桜のころに。
瀞石桃子
第1話
桜のころに。
すごく濃厚な春よ、来い。
桜はわたしの前で散って、太平洋に流れる川の水面に愛を描け。
鶯を一万匹集めてきて、頼りない人たちのもとへ飛ばし求愛をするように囀ってくれ。
土筆、蒲公英、菜の花、鬱金花、色鮮やかに芽吹け。
爽やかな音色に乗って、春の風よ、吹き抜け。
あたたかな陽射し、あの人の重いコートを脱がして。
そしてたくさんの爛漫な女の子に、恋人と手をつないで歩くための紺のスニーカーを。
✿
「引越しは順調に進んでるの」
わたしは首を横に振った。まだまだ全然。
ふうん、とノゾミちゃん。
「こんな呑気にしてていいの」
息抜きは必要だよ。
「あんたは息抜きしかしてないでしょう」
やることはちゃんとしてます。
本棚の本は整理したし、冷蔵庫と洗濯機はほかの人に受け渡すことにしたし、台所の保存食とかも消費してるよ。
「なにそれ、なんかバラバラだね」
大丈夫。わたしがやってるんだから、べつに混乱したりしないから。あ、でも服の仕分けがすごく時間がかかりそう。見てたらほんとに自分で買ったかどうかわからないやつとかいっぱいあった。
ほんとうは捨てたほうがいいんだけど、着てみると似合うから捨てられないんだよね。そんなのがたくさんあるの。
「服は箪笥の肥やしだね」
うん。肥やしてるよ。ちょっと臭いし。
「洗濯しなさい。洗濯を」
多すぎてやる気がなくなるの。だからほかのことをしてる。
「何してるの」
ネットとか。ヒトカラ。
「逃げてんじゃん」
だってー。やること多すぎて何から手をつけていいか、わからないんです。そうしてあれもしなきゃ、これもしなきゃ、って考えているうちに夜になって。もうそれからは、何もしたくなくなるの。
「彼氏とはひんぱんに会うくせに」
あいつはどうでもいいの。どうせ手伝ってくれないし。
「構ってくれないし」
すぐ寝るし。
「カスガ、もう少ししっかりしたほうがいいよ。なるべく自分の力で解決するようにならないと、社会に出てから困るのは自分なんだよ」
それくらいわかってる。けど、やる気が湧いてこないの。昔みたいに、考えなしに突っ込んでいくようなバイタリティが弱まりつつあるよ。
最近、よく実感する。
でも家にいても、何もする気起きなくて、けど外はぴかぴかに晴れてて、お散歩日和だし、桜もそろそろ開花する時期だったから、ね、ノゾミちゃんを誘ったんだよ。
「まあ、確かに今週が見頃かもしれないね」
でしょ。ほら見て、すごくきれい。
わたしたちは川沿いの土手を仲良く歩いていた。雲ひとつない春の陽気は、上昇気流をともなって、気温をぐんぐんあげて、歩いている人々は上着を脱いで、腕にかけていたりした。お花見をするにはちょっと暑いくらいだった。わたしも少し着すぎた感があり、脇のあたりに汗ばんでいるのを感じた。
川沿いには太い幹の桜の樹が立ち並んでいた。花は八分咲きといったところで、遠く遠くまで、ぼんやりとした薄桃色の帯が天の川のように続いていた。
せわしない毎日ではあるけれど、こうして情景の豊かな自然の中をそぞろ歩いていると、のどかな気分、のんびりした心地になった。
✿
「見てると落ち着くね」
桜だね。
「桜だよ」
かわいい花柄の服が欲しいな。なんか、薄手の、メッシュになっているようなやつ。
「買えばいいじゃん」
今買ったら、また服が増えるから買えない。あとお金ない。引越しのせい。
「貯金あるの」
銀行にあと10万くらい。なんとかなってるよ。金は回りものだから、もし困窮したら誰かが助けてくれる。と、信じてる。
「わたしにすがらないでよね」
うん。すがらない。頼るだけ。
「助けてやんないよ」
やだよ、助けてよ。意地が悪い人のところには、お金は来ないよ。
「今はお金に困ってないんでご心配なく」
わたしは困ってるので、助けてください。
「助けません」
頭の固い御仁ですこと。
だから、いつまでたっても彼氏ができないんだよ。もっと相手に尽くす女にならなきゃダメなんだよ。人間は一日に数百億の細胞が死んでいるんだから、相手を大切にするっていう気持ちがすごく大事なんだよ。
「相手を大切にしすぎて束縛に感じられて、最終的に別れてしまうケースもあります」
逆に相手から全然相手にされなくて、物足りなさを感じて喧嘩に発展するケースもありますが。
「なにそれ。今のあんたたちのこと?」
いや、ちが、ちがうし。
「じゃあ喧嘩したことないの」
たくさんある。何度泣いたかわかんない。別れようとも言った。
「なんで別れないの」
ひとりになると、いつのまにかあいつのこと考えてしまうんだよ。そしたらなんか……。
「あんたって、よくそういうの真顔で言えるね。聞いてるわたしのほうが恥ずかしくなる」
ほんとだ。ノゾミちゃん、顔赤い。
猫みたい。
「なんで猫」
うちで飼ってるやつ。かわいいんだよ。うちのは頭悪いけどね。
まあ、そんなことはどうでもいいかな。そろそろそのへんに座って、お昼食べようよ。サンドイッチあるよ。あとお茶ね。
✿
「地べたにそのまま座るの?」
ノゾミちゃんの言葉にわたしは立ち止まった。あ、しまった。シート持ってくること考えていなかった。シートがなくても座れないことはないが、ふたりともお尻が汚れてしまうのは、ちょっと見栄えがよくないと思った。公園でもあればベンチはあっただろうけど、ここは何のことはない、普通の土手だった。
わたしはいろいろ考えた後、ノゾミちゃん、と声をかけた。
「どうするの」
このサンドイッチとかを入れてきたビニール袋を敷こう。小さいけれど、ないよりはマシだと思う。
「ええー、本気? わたしそんなおなか空いてないから、もう少し歩いてからゆっくりできるところでもいいよ」
わたしはおなか空いた。サンドイッチが食べたいな。満天の桜の樹の下で、風に吹かれて散りゆく桜の花びらを眺めながら食べたいな。
どう、風情でしょ?
