第二章 ノワールの恋人
#2-1
「お嬢さん、チケットいらない?」
そう言って、いつものようにチケットを渡すノワールに、オペラは首を傾げる。「なあに? また兄さんと行って来いって?」
「そうそう。俺はこういうの、どうも苦手でさ。お嬢さんがもしよければ、なんだけれど」とノワールは心底困ったという風にオペラに言う。オペラがノワールに呈した疑問は当たり前のものだった。「苦手なら、毎度のようにチケットを取らなければいいのに」
「俺の友人が、無理やりくれるんだよね、それ。どうしたらいいのか困っているんだ。お嬢さんに楽しんでもらえれば、そのチケットも喜ぶんじゃないかと思ったりしてさ」
「わかったわ、そういうことなら喜んで。でも、ときどきはあなたも行きましょう、ノワール。チケットをくれるご友人も、きっとあなたが来る方が喜ぶわよ」
オペラの言葉に、ノワールは二度頷いて、「うん、気が向いたらね。さ、いってらっしゃい、お嬢さん」とオペラの背を軽く押した。「仕方のない人」とオペラが口をすぼめたのを見て、ノワールはへらりと笑っていた。
サフラン家に戻って、ソファで体を休める兄に寄っていき、オペラは彼の目線に屈みこんだ。「ブルーノ、劇を見に行かない?」とオペラが言うと、ブルーノは眠そうに目を擦りながら、「劇?」と欠伸交じりに返した。「そうよ。劇。ノワールがチケットをくれたの」
「そうか、そうか。ノワールの奴、俺とオペラに行ってこいって言ったのか」
「そうみたい。でも、いつもいつも貰ってばかりで良いのかしら」
ふと心配になったオペラがそうブルーノに訊ねると、ブルーノはいかにも面倒だとでも言いそうな表情で、「気になるなら、焼き加減を失敗したケーキでも持っていけばいい。きっと喜ぶからな」
「ブルーノ?」と目を細めたオペラを見て、ブルーノは咳ばらいをひとつする。「まあ、それは良いとして……なにもやらなくていいよ、オペラ。だってあいつは自分が行きたくないだけなんだから」
「苦手とは言っていたわね」と返したオペラに、ブルーノは「苦手?」といっていじわるく口角を上げた。オペラが「なあに?」と訊ねれば、ブルーノは「苦手といえば苦手だろうな。でも羨ましいともいうか」と曖昧でよくわからないことを口走る。
「もしかして、女の人がらみ?」とオペラが鋭い洞察で呆れ果てると、ブルーノは白い歯を見せて、「そうだぞ、オペラ。ノワールには恋人がいるんだ」
そのブルーノの言葉をきいたオペラはといえば、ブルーノが期待しているような、恋に破れた悲し気な反応ではなく、「……恋人?」と呟いて、ふうんと鼻を鳴らし、「それとこのチケットに何の関係があるの、兄さん?」と目を丸くして訊ね返しただけであった。
シャノワール=シュヴァルツとオペラ=サフランは、結婚の約束を交わした恋人たち――俗にいう婚約者というやつである。
この町の領主で有名人、そして人気者のノワールに突然婚約者が現れたと町内誌がひとしきり騒いだあと、それが落ち着いた頃になってやっと、二人は当たり前のデートを静かに楽しむようになっていた。
デート、とはいえ、ノワールとオペラの間に恋愛感情はなく、二人の間にあるそれは友人だとか、知り合いだとか、そういったものにとても近い。
「事情を話しても良いけれど、ブルーノが可哀そうだからやめておくわ」というのはオペラの言で、ノワールはといえば「酒の勢いってこわいよね」ということだった。
オペラ=サフランには、前々からすこし気になっていたことがあって、それがこのチケットにも関することだった。
チケットを貰うことも、「お兄さんと一緒に行っておいで」と言われるのも、なにも文句はない。行った先の舞台も、とても良いものばかりで面白いと思う。……思うのだが。
「舞台女優に見られている?」
「そう。なんだかこちらばかりに視線がくるのよね」
オペラが「なんだか女優さんに見られているの」とブルーノに相談すると、ブルーノはそう鸚鵡返しをして腹を抱えた。そんなブルーノの様子は流しつつ、オペラは自分が気になっていることを言う。「おかしいと思わない? いつも同じ席でもないのに、毎回私の方向ばかり見るのよ」
「オペラ、あのなあ。舞台を見た客はみんなそう思うんだ、あの女優が、あの俳優がこちらを見たってさ。かくいう俺も、シアメーセに毎回十回は観られてる」
オペラはブルーノの言葉に頷いたが、それは同意や納得の動作ではなかった。「あの女優さん、シアメーセっていうの?」とその女優の名前に引っかかりを覚えたのだ。
ブルーノが、何故かきょとんと目を丸くする。「うん? オペラ、もしかしてお前を見ている女優って、シアメーセのことか?」
「どこかで会ったのかしら……でも、記憶が全くないし……」とぼそぼそ呟くオペラに、ブルーノは一瞬真面目な顔をした。「オペラ、それ以上考えない方が良い。ろくなことにならないからな!」
「え?」とますます首を傾げるオペラを無視して、ふっと会場の電気が消える。それを合図に、ブルーノは舞台のほうへ視線を移してしまった。「始まるぞ」とブルーノに声をかけられ、オペラも慌てて口を閉じる。
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