第三章 青猫レストラン
#3-1
「ねえお嬢さん、公園でもいかない?」とノワールはオペラの顔を覗き込む。いつもの通り、オペラは二つ返事で誘いに乗るだろうと思っていたのに、彼女の反応はやけにあっさりとしたものだった。「ごめんなさい。今日は予定があるの」
「予定?」とノワールは首を傾げる。オペラはちょっと困ったように笑って、「レストランに行くのよ。相談に乗ってくれって、店長に言われているの」
「レストラン? お嬢さん、レストランで働いていたの?」
「違うわよ。よく行っているレストランが……ああ、ごめんなさい。急がないといけないの。またあとでね、ノワール」
オペラの去っていく背中を眺めながら、ノワールはきょとんと目を丸くしている。いままで、オペラは自分の誘いを断らなかったのに――などとは、ノワールも言うつもりがないし、そもそも時々はそういうことだってもちろんある。それでも、こんなにさっさと背を向けてしまうのは初めてだったのだ。
だから、ノワールが些かばかりの不安を感じてしまったのは、ノワール自身も仕方がないことだ――と思ってすぐに、「いや、なんで不安を感じるんだ?」と自分で自分に首をひねる。
こっそりオペラについていこうかと右往左往して、ノワールは結局、彼女の兄であるブルーノのもとにきていた。ブルーノは「なんだ、酒の誘いか? それともナンパ?」といつも通りで、そんな彼を見てノワールは我知らず安堵する。
「うんうん、お嬢さんに他の男ができたのだったら、ブルーノがいつも通りのはずがないもんね」
「何の話だ? オペラに男……オペラに男!?」
ノワールがぽろりと零した言葉を二度繰り返して、ブルーノは血相を変える。それを見て、ノワールは「おや」というより「ああ、いや」とそれを否定した。「多分、違うんだよ、ブルーノ。俺の勘違い」
「なんだ、お前の勘違いか。そういう訳の分からない勘違いをするな、心臓に悪い」とブルーノがふんと鼻から息を吐き、胸を張る。「なんでまた、そんな面白くない勘違いをしたんだ」と訊ねられ、ノワールは「ううん」と唸り、黙してしまう。
「なんか……レストランがどうとかって、慌ててどこかに行ってしまったんだよ。俺のデートを断ってさ」
「おっ、デートを断られたのか。それはよかった」
「きいている? ブルーノ」とノワールが声を低くすると、流石にブルーノも、咳払いをして、ノワールの話に戻してやることにしたようだった。「レストランって、コパンのレストランのことだろう? 青猫レストランだよ、お前もよおくご存知の」
「……えっ、コパンのところに行っているの」
ブルーノの答えは、ノワールにとって予想以上に最悪のものだった。ただのレストランならまだいい、それなら、彼女が社会勉強だとかなんだとかで、アルバイトをしているのでもまだ良いとさえ思う。なのに――よりにもよって、コパン=シャ=アミのレストランだって!
「お義兄さん。一生の頼みだ」とノワールが突然ブルーノに首を垂れると、ブルーノは面食らって「な、なんだ」としどろもどろに姿勢を正した。ノワールはちょっと顔を上げて、ブルーノの両肩を強く掴む。「コパンのレストランに行っているときの、お嬢さんの様子を全部教えて。全部。俺が行かなくて良いようにね」
◆◆
自宅に帰ってきたオペラを捕まえて、ブルーノは散々に笑ったあと、「なあに?」と自分が笑われているのだろうと不機嫌になっているオペラに弁明した。「違うんだ、オペラ、はは……ノワールがおっかしくて……」
「ノワールが可笑しいって?」
「あんなに嫌わなくったって良いんだ。行きたいならいつもみたいにしゃあしゃあとして顔を出せばいいのに……あいつがあんな血相を変えて、一生のお願いだなんて」
「何の話」と、ブルーノの話の要領がまったく掴めずにオペラは首を傾げたまま、眉根を寄せている。そんなオペラに、ブルーノはやっと笑うのをやめて、「オペラ」と彼にしては珍しい仏心を出した。「ノワールの誘いを断ってまで、レストランに行くのはやめてやれ」
しかし、その心遣いは、オペラにとって分かりづらいものであり、だからこそ彼女は「意味が分からない」という顔をして、「どうして」と短くブルーノに訊ね返した。
「どうしてもだよ」としかブルーノが言わなかったのは、この兄の性質からしてみれば、仕方のないことだったのだ。
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