイとイタリアにしか行ってないから、えらそうなことは言えないんだけどね。」
「それだけ言ってれば十分じゃない?タイにも行ったことあるんだ!なら安心だね。何歳くらいの時に行ったの?」
かすみは春人がタイに行ったことがあるということでちょっと興奮しているようだった。その反面、春人は返答に困っていた。
「イタリアには、18の時、高校卒業してから行ったんだ。そのあと、23の時、韓国に一人でぷらっと食べ歩きで行ったかな?」
「なるほど、韓国も料理おいしそうだもんね。タイにはいつ行ったの?」
「うん・・・2年くらい前かな?」
「ねぇねぇ、やっぱりタイの料理って美味しい?」
「う~ん、けど、クセがあるから、好き嫌いは分かれちゃうと思うよ。日本で食べるそのトムヤムクンみたいなタイ料理は、日本人向けにしてあるからさ」
春人は、指でかすみの前にあるお椀をさして言った。トムヤムクンは、白いおしゃれなお椀に入っており、なんだかタイ料理には見えなかった。
「そうなんだ、タイには独りで行ったの?」
何気ない一言に、春人の顔が曇った。
「あ、ああ。もちろん独りで行ったよ」
春人の表情に気づいたのか、かすみは追い打ちをかけた。
「本当~?彼女と行ったんじゃないの?」
「そんなのはいないさ。料理の研究をしに行ったんだよ」
「う~ん・・・」
かすみは、上目づかいに春人を見る。
「しかたないなぁ、信じてあげる!春人さんは、嘘をつけるほど器用な人じゃなさそうだもんね」
「そうかなぁ、器用な方だとは思ってるんだけど・・・ま、信じてもらえたならいいや」
少しほっとした表情で、春人は自分の前にあるタコライスに取り掛かった。
「じゃあ、タイに決定ね。私が、旅行会社に飛行機の予約を入れるね。だから、向こうに行ってからは、春人さんに行く場所とか決めてもらっていいかしら?」
「あ、ああ。いいよ。あんまり遺跡とかには行かなかったんだけど、いいかな?」
「うん。私はおいしいものを食べられれば、それで幸せだから」
スムーズに流れる会話、スムーズな言葉のキャッチボール、春人はかすみと一緒にいることで、確かな安らぎと心地よさを感じる。それは確かだった。
ただ、タイに行くとなると話は別だった。
あの時、つかめなかった手。なびく髪、そしてもう2度と振り返らなかった。その顔は思い出そうとしてもシュっとモヤがかかったようになってしまう。
あんなに夢中になったはずだったのに。現実と夢のはざまに置いてきてしまった感情があの国には詰まっている。
そんな中に、かすみと一緒に行く?はたして自分は耐えられるのだろうか。そして、かすみを傷つけてはしまわないだろうか?
そんな想いとともに、タコライスをかきこみ、ビールで流し込んだ。
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