魚の骨
篝
魚の骨
骨が手に。刺さりました。
流血なんて言葉を使うほどのものでもなく、ほんの点のような赤色が私の左手に。手のひらというには、少し逸れた場所。でも、きっとそこに絆創膏を貼ったらすぐきっと剥がれるでしょうね。手はよく、洗う方なので。
ええ、本当微かな量なのです。自分の骨が肉や皮を突き破ったとかのようなバイオレンスにはほど遠く、この小さな事件には、人間は私しか登場をしません。
本当ですよ? この一人暮らしのアパートの一室。この部屋の登場人物として名前を書く必要がある人間は私だけ。
ただ、この魚野郎をそこに並べるか否かなのです。人間では、ありませんので。
ですがこれの事件の加害者はこの一匹の鰺に過ぎないのですから。
とっくの何時間前に、そもそも今日なのかも存じ上げない頃合いに息の絶えたその魚は私の手と、その手が握る、個人比お金をかけて購入した包丁でされるがまま三枚に下ろされる予定でした。
ですが、死してなお。いえ、死んだからこその抵抗で、私という生者の肉に傷をつける。
私はおそらくですが、魚よりは強い生物だと自負をしています。
嘘をつきました。サイズに寄ります。鰺には勝てると思います。
魚釣りの経験だって数えるほどとはいえ、ありますし。それに実家時代から包丁は数多く握り、調理をこなし。更に魚だって職人様方には勿論敵いっこないレベルではございますが、末席ながらもという感じで魚を捌ける側の人間なのです。姉は駄目だそうです。まぁ、どうでもいいですが。
このために簡易ながらも研いだ包丁はとても鋭く切れ味抜群、トマトの皮にも苦戦しない見事なものだったので、それを私の皮膚に触れさせてはならぬと警戒はしていたのですが、まさか。まさかのです。
そうですよね、久しく自らの手で捌くことを怠け、スーパーのもれなく捌かれているシリーズや、お願いすれば捌いていただける、しかも私より格段に美しく仕上げてくださるものに頼りすぎて、生物の構造のことをすっかり忘れてしまっていたようです。
頭があり、目があり、口があり。
血があり、内臓があり、骨がある。
作業のように捌いて、そして腹をただ満たすというだけではなく、美味しく調理をして、食べる。
食べられるものも生きていた。でも、私はこの魚が生きていた頃を知りもしない。
知ったからといって、食べないという選択をするわけでもない。
消毒液で洗い流し、絆創膏を貼って私はすぐ魚に向き合って。それはそれは何事も無かったようにその身を捌き、可食部分以外を処分し、今日何度目の手洗いを行います。
魚の油分で指はてらてらと光り、気色が悪いので丁寧に洗いましょう。
時間も体力も消費してしまう上に、手まで荒れたりしてしまう。処分するものも多くなってしまうので本当は私だって楽でお得な方を選びたいものなのですが、そうすると、何だか色々忘れてしまいそうなのです。
魚は切り身で海を泳いでいませんし、いわゆる卵も鶏卵であって、鶏の産み落としたものですし。
テーマパークの着ぐるみは人が入って努力しているものですし、我が家系のサンタさんは父の頑張りでした。
知らないということは、知らないという免罪符ではないはずなのに、知らなかったで済まそうとどうしても思ってしまいます。でもそれを悪ともいえないわけでして。
幼稚園のときに切り身の魚が泳いでいる様子を描いた私はいつ、そうではなくなったのでしょう。いつ、着ぐるみの中に人がいることを知ったんでしょう。いつ、サンタの、我が家のサンタさんの正体を知ったのでしょう。
最初から知っていても、それは心ないように思われ、でも何歳にもなって夢を見ているとそれはそれでよくないこととされます。
私の身体にだって、見たことはないですけど骨があって内臓があるはずです。
魚とは違いますが、きっとあんな鋭利な物で開かれれば、なんだかんだ似たり寄ったりなものが出てくるんだろうとは思います。知らないですけど。
でも、そんなことを毎回考えていては食事なんて出来ませんし、人間なんてやっていられません。
まぁそうですね。孫に囲まれながら、購入した素敵な一軒家で、老衰で死ぬという夢のために私は食べて生きて生きながらえないとならないのです。
きっと今日の食事の記憶なんて数日後には消え去るレベルのことだと思います。
でもこうやって考えた日があったのは私にとってマイナスではない、はずです。分かりませんけど。
とくに特別な人間ではない私が、なんとなくで選んだ魚の一匹を、何度行うか分からないほどの食事の一回を、一人暮らしの狭めの部屋で、一人食べるだけの、そんなどうでもいいお話。
なんて、ね。笑っちゃいますね。
魚の骨 篝 @kagari_kazari
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます