「情けないところを見せてしまったね」

 少し考えたいから一人にしてくれ、そう言ってミハイルは教室に残った。

 エルマーとアルミラは窓から消え、レイシアは心配そうにしながらも普通に扉から出ていった。今頃は階段付近を守っていた取り巻きに囲われているのだろう。


 開け放たれたままの窓からそよぐ風に髪が揺れる。視界に入る髪は母親譲りの鮮やかな金色をしている。


「……母上」


 今は亡き母親を思い出し、小さな呟きが漏れ出る。




 ミハイル・ハルベルトは第一王子だ。

 正妃であるコゼットは結婚して一年以上が経つのに懐妊の兆しがなかった。妻か夫のどちらかに問題があるのではとされていたのだが、マリエンヌが側妃として迎えられて早々に子を宿したため、王にはなんら問題がないことが明らかになった。


 それから二年後にコゼットも懐妊するわけだが、その間の風当りがどうだったのかは、想像にかたくない。


 ミハイルに当時の記憶があるわけではないのだが、コゼットがマリエンヌに辛く当たるのはそういった側面もあるからなのだろうと思っていた。


「目障りよ」


 廊下ですれ違うたび、コゼットは鋭い眼差しと共に侮蔑の言葉を吐いた。

 レオンが産まれてもなおコゼットの態度は変わらず、マリエンヌと共にいるミハイルに対しても何度か辛辣な言葉を吐いたことがある。


「あなたにそっくりね。本当にあの人の血が入っているのかしら」


 見下すように言われ、そのときばかりはマリエンヌも抗議した。


「私はハロルド様をお慕いしております……! ミハイルはまぎれもなく、彼の子です!」

「そんなに大きな声を出さなくても聞こえるわよ。あなたったら、声まで大きいのね。耳障りだわ」


 ちなみに、マリエンヌは女性の平均よりも少し背が高く、コゼットは女性の平均よりも背が低かった。



「母さまは、どうしてコゼット様にあそこまで言われても平気なの?」


 幼いミハイルは、コゼットとマリエンヌのやり取りを見るたびに不思議でしかたなかった。

 マリエンヌが言い返すのは王に関することをコゼットが口にしたときだけで、それ以外は殊勝な態度で接している。

 辛くて泣いても不思議ではないのに、一度も涙を零すことなく穏やかに笑っていた。


「それはね、ハロルド様――あなたのお父さんを愛しているからよ。あの人が私を見つけてくれて、ここに呼んでくれたの。それだけで私は幸せなのよ」


 しかしミハイルは物心ついてからというもの、王がマリエンヌを訪ねてきたのを見たことがない。


「きっといつかまた、私を呼んでくれるわ」


 少女のように微笑む母親の姿に、ミハイルは「そういうものなのか」と納得した。



 マリエンヌが亡くなってからも、コゼットの態度は変わらない。いや、それどころかより厳しくなった。

 ミハイルの世話役になった侍女を何度も変え、侍女経由ではあるが生活にも口を出すようになってきた。


 母親という後ろ盾がいなくなったミハイルだが、弟であるレオンが魔法の才を発現させたため、立場が悪くなったりということはない。だがそれにもかかわらず、コゼットのしていることに誰も口を挟もうとはしなかった。


(父上も、納得しているのかな)


 用事があるときにしか顔を合わせない王のことを思い浮かべる。


(ならきっと、これでいいんだ)


 コゼットが厳しく当たるのも、王と顔を合わせる機会がないのも必要なことなのだろうと、ミハイルは考えた。

 母が愛し尽してきた相手に間違いはないはずだ、と。



 だからレオンが戻ってきて、王が次期王にすると言い出したときもミハイルは了承した。


 そうして何度も何度も、王は間違えていないはず――ひいては、母は間違えていないはずと思いながら、これまでを生きてきた。



「きっと、なにか深い理由があるはず……」


 だから今も、間違えていないと思いたくて声を絞り出す。


「……レオンのことも、なにか誤解が」


 無理があることは、わかっている。

 ミハイル自身が襲われたのだ。あれが転移魔法ではなく、もっと物理的なものだったことは、あのときの頭の痛みが教えてくれている。


「母上……あなただったら、こんなとき、どうしていましたか」


 母親の顔はすでに朧気だ。肖像画で見た顔しか思い出せない。

 だからこうして問いかけても、どう答えるかわからなかった。


「ミハイル殿下。マリエンヌ様がどうするかではなく、あなたがどうしたいかを考えるのですよ」


 降ってきた声に、俯いていた顔を上げる。

 窓辺に立つアルミラに、ミハイルは言葉を失った。


「……一人にしてくれと言わなかったかな?」

「ですので、少しの間一人にしました」


 レオンであれば「減らず口を」と悪態を吐いていただろう。だがミハイルがアルミラとやり取りした回数はそれほど多くなく、そして悪態を吐くような性格ではなかった。


「情けないところを見せてしまったね」


 お姫様抱っこされたり、馬の後ろに乗せられたりと散々情けない姿を見せた挙句、自分のことすら満足に決められないところまで見せてしまったのだ、もはや自嘲するしかない。


 乾いた笑いを漏らすミハイルにアルミラはゆっくりと近づく。


「いいえ、情けなくなどありません。先ほども申し上げましたが、これからを決めるのはあなた自身です。そのために悩む姿を情けないとは思いません」


 そして眼前にまで迫ると床に片膝をついた。こちらを見上げるアルミラに、ミハイルは眉を下げた。


「どうして君は……レオンに尽くしていたのかな」


 凛とした瞳にミハイルは胸中に抱いた疑問を漏らす。


(やはり、愛なのかな)


 レオンは我儘で横暴だったが、こうして自分を真っ直ぐに見つめるアルミラであれば他にもやりようがあったはずだ。

 それなのに尽くしていたのは、やはり母親と同じく愛ゆえだったのだろうかと考え、ちくりと胸に痛みを覚えて顔をしかめる。


「婚約者でしたので」

「……婚約者なら、愛し尽すのが当然ということかな?」

「愛……? いえ、愛というのは育むものであって義務によって抱くものではないと思いますよ」


 なにを言っているのかわからないという顔で首を傾げるアルミラに、ミハイルは視線をそらした。


「君は、すごいね」

「……なにがでしょうか」


 マリエンヌは愛し尽す女性だった。だが、愛する人に対して積極的になにかしようとはせず、ただ機会を待ち続けていた。


「あそこまで言われたのに、レオンのために行動できるところが」


 もしもマリエンヌが愛する相手に罵倒されたらどうなるか。

 あるいは自分だったらどうするか。その答えは簡単に見つかった。


「あそこまで……?」

「関わるなと言われたら、私なら関わろうとは思えないよ」


 かつてレオンに敵意のこめられた眼差しと台詞を向けられ、ミハイルはそれ以来関わるのをやめた。

 ミハイルは自分にはない強さを持つアルミラに、憧憬しょうけいにも似た眼差しを向ける。


「ああ、あれですか。ミハイル殿下は思い違いをされているようですね」

「思い違い……?」


 一体どこにたがえる要素があるのかわからず、ミハイルは首を傾げる。

 その様子を見て、アルミラは少し面白そうに口元に笑みを浮かべた。


「はい。あれは、自分の代わりにレイシア嬢を守れ、ついでに自分のことは放っておけと――そういう意味です」

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