第15話 市長の書斎

重厚な木製の、鍵のついた扉を軽くノックする。

「開いているよ」


内側からくぐもった声の返事が聞こえて、俺は恐る恐るその扉を押し開けた。

市長の書斎に入るのは初めてだ。


後ろ手にゆっくりと扉を閉め、既に中にいたリアナの隣に立つ。

リアナは寝起きのようで、寝巻きのまま、さっきからずっと眠たそうに目を擦っていた。


この部屋は、この屋敷の他の部屋に比べれば少し手狭で、言い換えれば作業に没頭できそうな場所だった。

書斎の中央には大きな机が置かれ、左右の本棚には本がびっしりと詰まっている。


「呼び出してすまないね、ノエリア君」

「いえ、お気になさらず」


俺が小さく答えた横で、リアナが欠伸をみ殺した。

「それでお父さん、急に何の用なのかしら?」


朝早くに起こされたことを攻めるような調子で尋ねるリアナを、市長が宥める。

「まあそう慌てるな、リアナ。それでノエリア君、確か今日は、授業が休みだったね?」


俺が頷くと、市長は安心したような表情を浮かべた。

以前にもらった時間割表の今日の日付には、何も書かれていなかったはずだ。


「実は、ヨルム市のアレシアさんから連絡があってね。サラちゃんから話を聞いて、心配だから、久しぶりに顔を見せて欲しいそうでね」


「アレシアさんが?」

リアナが問い返し、アーネスト市長は大きく首を縦に振りそれを肯定した。いや、ちょっと待て。


「アレシアさん、というのは?」

この世界に来て初めて聞く名前、だと思う。


「サラちゃんのお母さんよ。ヨルム市の市長なの」


サラ。初めてこの世界に来た時、森で出会った幼子2人うちの女の子が、そんな名前だったか。

ヨルム市は確かヴェルダ市の東側に隣接する街だ。以前地図帳で見た覚えがある。


「アレシア市長は、私の貴族小学校時代からの顔馴染みなんだよ。隣り合う市の市長同士、今でも時折会っている。それで、どうも娘のサラちゃんから、リアナが森で魔獣に襲われた事を聞いたらしくて、手紙を送ってきたんだ」


それで久しぶりに会いたい、と。そいうことか。


「それじゃあ、今日、サラちゃんの家に行って来ればいいってことかしら?」

「ああ、そういうことだ。それでね、ノエリア君も、ヨルム市について行ってもらいたいんだ」

「え、私が、ですか?」


市長は、そうだよ、と頷いて言葉を続けた。


「ああ。アレシア市長とは、また関わることもあるだろうから、ぜひ会っておいてもらいたい。それに、ここに来てからずっとバタバタとしていて、服や日用品を買いに行く時間もなかっただろう。いい機会だから、ヨルムで服でも買ってくるといい。ヨルム市は、州内で一番布製品が揃っている場所だから」


確かに言われてみれば、俺はこの屋敷に来てからまだ一度も屋敷の外に出ていない。


昼食も何だかんだといって、セラフィが作ってくれていたし、午後はいつも授業だった。

それ以外の時間も予習や魔法の練習、掃除なんかをしていたから、あまり外に出ようという気にならなかったのである。


結果として服も、初めから着ていた1着と持ってきた2着とをずっと着まわしている状態である。

俺としては別にそれでも何も問題ないのだが、昨日ノエリアに「またその服?」と言われてしまっていた。


そろそろ、必要なものを買いそろえておくにはいい頃合いかもしれない。


だがしかし、買い物に行くには一つ致命的な問題があった。

家庭教師としての給与をまだ受け取っていない俺は、今のところほとんどお金を持っていないのである。

現在の所持金は、わずかにノエリアの財布に入っていた青銅貨せいどうか3枚のみだ。


屋敷にあった本で調べた限りでは、ジャガイモ2個で青銅貨1枚が相場ということだったから、青銅貨3枚でジャガイモ6個、日本円にして300円前後といったところか。


これでは服を買うのにはとても足りない。

さて、どうしよう。給料の前借りってでもしようか。


俺がそんなことを考えていると、突然、アーネスト市長が俺の手を掴み、何かを俺の手のひらに押し付けるようにして渡してきた。


「これは……?」

ひんやりと冷たい感覚。ゆっくりと手を開くと、それは2枚の正銀貨せいぎんかだった。

「そんな、いただけませんよ」


仮にも俺は雇われの身だ。雇用関係は、労働力とその対価として契約で定められた賃金によって成立する。情けでお金を安易にもらうことはできない。

その手を市長の方に出して返そうとした俺の手を、市長は優しく突き返した。


「就職祝いだよ。受け取りなさい」

「しかし」

、買い物に行ってきなさい、ノエリア君」


まるで、これも仕事の一環であることを強調するような言い方だった。

俺はそこまで含めて市長の優しさであるという事を承知で、この場を折れることにした。


「……ありがとうございます」

「いいよ、気にしないでくれ。もともと、家庭教師としては安すぎるような賃金で働いてもらっているんだから」


俺はもう一度礼を言って、受け取った2枚の正銀貨を財布の中にしまった。


「それで、馬車はもう頼んであるの?」


しばらく黙って話を聞いていたリアナが、そういえば、と口を開く。馬車と言うと、ノエリアの実家に行く時に乗せてもらった。またあの人が来るのだろうか。


市長はそんなリアナのぼさぼさ髪を一瞥いちべつし、微笑を浮かべた。

「ああ、じきに来るはずだ。それよりリアナは、早く着替えて髪をかしてきなさい」

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