狗奴国と熊襲――記紀歴史観との調和
はるか大昔、天孫ニニギ御一行様は、霧島連峰の高千穂峰に降臨しました。そして、
「朝日の差す場所であり、真っ直ぐ
と、宮崎平野に下って来ました。……記紀にはそう書かれています。
この「韓國」が、いわゆる韓半島を指しているのかどうかは全く不明です。ですがもし半島の事だとすれば、古代日向の人々は、いわゆる「半島ルート」を認識していたのでしょう。
かつ、宮崎平野から見える韓国岳――霧島連峰――を、半島ルートの目印としていたわけです。現在の宮崎市は多数の建物が立ち並ぶため霧島連峰はよく見えませんが、古代であれば丸見えでした。
「あの山に向かって歩けば、その遙か先に半島がある」
と考えていたのでしょう。絶好のランドマークでした。
そしてそれこそが、魏朝使者御一行様が1ヶ月かけて歩いて来たルートなのです。
卑弥呼邪馬台国、即ち宮崎平野側から見れば、霧島連峰に向かって現在の小林市を経由し、霧島連峰えびの市を通過して人吉市、そして八代平野に到達します。さらにそこから船に乗り、伊都国佐賀平野へと至ります。佐賀平野の向こうに末廬国唐津湾があり、船を漕ぎ出して壱岐対馬と進めば、半島に到達するのです。
ちなみに何故、八代平野なのか。――
実は熊本市の南、つまり宇土半島の付け根に位置する土地に、
当然ながらその一帯全てが調査、保存されているわけではありませんが、その古墳数たるや、何と推定500という大規模なものです。
幸田は宮崎出身です。子供の頃より、西都原古墳群をはじめとする多数の地元遺跡に慣れ親しんでいます。
そんな人間が塚原古墳群の資料を眺めると、非常に奇妙だと感じるのです。
つまり、古墳の構成が宮崎と全く異なります。多くは方形周溝墓で、次が小型の円墳。前方後円墳は2つしかありません。
「宮崎とは異なる文化圏だったのだろう」
という想像を強くします。ちなみに宮崎県内の場合、円墳や前方後円墳が多く、方形周溝墓など数える程しか存在しません。
要するに、これぞ狗奴国なのでしょう。
前章で解説した通り、幸田は伊都国佐賀平野説を採ります。であれば、奴国は筑後平野のどこかに存在した筈です。
そして奴国の南に、狗奴国があると魏志倭人伝に書かれています。つまり筑後平野の南ですから、熊本県北部~中部付近でしょう。
魏志倭人伝によると、狗奴国のボスは「狗古智卑狗」とあります。我々日本人がそれを素直に読めば「くこちひく」ですが、日本語と中国語の言語学的性質の差を考慮すれば、倭人が「きくちひこ」と発音したのを魏朝の人々が「くこちひく」と聞き取った可能性濃厚です。
なにしろ当地には、遥か古代より菊池一族が存在し、現在でも菊池市という地名が残っています。まさに狗奴国臭プンプンです。
狗奴国は卑弥呼邪馬台国の敵対勢力であった、と魏志倭人伝に書かれています。
何故、敵対していたのか。
これは邪馬台国と異なる文化を持つ人々による、勢力だったからではないでしょうか。
ひょっとすると、民族自体が異なったのではないか、とさえ感じます。そう感じさせられる理由は、前述の塚原古墳群の古墳構成だけではありません。当地にはまだルーツ等の不明な、謎の石組みや彩色古墳――明らかに宮崎の古墳文化と異質の遺物――が多数存在するのです。
敵対勢力狗奴国との、
それを示すのが、つまり塚原古墳群です。即ち異文化狗奴国の勢力圏だった。だから方形周溝墓が多い。邪馬台国は「高千穂峰-八代海-有明海-伊都国(佐賀平野)-半島ルート」を確保するため、熊本県中部の南側に位置する八代平野を抑えた。塚原古墳群の円墳や、わずか2基しかない前方後円墳こそが、そこに両者の紛争があったという証拠……だとは考えられないでしょうか。敵地にて傷つき倒れた邪馬台国の将官が、敵地たる塚原古墳群に葬られた、と。
「いやいや。塚原古墳群の前方後円墳2基は、どちらも卑弥呼時代よりずっと後に築造されたものだぞ。卑弥呼時代の紛争の痕跡ではないだろ」
と反論する方が、いらっしゃるかもしれません。
いえいえ。2基とも、ちゃんと発掘して年代特定されたわけではなさそうです。古墳上部に飾られた円筒埴輪や須恵器から、5世紀末だとか6世紀末の築造だろうと推定されているに過ぎません。
特に、2基のうち琵琶塚古墳の方は柄鏡式ですから、実は卑弥呼邪馬台国時代の築造かもしれません。前にも述べましたが、古墳上部や周辺の遺物をもって年代を推し測ったところで、なんの根拠にもならないのです。科学的手法に基づく推測とは言えません。
というわけで、邪馬台国と狗奴国の関係については、考古学的成果を紐解けばまだまだ見えてくるものがあると思います。ですが残念ながら、シロート幸田の手でかき集められる情報は少なく、考察不十分であることは否めません。
しかしそれでも、卑弥呼の時代の宮崎と熊本では、明らかに文化が異なっていたと判明します。そこに狗奴国の存在を想像するのは、ごく自然な発想ではないでしょうか。魏志倭人伝記述の解釈とも、何ら矛盾しません。
そしてその狗奴国こそが、記紀にも書かれている「熊襲」もしくはそのルーツではないか……と考えるのです。
熊襲は日向勢力と敵対関係にあり、何度か日向勢力が畿内ヤマトに救援を要請しているようです。第12代景行天皇が熊襲征伐を行い、さらにその息子ヤマトタケルも再び熊襲征討を行っています。
これぞ正に、魏志倭人伝に書かれている、卑弥呼後における狗奴国との対立の「続章」だ……と幸田は考えます。
本家ヤマトたる日向勢力は、卑弥呼没後、何度か狗奴国……
窮地に陥った日向勢力は畿内ヤマトに救援を要請した。結果、景行天皇やヤマトタケルが救援に駆けつけた。何故なら日向勢力こそが本家ヤマトなので、本家救援は当然の話だったわけです。
そのお陰で本家ヤマトは窮地を救われたものの、本家としての権威権力の低下は避けられず、次第に畿内ヤマトに取って代わられた。……
そのような歴史が、見えてきませんか!?
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