第三三九食 夕と真昼と大切な居場所②

「お兄さんは私に構わず寝ちゃってくださいね? 私は眠たくなるまでお兄さんの寝顔を観察してますから!」

「いや寝づらいにもほどがあるわ。あ、あとそんなに抱きつくなって……」

「えー、いいじゃないですかあ……今日はみんなもいたから、あんまりお兄さんと二人きりになれませんでしたし、今くらいは甘えさせてください」

「うっ……」


 真昼まひるゆうに対する愛情表現が直球なのは今さらだが、だからといって布団の中で密着した状況下でそんな可愛いことを言われてしまうのは困りものだった。ただでさえ夕は突然のことで気が動転しているというのに、少女は遠慮なく彼の腕を引き寄せ、片手をぎゅうっと握ってくる。友だちの前で夕と腕を組んだり手を繋いだりするのが恥ずかしいからか、昼間はいつもより随分大人しかったのだが……その反動がまさかここでやってくるとは思いもよらなかった。


「お兄さん」

「! な、なんだ?」


 胸の中からこちらを見上げる真昼に目を向けると、少女は柔らかな、それでいて真剣そのものの声色こわいろで言った。


「私、この町に来て本当に良かったと思うんです」

「え……? どういう意味だ?」

「あはは、そのままの意味ですよ」


 軽い笑い声を上げ、真昼が夕の左手の指に自らのそれを絡ませる。普段なら青年の分間心拍数が二〇も三〇も引き上げられそうな行為。しかし今日に限って夕はなぜか、手の中の小さなぬくもりよりも彼女の瞳の方が気になってしまった。


「お父さんとお母さんにワガママを言って、歌種町このまちで一人暮らしをして、たくさんの人に心配と迷惑をかけちゃいましたけど……でももしあの時ワガママを言ってなかったら、私はお兄さんとも出逢えてませんでしたから」

「……」


 夕がほんの少しだけ手に込める力を強める。一瞬、想像してしまったのだ。腕の中にいる彼女が夢幻むげんのように消えていき、冷たい部屋に一人取り残される自分の姿を。


「お兄さんだけじゃありません。ひよりちゃんとも雪穂ゆきほちゃんとも亜紀あきちゃんとも、青葉あおばさんとも千鶴ちづるさんとも――それ以外のみんなとも。歌種町このまちに来なかったら出逢えませんでした。歌種町このまちに来たから大切な人たちと出逢って、大好きな人と恋が出来たんです。これって、すごいことだと思いませんか?」

「……ああ、そうだな」


 青年が静かに首肯する。日本の人口が一億だと仮定すれば、特定の一人と出逢える確率は一億分の一。一〇〇〇万分の一と言われる宝くじ一等の当選確率よりもずっと低いのだ。ましてや出逢った二人が互いに恋に落ちる確率など、もはや天文学的領域に片足を突っ込んでいる。

 少しオーバーで、ロマンチストじみた考え方かもしれない。それでも真昼は、その桜色の唇を美しい笑みの形に変えた。


「今日、みんなと一緒にお出かけして、たくさんおはなしして、とっても楽しい時間を過ごして……それでやっぱり、この居場所ばしょが好きだと思いました。笑い合えるお友だちがいて、素敵なお姉さんたちがいて、こうしていつでも手を取り合えるところにお兄さんがいて……私、今すっごく――すっごく、幸せです」

「……!」


 だいだい色の天井灯に照らされた少女の姿がかすんで見えたような気がして、夕はさらに強く、真昼の細い身体を抱き締める。不思議そうにこちらを見上げてくる彼女が「痛いですよう」とくすくす笑うが、青年は笑い返してやることが出来ない。


「……急にそんなこと言い出さないでくれよ……不安になるだろ」

「? 不安……って、どんな不安ですか?」

「まるで最後の……別れの言葉みたいで、君が俺の隣から居なくなるんじゃないか、って」

「あはは、そんなことあるわけないですよ。これまでだって何度も言ってますよね? 私はこの先一生、お兄さんのことが好きだって」


 そう言われても、夕が腕の力を弱めることはなかった。真昼の言葉を疑っているわけではない。ただ、この手を離したら彼女がどこか遠くへ行ってしまうような気がして。

 そんな青年の直感的な危惧きぐなど知るよしもなく、真昼は「ふわあ……」と可愛らしい欠伸あくびをひとつ。彼との添い寝が本当に睡眠を促す作用があったのか、それとも単に小声で交わす言葉が子守唄代わりになっただけか。


「お兄さんとお喋りしてたらなんだか眠たくなってきちゃいました……仕方ないから約束通り、私は自分のお部屋に――」

「……帰らなくていい」

「ふぇ?」


 前言を撤回した夕に、真昼がぱちぱちとまばたきを繰り返す。


「帰らなくていいから……今は俺の側に居てくれ」

「……ふふ、珍しい。いつもは私ばっかりなのに、今夜はお兄さんが甘えん坊さんなんですか?」


 からかうように言いながらも、少女は嬉しそうに彼の胸に頬を寄せた。それに対して「うるさいよ」と悪態あくたいを吐く夕もまた、密着してくる恋人を今度は優しくようする。


「おやすみなさい、お兄さん」


 相変わらず湯たんぽのように温かい真昼がささやいたその声を最後に聞いて、青年は目蓋まぶたの裏側に広がる世界へ意識を投げ出した。

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