魔王戦線

ロケット商会

ゴルゴーンの瞳 1

 ルジン・カーゼムが「魔王」を知ったのは、おそろしく寒い冬のことだった。

 魔王こそが唯一の希望である。

 少なくとも、彼女たちはそう信じていたように思う。


 その当時、人類はすでに大陸の半分を失い、東海岸に追い詰められつつあった。

 王府による政治体制も崩壊していたといっていい。

 つまり人類の取れる手段は限られていた。


 城塞都市をダンジョン化して地中に潜み、異界から襲い来る《転生者》たちに対抗する。

 領土の奪還は諦めて、生存圏の維持に全力を注ぐ。

 多くの都市がそういう基本戦略を採用していた。


 ルジン・カーゼムは傭兵として、そうした城塞都市をいくつも回ってきた。

 それは七つ目か、八つ目の街でのことだった。


 その日、ルジンは偵察のため、雪の降る丘に立っていた。

(あれはひどいな)

 目を凝らし、ルジンは白い息を吐く。

(ほぼ全滅か)


 彼方には街が見える。

 正確には、街だった場所だ。

 つい一か月ほど前までは、多くの人が暮らす準都市がそこにあった。

 ルジンが雇われている城塞都市サヴラールへの転居を拒み、地上での暮らしを選んだ人々が、千人以上はいたはずだった。


 いまは城壁が破壊され、建物の残骸だけが冬の風にさらされている。

 人の姿はおろか、生き物の姿ひとつ見つけられない。

 動くものは降り積もる雪だけだ。


 ルジンは、その雪の一片ですら見ることができる。

 そういう目を持っている。


 人類の兵士は《転生者》たちに対抗するため、すでに大きく体を変化させていた。

 通称を《魔獣化》措置という。

 適応者はいまのところ限られており、一つの都市に数十名といったところだが、それは数少ない《転生者》への対抗手段の一つだった。

 ほぼ唯一と言っていいかもしれない。


 ルジンが受けた《魔獣化》は、「ワーウルフ」と呼ばれている。

 とりわけ陸上での戦闘に特化した《魔獣化》だ。

 鋭敏な知覚、驚異的な治癒力、部分的な身体変異――様々な恩恵があり、単独での《転生者》との交戦も期待できるとされていた。


(実際には、それほどのことじゃない)

 ルジンはよく理解している。

 もし《転生者》と遭遇した場合、比較的に戦闘力が低いバンディットならばともかく、パーティーを形成したナイトやメイジが相手ではお手上げだ。


 正面の戦いでは、人類は《転生者》に勝てない。

 ダンジョン化した都市に逃げ込み、侵入してきた《転生者》を弱らせて撃退する。

 いまのところ、それ以上に有効な戦術は存在していない。


(何か、別のやり方が必要だ)

 と、ルジンはそう思う。

 別のやり方。それがわかれば苦労はしない。半ば諦めながら、惰性で戦いを行う者も増えてきている。


 それは極めて悪質な病だ、と言っていた者がいる。希望が見えない状況で蔓延する、致命的な病だと。

 治療する方法は、一つしかない。

 ――という、ルジンはその男の言葉を覚えていた。

(そうだな。いまは耐えるときだ。あいつが、いまにきっと――)


『ルジン』

 不意に、耳元で声が聞こえた気がした。

 咄嗟に全身を緊張させ、腰の剣帯に手を伸ばす。そこにあるクグリ鉈の柄に触れる。


『状況を教えてくれ。街はどうなってる?』

 やや軽薄な男の声だが、周囲に人はいない。

 元より、ワーウルフであるルジンは単独行動が多く、この日もそうだった。


「いきなり話しかけるな、パーシィ」

 ルジンは傭兵仲間である男の名を口にした。


 パーシィ・ラニスコール。

 付き合いは短いが、やたらと気安く接してくる男だ。

 彼は遠隔の人間と交信するための、『セイレーン』と呼ばれる種類の《魔獣化》を受けている。

 その通信のやり方にはいつまで経っても慣れそうにない。


「それに、少し声が大きい。小さくしろ」

『そっちで調節してくれよ。やり方教えたよね』

「……わかった」


 ルジンは嘘をつき、耳朶に手をやった。

 そこには、パーシィたち『セイレーン』と交信するための金属がある。小さな輪を、耳朶に突き刺して声をやり取りする。

 ちょうどピアスと呼ばれる装身具に似ている。

 ルジンには、いまだにその使い方も、原理もいまひとつわかっていない。


「とにかく、まだ偵察中だ。こっちから連絡するのを待てないのか?」

『ぼくじゃないよ』

 パーシィの声には、かすかにノイズが混じって響く。

『ただ、都市警がうるさくてね。二刻ごとに報告あげろって』


 都市警とは、都市警備軍を意味する。

 主にダンジョン化した都市の内部での戦闘を担う組織であり、傭兵部隊はその監督下で戦うものと規定されている。


 が、傭兵部隊は基本的に「よそ者」で構成される。

 有事になれば、傭兵部隊は独自の裁量でダンジョン化した都市の外に配備され、外部戦闘を余儀なくされる場合がほとんどだった。


 当然のように都市警備軍と傭兵部隊の折り合いは悪い。

 ルジンにとっては、どこへ行っても窮屈な雇い主という感覚しかない。


「面倒だな」

 と、正直に言う。

『そう言うなよ。《転生者》との戦いの前に、魔獣の傭兵を一人でも失いたくないんだ。きみ、たまに死にたがってるように見えるからね』


「大きなお世話だ。自分から死にたがるやつなんて、どこにいる」

『そうなのかな。きみの噂は有名だからね、ルジン・カーゼム。あれは本当かい? パーティーを組んだ《転生者》たちに一人で切り込んで、一晩も時間を稼いだとか』

「あれは嘘だ」


 ルジンはまた嘘をついた。

 面倒なとき、ルジンにはそういう悪癖がある。

 自分のことを話そうとすると、いつも面倒な気分が頭をもたげてきて、つい会話を打ち切る方向に嘘をついてしまう。


『嘘って、そんなことある? 証言してる傭兵仲間もいるんだぜ。フェルガーだって――』

「本人が嘘って言ったらウソなんだよ。それよりパーシィ、都市警に報告あげろ」

 ルジンは白いため息をついた。


「ユルグス市は壊滅状態。城壁が破壊されてる」

『……やっぱりそうか。そうだよね』

 パーシィの声は軽薄なままだが、喋る前にわずかに沈黙があった。


『生存者は?』

「わからない。これから確認しにいく」

『ええ? 本当に? そんな状況で《転生者》のやつらが生き残りを出すかな。もう戻った方がいいんじゃないかい、物資の回収なら都市警が――』

「悪いが、パーシィ。ちょっと黙れ」


 ルジンは目を細めた。

 ちらつく雪の彼方、ユルグス市の只中で、影が動くのを見た気がする。

 錯覚として片づけるには、ワーウルフの感覚は正確すぎた。


(何かいる)

 しかも、人型の生き物だ。一人。雪を蹴立てて走っている――らしい。

 姿勢を低くして、建物の残骸に身を添わせるように駆けている。


(追われているやつだ)

 ルジンはそう結論づけた。

(つまり人類)

 追われる側はいつも人類だ。まだ距離はあるようだが、《転生者》がどこかにいる。それ以外に考えられない。


「くそ」

 ルジンは悪態をついた。

 どんな《転生者》に追われているにせよ、人類が一人や二人で対処できる相手などいない。

 助けに行けば自分も高い確率で死ぬだろう。

 だが――


「……約束があるからな」

『え、なに? なんだって?』

 パーシィが尋ねてくる。

 声に出してしまっていたらしい。それほど動揺していたということか。自分もたいしたことのない人間だ。

 このところ、つくづくそう思う。


 そうであるならば、せめて、自分の手に余るようなことを行い続けるしかないだろう。

(そうすることをやめれば、本当にたいしたことのないやつで終わる)

 ルジンは一度、強く唇を噛んだ。


「パーシィ」

 ルジンは地面に伏せた。

 それは、走り出すための「溜め」の動作だった。


「いますぐフェルガーの部隊を起こせ。ユルグス市跡地へ航空支援を頼む、俺は時間を稼ぐ」

『無理だ。フェルガーはまだ寝てるよ、昨日も出撃で――』

「叩き起こせ」

 ルジンは右手でクグリ鉈を抜いた。やや短く、分厚い鉈だ。ルジンの故郷では狩りにも使われる。

 左手では、また別の道具を探っていた。

「人間が追われてる」


 ルジンは走り出す。

 足元の雪が砕けて散り、矢のように体を前へ跳ばす。

 ワーウルフの速度は、どんな駿馬をも超えると言われる。それは事実だ。


『ルジン、よせ』

 パーシィはむしろ呆れたように言った。

『たぶん死ぬよ』

「死んでたまるか」

 それきり、ルジンはパーシィの声を意識から締め出した。


(間に合うか?)

