2章 第一階層:文明ノ廃墟
8話 冒険というには絶望的な場所
大穴はどこまでも続いている。
それこそ地獄まで通じているかのようだ。
だが地上だって餓鬼が飛び回り、あちこちで炎があがり、血と臓物で汚れた道路と建物は奇妙にねじ曲がりつつある。生き残った人々が殺し合い、そこから逃れた人々が小さなコロニーを作っては消える。この地上そのものが地獄であるにも関わらず、これ以上の何かがあるというのだろうか。
五年前にこの地下から出てきた赤子の手は、あれ以来だれも見ていない。けれども、ときおり地下深くから泣き声が細く響くのだという。
もはや冥宮と地上に区別など無いのだろう。
だが、それでもそこは冥宮の入り口、と呼ばれていた。
「それでロマン。冥宮の中のことはどれだけ知ってる?」
結局ロマンということにされてしまった白髪鬼は、やや眉間に皺を寄せながら深月を睨み付ける。
横に立つ深月は、着替えを済ませていた。クリーム色のタンクトップに上着を羽織り、カーキ色のパンツ、改造されたウェストベルトに革製の鞄をひっさげている。どことなくボーイッシュな印象だ。いかにもファンタジックな冒険に出かけるというような服装だが、冒険地というには血生臭すぎる。
巫女装束はそのうち必要になるからと荷物の中に突っ込んでいたが、その必要性が服としてなのかは判断が分かれるところだ。
「異形どもが支配していることだけだ」
「ぜんぜんね……。じゃあとりあえず、歩きながら話しましょうか」
これ見よがしにため息をついてやってから、再び歩き出した。
「冥宮は、いくつかの層に分かれているらしいの」
「層?」
「地層みたいな感じかな。雰囲気や空気が違うっていうか。大穴が開いた時に巻き込まれたものが混ざり合ったようだって。異形の縄張りにも影響されるみたいだけど、それぞれの層にボスがいるっていうと、ゲームみたいよね」
そうだな、と同意しかけた口を閉じる。
「とりあえず私たちが目指すのは、冥宮に『太陽の子』が作ったっていう第四層の先にある『陽ノ祭壇』。たどり着けた人たちだけが、共同生活を送ってるようね……ほんとに送れてるかどうかは別だけど。前は何度かやりとりはあったみたい」
「前はってことは、今は無いのか」
「さあ……最近はわからないの。私が表立って聞けないってこともあったけれど」
「……では、ひとまずの目的地はそこか」
「っていっても、第一階層を突破できなきゃ何の意味もないけど」
空は相変わらずの曇天で、月の明かりひとつ無い。あたりを照らすのは、どういうわけか生き残っている電気の明かりだけ。
だがそれが本当に電力で動いているのかどうかはわからない。明滅する電気に照らされるのは、かつてこの冥宮に挑んだ人々の過去の遺産だった。もはやどこの国のなんという装備かもわからない砲台や、履帯だけになった戦車が転がっている。これを操縦していた人々はとっくに逃げ出したか、食われたかしたのだろう。
そんなものを尻目に、二人の目の前に現れたのは薄汚れた建物の巨大なシャッターだった。半分だけ開けられ、いかにも地下アーケードへの入り口といった風に突っ立っている。
あまりにもあからさまな「入り口」だ。
大穴が開いているのだからどこからでも入れそうなものだが、どういうわけかここがいまでも入り口として機能している。
向こう側は薄暗かったが、僅かな明かりがついていた。電線が引き千切られてぱちぱちと音を立てている箇所もあるが、外よりもやや明るいのは皮肉だった。
ロマンは素早く黒刃に手をかけると、そのまま抜き去った。
あっという間に元の場所に戻すと、シャッターの影に隠れていた人影たちの上半身だけがべちゃりと音を立てて地面に落ちた。餓鬼だった。
そのうちの一匹だけがまだしつこく生きていて、腸を引きずり、水分と血の混じった道を作りながら二本の腕だけで近寄ってきた。ロマンはおもむろに前に出ると、餓鬼の頭に軽く足先を付ける。深月はほんの少しだけ目をそらした。ゴキャリと音が響く。ロマンの黒い靴が、餓鬼の頭蓋骨を脳味噌ごと踏み潰した。
足先についた血まじりのピンク色の塊を、地面にこすりつけて落とす。それから振り返った。
「……よし、さっさと入るぞ」
「うん」
シャッターの中へと入っていく背中を追い、深月も中へと足を踏み入れた。いかにも地下へ向かうとばかりに、シャッターの向こうには階段が続いていた。
円形のアーチ状になった天井からは、ぽたぽたとどこからか汚水が流れ落ちる音が響く。どこの街の地下アーケードだったのかわからないが、きっと昔はお洒落で手の込んだ作りだったのだろう。今はそこに血と臓物が加わり、汚泥がこびりついている。足音が虚しく響く。剥ぎ取られた石造りの壁から剥き出しになった配線が飛び出し、ぱちぱちと音を立てている。
階段の下は左右に広がった道が続いていて、右側の通路には錆び付いた看板が掲げられている。「薬」と描かれたドラッグストアの看板だった。その近くは、サラ金らしき看板と、かろうじて法律事務所のものとわかる看板が無残にも朽ち果てている。その下にたまった汚泥には、どこかから落ちた石の塊と、人間と異形の骨が混ざり合って埋もれていた。
「これ……やっぱり昔のアーケードなのかしら」
「いや。違うな。あっちを見ろ」
「あっち?」
左側に続いた通路には、奥のほうにトンネルの入り口のようなアーチ状のものが続いている。下には土が堆積してしまっているが、地下鉄のトンネルに見えなくもない。
更にそのねじくれた道の先には、駅のホームのようなものがうっすらと見えている。
「何……、この、構造?」
「なに、ということもないだろう。……混ざり合っているようだ。かつて沈み込んだものが、すべて」
「そう。こんなところでも、昔の科学は通用しないってわけね」
「ああ」
そもそも大地がすべて地下に沈み込んで、こんな構造になるはずが無いのだ。
――むしろ、過去の遺物があるだけでも奇蹟なのかもな。
たった五年。されど五年。
異形が世界を覆ったように、かつての世界は急速に朽ち果てている。
いまや地上だけが――いや、その地上でさえ――すべてがこの冥宮に呑み込まれてしまったのだ。
どこにも逃げ出す場所なんて無く、どこにも安息など無い。
それをまざまざと理解させるには十分だ。
しかしそれでも。
「行きましょ」
「ああ」
二人は、歩き出した。
神のいる最下層へ、その一歩を。
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