第38話 算術と来客

「はぁ、さっぱりした……」

俺は適当な半袖のワンピースに着替えて、教科書を読んでいるのか目を開けたまま寝ているのか分からないような、気の抜けた表情で部屋に佇むリアナのもとへと戻った。


「あら、上がったのね」

それからリアナは何かを思いついたようにニンマリと笑う。


「……可愛かったわよ」

「なっ! 何の話? ほら、授業に戻るよ」


一瞬顔が熱くなった俺をみて笑い声を漏らすリアナを少し睨みながら、俺は話を戻す。

そもそもリアナをわざわざ外に連れ出したのは、合成魔法によって魔力消費が少なくなる感覚を少しでも理解させるためだ。

その感覚が残っているうちに説明をしてしまわなければ、せっかくの実践練習が無駄になってしまうからな。


「さあ、リアナ。97ページを見て。問題が載ってるでしょう。いくらになると思う?」


問題文はこうだ。「軽い氷を撃つ魔法『water flow:ε,wind blow:μ;synthetic , do ice and squall』の詠唱における魔力値を求めよ」

あまりレベルの高くない魔法学院だとこれがそのまま入試問題の一部になることもあるらしい。だが、決して難しい問題ではない。


「えーっと、5と12でしょ。14とか15くらいかしら?」

リアナの考え方は、確かに間違ってはいない。それぞれの魔力値よりは大きく、魔力値の和の値よりは合成魔法の効果で小さくなる。12と17の間なら14とか15と答えたくなる気持ちも分かる。だが、


「違うよ。答えは13」

「え、なんで? なんでそんなに小さくなるの?」

「さあ、考えてみて。少しだけ時間をあげるから」


俺はこの時、この世界の教育課程はそれなりに上手くできているなと感心していた。

俺の前任の家庭教師は、この世界で広く一般に用いられている教育課程を採用していて、当然にして俺もそれに倣っている。

そしてその課程では、「魔法科学」で合成魔法を習う頃には、既に「算術」で学習しているはずなのだ。

――――――三平方の定理、を。


三平方の定理とは、直角三角形の斜辺の長さの2乗は他の2辺の長さの2乗の和に等しくなる、という、元の世界では比較的よく知られた定理である。


たとえば縦が3、横が4の直角三角形の斜めの辺は、3×3+4×4=25=5×5となって5になる。

この定理が有名なのはこの世界でも同じであるようで、中等学院の1年生で学習することになっていた。


と、口許を抑えて考え込んでいたリアナが、不意に表情を綻ばせて叫んだ。

「あ、わかった! この前算術でやった定理ね! 平方がナントカみたいな」

俺は苦笑しながらリアナの答えに頷く。


「三平方の定理、だよ。まあ正解。5×5+12×12=169=13×13だからね。答えは13」

「けど、なんで合成魔法と直角三角形が関係あるのかしら?」

「いい質問だね。さっきの話覚えてる?」

「さっきの話? あの、魔素の振動がどうみたいな話のこと?」


まさしくそうだ。魔素の振動の大きさはそのまま魔力値を表し、合成魔法とは片方の属性の振動と、他方の属性の振動が垂直になっていて、斜めの振動になるために消費魔力が少なくて済む。つまり、水属性の振動が横に大きさ5、風属性の振動が縦に大きさ12ならば、合成した斜めの振動の大きさは当然、横5、縦12の直角三角形の斜辺の長さと等しくなる、というわけである。


「なるほどねー……」

魔法科学はいわば理系科目だ。そして、理系科目には往々にして数学が登場する。

数学をつかうことで、魔法を上手く扱うことができる。


この世界は、俺に学ぶ理由を与えてくれる。元の世界ではせいぜい受験のため、という程度でしかなかったさまざまな科目が、実生活の中で役に立つことを実感できるのだ。

教科書に載るいくつかの例題にとりかかるリアナが可愛らしく唇に手を当てるのをみながら、俺はちょっとした愉しさすら感じていた。




授業を終え、部屋で書学の教科書を読んでいると不意にノックの音がして、ゆっくりと扉が押し開けられた。

「ノエリア先生、お客様がいらっしゃっていますよ」

「あ、はい」


お客様……?

誰だろうか。生憎、この世界でわざわざ家まで尋ねてくるほどの知り合いに心当たりはない。アレシア市長や御者のセサルさんくらいならあり得るかもしれないが、それだったらお客様なんて言い方はしないだろう。それ以外の知り合いなんて、八百屋のおばちゃんとかぐらいのものだ。


来客者の想像がつかない微妙な気持ちを抱えたまま正面の門の方に向かう、とその時突然、少し懐かしい声が俺の耳に響いた。

「あ、ノエリアちゃーん、久しぶり!」


果たしてそこにいたのは、あの少女だった。

別に名前を忘れたわけではない、チャロス村にいた、あの名前のない少女がそこにいたのだ。


「久しぶり」

と、言葉を返しながらも、俺はやはり怪訝に思わざるを得ない。

「えっと、それで……、今日はどうしたの?」


チャロス村からここまでとなれば、結構な距離だ。まさか、挨拶をするために来たわけではあるまい。

「いや、えっとね、あたし、ここで雇ってもらうの」

……は?

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