驚愕
―――
「な、何だよ、その……蝶子の心の奥底の想いって!?」
「蘭は黙ってて。」
「けど!」
「ちょっと黙ってて!」
焦って大声を張り上げる蘭を強い口調で制した蝶子は、ため息を一つつくと言った。
「それで?信長様は面白半分で仰ったんでしょうか?それともからかっているとか?」
「さぁ。お兄様の考えてる事は凡人のわたしにはわかりません。突拍子もない事を言ったり無理難題を言って周りを困らせる事は日常茶飯事ですけれど、全ての事にはお兄様なりのお考えがあっての事。今回もこのような処置を採る事が最善の策だとお思いになって決めたのだと思います。まぁ、貴女の心を視て悪戯心が湧いたというのもあり得そうですが、どうか許して差し上げて下さい。本当に結婚する訳ではありませんから。」
「え!?」
「ほ、本当ですか?」
市の言葉に二人同時に飛び上がる。そんな二人の姿に市はくすくす笑いながら頷いた。
「えぇ。祝言は偽装工作です。前々から誰でもいいから妻を娶めとれと家老に煩く言われていて辟易しておりました。その家老はお父様の代からの古株で、生まれた時からお世話になっている人ですから、あまり強くも言えず……でもお兄様は本当に誰とも結婚する気はないようでした。しかしここにきて貴女方が現れた。お兄様にとったら千載一遇の……」
「チャンス、いえ……好機という訳ですね。」
蝶子が眼光鋭く見つめると、今度は市が苦笑した。
「と、思われたでしょうね。きっと。」
市は曖昧な言い方で誤魔化した。
「これはわたしの勝手な臆測ですからお兄様がどこまで考えておられるかはわかりません。だけど偽装結婚だという事は本当の話です。」
「じゃ、じゃああの場にいた光秀……さん?とサルさんにも言わないといけないんじゃ……本当に祝言の準備しちゃうかも……」
蝶子が心配そうな顔でもごもごと呟くと、市は笑顔で言った。
「大丈夫ですよ。あの二人ならその場で祝言が偽装であると気づいています。」
「え?」
「とはいえ、祝言自体は行います。内々に済ます予定ですが、家老始め、ほとんどの家来の出席は免れませんからどのみち本物らしくしないといけません。だから張り切って準備していると思いますよ。特に光秀は凝り性ですから。」
「そ、そうですか……」
偽装結婚と聞いて喜んだのも束の間、祝言は予定通り行われるようだ。しかも内々とはいえ、織田信長の祝言である。そこそこ盛大なものになるだろう。
蝶子は想像してがっくりと項垂れた。
一方蘭はというと……
(偽装結婚……っていう事はカモフラージュって事だよな?本当に結婚するって訳じゃないんだよな?何だ、安心した……)
ホッと胸を撫で下ろしていた。
「さて、わたしはそろそろ戻ります。夕餉の時刻ですから。」
「あ、ホントだ。空が赤くなってきた。」
市が開け放たれた障子戸の向こうの空を見やると、蝶子もつられて外の景色を眺める。空が段々と赤くなっていくのがわかって、青と黄色と橙のグラデーションが綺麗だった。
「久しぶりに見たな~こんな綺麗な夕焼け。」
「そうだね。」
いつもは実験室に籠ったり図書室で勉強したりで、空を見上げる機会が減っていた。ほぼ昼夜逆転生活だし、そもそもビルばかりで、こんなに広い空を見るのはもしかしたら初めてなんじゃないだろうか。
ボーッと見つめていると衣擦れの音がして、慌てて振り向くと市が立っていた。
「あ、あの……」
「それでは明後日の祝言の時にお会いしましょう。」
「はい。お、送って行きましょうか?」
場所もどうやって行ったらいいのかもわからないのにそんな事を口走る蘭だった。市は首を横に振って笑っていたが、今思い出したという表情をすると背筋を伸ばした。そんな市の様子を見ていた二人は次の瞬間、驚愕する。
「サル。」
「お呼びですか、市様。」
コンマ数秒……いや言い終わるのと同時に部屋に現れたサルを、開いた口が塞がらないという状態で見つめる蘭と蝶子。市は二人に向き直ると説明した。
「サルには瞬間移動という能力があるの。この事はお兄様とわたし、そして光秀しか知らない事だから、お兄様の事と合わせて他言無用ですよ。」
「は、はぁ……」
顎が外れるかと思うくらいまで口が開いた時、後ろで一足早く正気に戻った蝶子が背中を叩いてきた。途端、現実に戻る。
「サル。貴方まだきちんと名乗ってないでしょう。」
「はい。ですが、サルの方が呼ばれ慣れてるので。」
「そういう訳にもいきません。わたしやお兄様とは違って貴方達はこれから家来同士になるのですよ?呼び方一つとってもけじめは大事ですわ。」
市にそう言われて何も言えなくなったサルは、気づかれないように密かにため息を吐く。そして今までボソボソと小さな声で話していたのが嘘の様に、明朗な声音で自己紹介をした。
「私は木下藤吉郎秀吉と申します。以後、お見知りおきを。」
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