第三八七食 恋人たちとファーストキス

「約束と言えばお兄さん。私もうひとつ、お兄さんと大切な約束をしてたと思うんですけど」


 帰宅してすぐに晩飯の準備に取り掛かり始めた数分後、手際てぎわよくリズミカルに包丁を動かしながら真昼まひるが言った。あの不器用だった女の子が〝ながら包丁〟が出来るまでに成長したんだなあと思いつつ、俺は「切るか喋るかどっちかにしなさい」と注意する。


「約束……? あれの他になにか約束とかしてたっけ?」

「むっ……してましたよ! とーーー……っても大切な約束!」

「そ、そんなにか」


 素直に手を止め、代わりに両手を腰に当てて不満げに胸を張る真昼。この子は年齢の割に中身が子どもなので普段から「すっごく」や「とっても」などの強意語句を頻繁ひんぱんもちいがちだが……今回は本当に重要なことだからなのか、強調の度合いがいつも以上に大きい。

 しかし頑張って思い出そうと試みるも、俺には彼女とわした〝大切な約束〟とやらに心当たりがなかった。昨日まで一人で消費していた豆腐の味噌汁をあたため直しながら記憶を探っていると、少女が意趣返しのように「考えるか温めるかどっちかにしましょう」と人差し指を立ててくる。


「……わ、悪い、思い出せないや。どんな約束だったっけ?」


 大人しく火を止めてたずねた俺に、真昼は「だ、だからあ……!」となにやら恥ずかしそうに答える。


「私が試験期間中、ちゃんとごはんを食べてちゃんと寝て、今まで通り健康的に過ごしたら……ご褒美ほうびにき……キスしてくれるって」

「ぶッ!?」


 顔を真っ赤にしてそう言った少女に、驚きのあまり思わず吹き出す。ワンテンポ遅れて首から上がカーッと熱くなってきたことから、間違いなく俺も彼女と同じ顔色になっていることだろう。


「そ、それはどっかの赤羽亜紀あくまのデマカセだろ!? さも『お兄さんと約束しましたよね』みたいに言うな!」

「でもあの時、お兄さんも亜紀あきちゃんの言葉を否定はしませんでしたよね?」

「いや、あの時は理不尽な暴力を見舞われたってだけでだな……!」


 言い訳しつつ、自然と俺の視線が彼女の口元へと吸い寄せられる。まだ空気が乾燥しがちなこの季節だというのに、どこかあでやかな質感を伴った薄紅色の唇。それが再び動いて言葉を生み出すよりもわずかに先んじ、俺は「あっ、そうだ!?」と思い出したように手を叩いてみせる。


「そういえば約束とはちょっと違うけど、俺も一つ大切なことを忘れてたよ」

「話を逸らさないでください。今はキスのお話のほうが大切です」

「い、いやいやいやッ、俺の話も大切だからさ!? ほら、ここしばらく会えてなかったせいで俺、まだ君にバレンタインのお返し出来てないだろ!?」


 なにせ三月の頭頃から今日までの数週間、俺たちは会うことが許されなくなっていたのだ。ホワイトデーなどとうに過ぎてしまっているが、返すものは返さねばなるまい。

 しかしジトーッと半眼になっている少女は、そんな俺の義理堅い精神をまずに言う。


「つまり、ホワイトデーのプレゼント代わりにキスをしてくれるってことですか?」

「そんなわけあるか!? も、もっとちゃんと、真昼が喜んでくれるようなプレゼントだよ! ほら、あの有名なお店のクッキー――」

「要らないです。そんなことよりもキスの約束をちゃんと果たしてください」

「なんでッ!?」


 手渡そうとした缶入りクッキーの袋をさらっと受け流され、ガーンとショックを受ける俺。け、結構高かったのに、アレ……!


「というかどうせお返ししてもらえるなら手作りにしてくださいよ。なんで私は手作りチョコなのに、お兄さんは市販のクッキーで楽に済ませようとしてるんですか」

「普通ホワイトデーのお返しは既製品きせいひんだろ! あの高級クッキーと俺が作る下手くそなクッキー、さあどっちを食いたい!?」

「お兄さんのクッキーです」

「ほら見――いやなんでだよッ!? どう考えても高級クッキーの方が価値高いだろ!」

「こっちが手作りなんだから、そっちも手作りにしないと釣り合いが取れないじゃないですか」

「いいんだよ、ホワイトデーのお返しは三倍返しって相場が決まってるんだから!?」

「どうして三倍にする必要があるんですか? 等価交換の方が妥当じゃないですか」

「たしかにそうだけど女の子側がそれ言っちゃうの!?」


 別にいいじゃん、少なくとも君たち女の子は得しかしないんだから!? 俺が内心でそんなツッコミをする中、真昼はずいっとこちらに一歩を踏み出して言う。


「要するにお兄さんはキスの約束とホワイトデー、二つ合わせてあまーいキスをプレゼントしてくれるってことですか?」

「今の話をどう要約したらそうなるんだよ! ち、ちょっと落ち着け真昼、冷静になれ!?」

「私は冷静ですよ」


 台所の壁面まで追い詰められた俺は、少女の細い腕にふさがれたことで逃げ道を完全に失う。……なにこの状況? せめて立場逆にしようよ、女子高生に壁ドンされる男子大学生って情けなさ過ぎるだろ。


「お兄さんは私とキスするの、そんなにイヤですか?」

「い、嫌ってわけじゃないけど……ただこういうのはもっと、相応ふさわしい時と場所を選ぶべきというか……」

「〝恋人であることを親に認めてもらった後、私たちが一番たくさんの時間を過ごした場所で久々の二人きり〟。これ以上のシチュエーションって、なにか他にあるんですか?」

「うっ……!?」

「私は――お兄さんにしてほしいです」


 そう言って少女は俺の首筋に両腕を回した。熱を帯びた少女の呼気が、鼻先や頬にふわりと触れる。彼女のシャンプーや柔軟剤の匂いにちる。つま先立ちのままぎゅっと密着してくるその小さな身体は、俺の支えなしではあっというに崩れてしまいそうだ。


「……」


 俺は一度開きかけた口を引き結ぶ。「本当にいいのか?」なんてこれ以上聞くのは野暮やぼだろう。もし彼女の中にほんの少しでも拒絶心があったなら、俺が彼女の細い腰を抱き寄せた瞬間にそっと目蓋まぶたを閉じたりはするまい。全幅の信頼を全身で感じながら、優柔不断なヘタレ野郎はたった一つしかない道の上でようやく覚悟を決する。



「――ん」



 互いの体温と唇に触れる柔らかさ以外の情報が消失した世界に、彼女から漏れ出したとおぼしき吐息の音が聞こえた。

 どれくらいの時間だったかは分からない。ほんの一瞬であったような気もするし、長くそうしていたような気もする。心臓が爆発寸前の時限爆弾ばりに早鐘を打っていたわりに、頭の中は思った以上に平静だった。


「……レモンの味じゃないんですね」


 唇を離した後、それでもどちらかがえいと頭を動かせばもう一度触れあってしまいそうな至近距離で、彼女が最初にこぼした感想はそれだった。食いしん坊な彼女らしい感想に笑いそうになった俺は、両腕に力を込め直すことでそれをこらえる。


「……ああ、甘いな」

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