魔女のプロローグは誰も知らない

位月 傘

 彼のことなら、どんなことだって聞こえてくる。それこそ家から一歩も出なくたって。何でも知ってる。

 ひそひそ、ひそひそ、誰かが悪口を言っている。村の子供たち、隣の家、学校の先生。誰もかれもが眉をひそめて小声でぼそぼそ。誰にも聞こえないように、こそこそと忌々しげに吐き捨てる。

 気味が悪い、どうかこの村からいなくなってくれないだろうか、先祖代々居ついているらしいぞ、そいつは大変、住みついてしまってるってわけか。

 聞こえてくるのはそんな声ばかりで、つい溜め息を吐く。もちろん、本来彼がそんなことを言われて良いような人ではないことを、私は知っている。朝が弱いくて、隠しているけどお菓子が好き、村のひとたちから厭われてるのに、なに一つだって手放せないほどやさしくて、責任感がある。みんなが知っているのは精々彼の髪も瞳も黒い事、そして代々続く『悪魔祓い』の力をもつ一族だということくらい。

 それすらも信じていない彼らは、悪魔なんているわけないと言う。馬鹿なひとたち、悪魔祓いが住んでいるこの村で、安易に悪魔を呼び出すような人が早々居るわけないと、少し考えれば分かるのに。

 この村は閉鎖的で、差別的で、事なかれ主義なのだろう。だから私が、たとえ家から出てないのに大きなあざを作ったって、背中に大きな火傷の痕が残ってしまったって、やんちゃな子なの、と親というものが言えばもう何も言わない。閉ざした口の乗った顔には、哀れみよりも大きく『関わり合いになりたくない』とだけ書いてあった。

 だから、私にとって彼だけなのだ。子供だから何も知らなかったんだとしても、大丈夫?と手を伸ばしてくれたのは。もういっそ、死んでもいいと思えるほどの情動に突き動かされたのは、きっと後にも先にもこの瞬間だけなのだろう。だから私が実際に行動に移したのが数日前だったとしても、覚悟はずっと前から決まっていたのだ。

「大丈夫、大丈夫、私が、貴方のことをみんなに正しく理解してもらうために、私、頑張るから」

 自分自身を落ち着かせるように何度も唱える。大丈夫、大丈夫。さっき包丁でずたずたに刺した親という存在は、すっかり動かなくなって、どくどくと赤い液体で床を汚している。私は水の一滴でも零したら、泣いて喚いても許してもらえないのに、この人たちは何の咎も受けないのが、殺した今でも憎らしかった。

 悪魔を呼び出すのに必要なものはたったのみっつ。私の血、親の血、それから他人の血。それで魔法陣を描いたならば、あとは唱えて祈るだけ。

「どうか、どうかお願いします、悪魔様。あの人を助けるために、私のすべてを捧げます」

 びちゃびちゃの床に膝をつき、両手を組んで祈る。ほんとうは彼以外に祈りをささげるなんてしたくもなかったけれど、きっとこの悪魔もそのうち彼に祓われてしまうんだし、多少の慈悲はやってもいいかと我慢した。

 ずるり、と黒い影が魔法陣の真ん中から出てくる。顔どころか姿かたちすらよくわからないけれど、どうにか悪魔を呼び出すのに成功したようだ。ほっと安堵の溜め息が漏れる。

「私に力を貸してください。この世界を、正すための力を」

 そう言えば悪魔は笑う。ひどく不快だ。しかし力は授けてもらえたらしく、私の首元には歪んだ円形の痕が浮かび上がる。もう傷が一つ増えようと、二つ増えようとも変わらないから気にしないが、もう少しバレなさそうな位置につけてほしかったものだ。

 それからだ、声が聞こえるようになったのは。耳をすませばなんでも聞こえる。隣の家のあの子も、学校の先生も。そしてだんだんと、声だけでなく姿まで見えるようにもなってきた。

 それに不思議とお腹も空かなくなったし、気づいたら汚れた床は何事も無かったかのようにきれいになっていた。ほんの少しの期待を込めて、服の中を見たが、私の身体は汚いままだった。もう気にしてなんて、いないけれど。でも、やっぱり、これじゃあ絶対に、彼の隣になんて立てないや、と乾いた笑い声が部屋に響く。

 これで私の身は、人のものとは離れてしまったのだろう。死んだってきっと天国には行けやしないだろう。それでも、彼が祓ってくれるんだったら、そんなあるかもわからない片道切符なんて安いものだ。

「もうそろそろ行かなきゃ」

 狭い村だ。私の親にも私にも出会わないことに、そろそろ不審がられてきていることは知っている。見えたし、聞こえる。ほんとうはもうちょっとだけ、彼の様子が見ていたかったけれど、それよりも彼を正しい場所に戻すことのほうが先決だ、と重たい腰を叱責する。

 暗い夜は嫌いだ、だから火を灯そう。光にかざすといろんな色に見えて、焚火の炎のようで素敵だね、と髪を褒めてくれたことを思い出す。村全体を明るく灯したら、彼は安心して眠れるようになるだろうか。そんな戯言と一緒に、自分の家に火をつけた。マッチなんて必要ない。

 ぽつぽつぽつ、両手を組んで願うだけで、ここは火の海になる。彼の家にだけはつかない様に気をつけなきゃ。あぁ、彼がここを離れたときの為に、金目のものも燃やさないほうが良いのかな。

 惑う人間、子供を抱えて走る親。別にそんなものを見たって、日ごろの鬱憤が晴れる訳では無い。なにより、私には他にやることがある。大きく息を吸い込む。これで声が枯れても構わない。

「あぁ、なんてことだ!悪魔が出たんだ!わたしは見た!悪魔が出たのだ!」

 日頃から大声どころか、話すことさえ許されることの少なかったものだから、すぐに喉はひりひりと熱を持ち出す。その甲斐あってか、それだけで憐れな民衆は呑まれてしまう、今まで排除していた存在に手を伸ばす。あの子は何処だ、悪魔祓いの子は、という声に、久しぶりに愉快さで笑みが零れた。彼らはこの瞬間、きっと猛烈な後悔に苛まれて、そしてあの人のことを神様だと理解するんだ。

「でも、気づくのがちょっとだけ、遅かったね?」

 ぱちぱちぱち、火が付いた。焼ける匂いが鼻につく。

 きっと彼らは、今は助けてくれと縋っていても、すぐにでもどうしてもっと早くどうにかできなかったのかと責めるだろう。そんなことを、そんな言葉を彼に浴びせる訳にはいかない。

 醜い声は、姿は、全部私が引き受ける。きっと私の身体が汚いのは、そういう汚いものを浴びてもこれ以上汚れることがないからだろう。

 彼が立ちすくんでいるのが見える。めらめらと揺らめく炎に目が奪われているようだ。しかしすぐに彼は行動に移す、もちろん人を助けるために。どうしてこんなことを、という言葉は紛れもなく私に、彼にとっては名も知らぬ悪魔に向けられたものだろう。

「貴方は心配しなくても大丈夫、きっと心のままに動いていたら、正しいところに収まるから。そのために私が、安全な道を作るから」

 別に彼に言葉が届かなくたっていいと思った。でもそれじゃあ、道しるべが無いようでは、あまりに可哀想かもしれない。踊るように軽い一歩を踏み出す、それだけで彼の目の前に現れることが出来た。

 突然人が現れたことに驚いて、次いでその相手が知り合いであることに気づき、最後に彼は、私が何をしたのか察したようだった。憎しみよりも困惑の強い顔で、やはり、どうしてと問いかけられる。その純粋さに、顔がほころぶ。愛しい貴方、きっと何が起きてもその芯が変わることはないだろう。

「大丈夫、大丈夫。全部私に任せて、痛いことも、悲しいことも、全部全部、私が引き受けるから」

 だから心配しないで、と何度目かの言葉と共に、彼の頬に伝う涙に手を伸ばす。貴方が悲しむことは何もないのだと、安心させるために笑みを作る。だってそもそもこれは、わたしが引き犯した制裁であり、いつか起こるはずだった天罰なのだ。

「私、これから悪いことをするの、悪魔の力を使って」

 ぴくり、と彼の肩が揺れる。その刹那、戸惑いの色は薄れ、真っ直ぐに私を見据えた。この言葉が聞こえてきた以上、彼は誰に強制されるでもなく、自らの意志で目的を達成するまで止まらなくなる。それは彼の性根がそうであったからだし、そういう採算度外視みたいな、自己犠牲の英雄になるように育てられたからだ。

「だから、ね?お願い、私を追いかけて、人間を助けて」

 定まった決意が揺らめくのが分かる。彼は私に同情と同類の気持ちを持っていたから、躊躇するのも無理はないだろう。でもこれは、裏切りではないのだ。そもそも私は、貴方と同じだなんて、最初から自惚れてはいない。

 薄汚れたこの身が出来るのは、踏み台になることだけだ。もう一度微笑む、今度はこれから先のことに思いを馳せて、自然と零れ落ちたものだった。彼がいなければ、将来に希望を持つなんて、考えもしなかっただろう。

「そうして最後に、きっと魔女だなんて呼ばれるようになった私のことも祓って」

 あぁ、この世界は、未来は、きっと希望に満ちている。だって彼が、私のあげた松明を手に、導き手になってくれるのだから。

「待ってるわ!わたしの『かみさま』!」

 どうか願わくば、次に会う時までに、彼がみんなの神様になっていますように。今度こそ本当の意味で、私は両手を組んで、彼に祈りを捧げた。

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