「ビニール袋じゃ風情が台無しですけど」
それを上回る圧倒的季節感があるから関係ないよ。
こんなところでおちおちしててもどうしようもないし、桜はわたしたちのことなんか待ってくれないんだよ。今日の麗しき春は、この先二度とやってこない春なんだよ。
「カスガも人のこと言えないくらい強情だよね」
芯が強いと言ってほしいです。
で、食べるの? 食べないの?
「はいはい。食べよう食べよう」
✿
「さっきの猫で思い出したことがあるよ」
ん、なに?(もぐもぐ)
「わたしさ、中学の一年か二年のときに帰り道で猫が死んでいるのを見つけたんだよね。たぶん車に轢かれたんだと思うけど、道路の脇のほうにべったりしていてさ、その猫を囲むように、血が赤い絵の具をこすったようにこぼれていたんだよ」
それはかわいそうだったね。
「うん。かわいそうだった。かわいそうだったけど、自分じゃどうしようもなかったから、心苦しく感じながら一度は通り過ぎたんだけど、あとから急に気になり出して戻ったんだよ」
ほう。ふんふん。
「猫はまだそこにいたよ。死んでるし、魂もないし、わたしが同情から戻ってきたとしても、その猫には何も関係ないと思う。けれど、わたしが見つけてしまった以上、あの子を無視することはできなかった。だから、周りに人がいなくなった瞬間に、その猫のところに駆けていって、その猫を抱き抱えて近くの神社に行って、そこに埋めてあげた」
ノゾミちゃん、すごいね。えらいね。
「すごくなんかないよ。たぶんカスガも同じようにしていたと思うよ」
どうだろう。わたしはなんだかんだで無視してしまうかもしれない。自分でなくても、ほかの人が気づいてやってくれると思ってしまうかもしれない。もちろん、周りに誰もいなかったらしてあげるかもしれないけど。
というか、どうしてこんな話を?
「特に意味はないけどさ。なんとなく思い出したから」
ふうん。
「けどまあ、死ってそういうことなのかもしれないって思うよ」
そういうことって、どういうこと。
「死という事実は時間と一緒に確実に風化していくけれど、ふとした拍子にころりと思い出して、今までの自分を戒めるきっかけとして生き返るものなんだよ」
生き返るというのは言い過ぎかもしれないけどね、とノゾミちゃんは付け足した。
「簡単に言うとタイムカプセルみたいなものだね。わたしはその猫のことを今まで思い出したこともなかったし、中学以降完全に忘却していたけれど、こんなふうに思い出すこともある。ずっと頭に残っていることというのは、実は案外少なくて、そういうものって確かに大事だけど、生きていく中でちょっとずつ認識が変化していくんだよ」
うんうん。
「この言葉は覚えておこう、と思っていても、十日後一ヶ月後には一言一句明確に覚えられているとは限らないし、リアルタイムで受けた瑞々しい感触のようなものは、いずれ硬化していくんだろうと思う」
硬化していく、もの。
「なにが大事とかではないんだけどね。タイムカプセルに入れた思い出は取り出したときに、ほとんど最初と変わらない姿で蘇るから、それはそれでいいのかもしれないと思っただけ。そうすればこそ、忘れてしまう、ということにも何かしらの意味はあるのかもしれないよ」
忘れてしまうことに意味、ね。あるのかもね。
「意味がないことも、意味があることかもしれない」
ノゾミちゃんって、そんな哲学的なこと考える人だったっけ。
「さあ、どうだろうね。まあ、いいさ。ほら、さっさと片付けてまた歩くよ」
ノゾミちゃんはそう言って立ち上がり、お尻に敷いたビニール袋をぐるぐるに丸めてポケットに押し込んだ。
わたしもそれに続いた。
✿
帰り道。
わたしはひとつのことをふいに思い出して、立ち止まった。それに気づいたノゾミちゃんが、どうかした、と声をかけた。
わたしは答える。
今日、お兄ちゃんの誕生日だった。
「お祝いしてあげなさい」
そうする。
桜のころに。 瀞石桃子 @t_momoko
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