第三八六食 うたたねハイツと少女の帰宅


 星の少ない夜空から、月光のカーテンがそそいでいる。〝絶景〟なんて呼び方をするのは大袈裟だろうが、それでも数秒立ち止まって見上げてしまう程度には美しい空だ。少なくとも今うたたねハイツの駐輪場にたたずむ俺は、先行する少女を追う足を止めてまでそれを眺めてしまっている。


「……綺麗な月だな」


 誰にともなく呟いてから、ふと思い出して苦笑する俺。一説によると夏目なつめ漱石そうせきさんは〝アイラブユー〟をこうやくしたんだとかなんとか。凡人の俺はなかなかぶっ飛んだ感性だなあと思ってしまうが、のちの世で偉人と呼ばれるような人たちというのは得てしてそんなものなのかもしれない。

「逆に言えば俺は偉人にはなれないわけか」などとぼんやり考えていると、アパートの入り口前に立った恋人が不思議そうにこちらを振り返った。


「お兄さん? どうしたんですか?」

「ん? ああいや、なんでもないよ。運転疲れたなあ、って思ってさ」

「あはは、お疲れさまでした。早くお部屋に帰ってごはんにしましょう」


 両手で持った買い物バッグを軽く持ち上げて見せながらそう言った真昼まひるに、「だな」と短く頷きを返す。

 昼過ぎに真昼の地元・沖楽おきらく市を出て、歌種うたたね町に戻って来たのはもう日も沈んだ頃だった。帰る途中にスーパーで買い物をしてきたせいもあるだろうが、現在時刻は既に二〇時を回っている。


「親父さん、いい人だったな。俺、最悪の場合『お前みたいな若造にうちの娘をやれるか!』ってキレられて卓袱台ちゃぶだいを顔面にぶつけられる覚悟までしてたんだけど」

「わ、私のお父さんにどんなイメージ持ってたんですか……? お父さんがすんなり認めてくれたのは、それだけお兄さんが素敵な人だっていう証拠ですよ。なんといっても私自慢の彼氏さんなんですし! えへへ~」


 可愛らしく笑い、ぎゅっと腕を組んで密着してくる少女。このやわっこい感触にはなかなか慣れないものだ。あと壁の薄い単身者ひとりみ用アパートの廊下で恥ずかしい台詞せりふを堂々とのたまうのは勘弁してもらえないだろうか。バカップルだと思われてしまいそうだし、なにより恥ずかしい。


「……でもこれでようやく、君に返せるな」

「え? ……あっ」


 俺がポケットの中から取り出したものを見て、真昼が小さく声を上げた。銀色に光る小さなそれは、うたたねハイツ二〇六号室――すなわち俺の部屋の鍵だ。言うまでもなく、数週間前にこの場所で彼女から返却された合鍵のほうである。

 真昼が親父さんとの約束を果たすまで預かっておく、という話だったそれを差し出すと、少女はこわれ物でも扱うかのように両手で受け取った。そしてゆっくりと鍵を握り締めると、その拳を自らの胸に押し当てる。その目尻になにか光るものが浮かんで見えたのは、きっと俺の勘違いではないだろう。


「……ほら、早く入って飯にしようぜ。約束だろ? 一緒にあったかいめしを食おうって」

「ぐすっ……は、はいっ!」


 鼻をすすった真昼が、大事そうに握った鍵をうちの玄関の鍵穴へ差し込む。まるで部屋自体も彼女の帰りを待っていたかのようにすんなりと開かれる扉。その中に踏み込んだ彼女は、ごく小さな声で遠慮がちに言う。


「お……お邪魔いたします」

「いや、なんで他人行儀なんだよ」

「だ、だって!? お兄さんのお部屋に来るの、すっごく久し振りなんですもんっ!?」


 苦笑する俺に対して涙目でそう訴えてくる少女。まあ俺も未だに真昼の部屋に入ると緊張するので気持ちは分からなくもないが……とはいえこの子の場合は今回の試験期間を除けばほぼ毎日うちに来ていたのだから、今さら固くなる必要もないだろうに。

「仕方ない」と思いつつ、俺は真昼の脇をすり抜けて先んじて部屋へ入る。そしてまだおどおどしている彼女のほうを振り返り――告げる。


「おかえり、真昼。待ってたよ」

「! ――……はいっ! ただいま、お兄さんっ!」


 お日様のような笑顔と共に、恋人の少女が胸の中に飛び込んできた。それを受け止めた俺は、その小さな背中を力いっぱいに抱き返してやる。一度手元から消えてしまったこのぬくもりを、もう二度と失わないようにと。


「……えへへ、ちょっと苦しいですよう、お兄さん」


 眉尻を下げながらくすくすと笑った少女は、しかし決して俺の腕の中から離れようとはしなかった。

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