 みるみるうちに距離が縮まる。人影の様子が見えてくる。


 どうやら、逃げる人影は女のようだ。

 黒髪で、長身の女。下手をするとルジンより背が高いかもしれない。

 その走る動作は、どこか肉食の獣のようにしなやかだった。なにかの訓練を積んでいるのかもしれない。


 ルジンの目は、さらに別の影を捉える。

 女を追っている群れだ。数を数える――六、いや、七体。徐々に距離を詰めている。

(《転生者》だ。しかも集団か)


 こちらの一団は、雪に紛れるように白い。

 大型の犬ほどの背丈がある。

 見た目は、四本足の蜘蛛といったところか。全身が甲殻に覆われ、足先に鋭利な鎌にも似た鉤爪が見える。


(バンディットだ)

 そう名付けられた《転生者》である。

 この種は《転生者》たちにとって、斥候にあたる。戦闘を得意とする種族ではないが、素早く、知覚範囲も広い。

 その性質上、ほとんど常にパーティーを形成して行動する。


(敵が多い。俺にはすべて倒せないだろうが――)

 ルジンは覚悟を決めることにした。

 少なくとも、いま、一度だけなら奇襲ができる。


(落ち着け。俺はたいしたことのないやつなんだから、せめて焦るな)

 ルジンはわずかに速度を抑え、距離を保つ。右手でクグリ鉈の柄を掴み、左手は外套の内側で握りしめる。

 バンディットの索敵限界ならば熟知している。


 ワーウルフの戦いの基本は、待つことだ。

 交戦状態の生物がもっとも無防備になるのは、攻撃に移るその瞬間にある。

 だから待った――攻撃のときはすぐにやって来た。


 黒髪の女が、何かに足をひっかけたのか、よろめいて倒れかけた。

 踏みとどまったが、バンディットの一群との距離が急激に詰まる。黒髪の女が振り返った。その白く張り詰めた横顔が見えた。

 バンディットたちの、先頭の一匹が跳躍する。


(ここだ)

 ルジンは跳ねた。

 弩を超える速度で飛び、攻撃を仕掛けたバンディットの一体と交錯する。

 頭部を掴んで、首元に刃を差し込む。


 ぶつん、と、硬質な手ごたえがあった。

 ワーウルフの最高速度で、なおかつ呪詛によって鍛えられた鋼で、正確に斬撃を行わなければこうはならない。

 バンディットの体が崩れ落ちる。


(まだ、せめてもう一つ)

 もう一体。

 後続のバンディットに向けて跳躍する。

 今度は反応された。鉤爪のついた前足が二つとも振り上げられる――ルジンはその攻撃に対して、体を投げ出す形になる。


 が、その寸前、バンディットの鉤爪が止まった。

 ルジンの左手が動いていた。相手には何をされたのか、まったくわからなかったはずだ。ルジンの左手から、きらりと光る紐のようなものが見えた。

 それも一瞬のことにすぎない。


 ルジンは体をひねり、即座にクグリ鉈を一閃する。

 二体目のバンディットが崩れ落ちた。

 ただ、そこまでだった。


 残りの五体の動きが止まっていた。警戒するように間合いを開く。

 バンディット特有の巨大な複眼が、ルジンを見つめてくるのを感じる。


 ルジンのことを、警戒すべき相手だと悟ったのだろう。

 バンディットには、相手の戦力を測る能力が備わっていると聞いている。運動能力や、身体強度を見切るのだという。


(腹が立つほど利口だな)

 ルジンは強引に笑うことにした。そうでなければ震えだしそうだったからだ。

 奇襲できる時は過ぎ去った、五体は数が多すぎる。

 時間稼ぎはどのくらいできるだろうか。


「逃げろ、おい」

 ルジンは背後に向かって告げた。

「東へ走れ。俺の仲間が来る。急げ」

 当然、そちらからは無言で走り去る足音か、あるいは状況を理解できずに聞き返す声が返ってくると思っていた。

 しかし、違った。


「無用だ」

 有無を言わせない、切断するような声だった。

 思わずルジンは一瞬、目だけで彼女を振り返った。聞き間違いかと思ったからだ。

「……なんだって?」


「貴君の志には感謝するが、無用な助けだと言ったのだ。やつらを誘導していたところだ」

「誘導」

 ルジンは理解し損ねた。


「何のために?」

「殲滅だ。それ以外に何がある」

「……友軍がいるようには見えないが」

 単独で《転生者》を、その群れを相手にしようとするのは、正気の沙汰ではない。救援の見込みがあってはじめてできることだ。

 ルジンは自分のことを棚にあげて、そう思った。


 それでも黒髪の女は、少しも表情を動かさなかった。

「友軍は必要ない。私一人で事足りる。偉大なる魔王陛下の臣として、やつら程度に後れはとらない」


 魔王。

 という、その響きが妙に引っかかった。

 そういうことを口にしていたやつがいた――その男を思い出した。


「魔王って、なんだ? 人の名前か?」

「無知だな。しかし、咎めはしない。誰もがいずれ知ることになるだろう」

 長身の女は、どういうわけか嬉しそうに笑った。

「大いなる人類の守り手。戦の導き手にして、この世の希望――その御名こそ、ルジン・カーゼムという」


 なんだそれは、と、ルジンは思った。

 わずかな混乱――しかしそれどころではなくなった。

 ルジンの混乱を察したのか、バンディットたちが動き出していたからだ。

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