第三三八食 夕と真昼と大切な居場所①


 店の前で蒼生あおい雪穂ゆきほ亜紀あきの三人と別れ、ひよりを家まで届け、われた金のポニーテールを揺らす千鶴ちづるの後ろ姿を見送り。

 ゆう真昼まひるの二人がうたたねハイツに戻った頃には、時計は午後九時半を回っていた。


「じゃあ、また明日な。夜更よふかしせずにちゃんと寝るんだぞ?」

「あはは、分かってますよう。それじゃあお兄さん、おやすみなさい」

「ああ」


 いつも夕方から夜にかけては夕の部屋に入りびたっている真昼も、今日ばかりは直接自分の部屋へと帰っていく。時間の都合で夕食がクレープだけになってしまったため、彼女の腹具合次第ではここから軽食を作って食べる可能性も考えていたのだが……もしかしたら運転のため、蒼生のように睡眠をとることも出来なかった夕に気を遣ってくれたのかもしれない。


「(久々に遠出して俺も楽しめたけど……でも流石に疲れたなあ……)」


 自室へ入り、手早くシャワーと歯磨きを済ませた夕は、一〇時を過ぎる前には就寝準備を済ませてしまっていた。天井灯の光を真っ暗になるまで落とし、安物の三つ折マットレスの上にゴロンと寝転がる。そしてふかふかとは言いがた化学繊維ポリエステルの掛け布団をあごの下まで引き上げると、あっという間に目蓋まぶたがとろんと落ちてきて――


「お兄さぁん……?」

「へ……? って、うぎゃああああああッ!? ぐへぁっ!?」


 突如、ぼうっ、と暗闇の中に人の顔が浮かんで見えて、夕が驚きのあまり叫喚きょうかんした。反射的に飛び退いた際に後方の壁に思いきり頭を打ち付け、ゴンッ、と景気のいい音が夜のアパート内に響く。もしこの部屋が角部屋でなければ、間違いなく隣人から壁ドンないし苦情クレームを入れられていたことだろう。


「だだ、大丈夫ですかお兄さん!? すみません、驚かせちゃって!?」

「い、いてて……そ、その声、真昼か?」

「は、はい」


 後頭部をさすりながら上体を起こした夕が問うと、暗闇に浮かぶ人面じんめん――携帯電話のブルーライトで顔を下から照らしている真昼がこくんと頷いた。格好は寝間着ねまき、もう片方の手には大きな枕を抱いている。


「なんでそんなこっそり入ってくるんだよ……それになんだよ、その悪意しかない携帯の使い方は」

「ご、ごめんなさい。部屋の明かりが消えてたので、もしお兄さんがもう寝てるなら起こすのは申し訳ないなと思って……」

「音もなく枕元に忍び寄られる方がよっぽど怖いわ。それで一体どうしたんだ? やっぱりおなかいちゃったか?」

「いえ、大丈夫です。自分の部屋で簡単なサンドイッチを作って食べてきましたから」

「(食べたんだ……)」


 電灯を豆電球オレンジに変えつつ、食いしん坊な少女に苦笑する夕。

 しかし、それなら彼女はどうしてここに来たのだろうか? そんな疑問を口にするよりも早く、枕をぎゅうっと抱き締める真昼は控えめな声で言った。


「あ、あのお兄さん……今日は一緒に寝てもいいですか?」

「は、はあ? ど、どうしたんだよ急に?」

「その、今日はすっごくすっごく楽しかったから目がえちゃって……帰りの車の中でも寝ちゃったせいで、眠れそうにないんです。それでこないだのデートの時、お兄さんと一緒に寝たらすごく寝付きが良かったから……」

「ええ……?」


 要は遠足の前に眠れない子どもの逆バージョンということか。どうやら真昼は楽しい記憶が頭の中でぐるぐると繰り返し再生され、意識が覚醒してしまうタイプらしい。


「(別にまだ一〇時なんだし、寝付けないなら無理に寝ようとしなくてもいいとは思うけど……)」


 とはいえついさっき「夜更かしするなよ」と注意した手前、そうも言いづらい。なによりここで「嫌だ、一人で寝ろ」と突っぱねるのは恋人としていかがなものだろうか。


「……仕方ない。ちょっと横で話くらいは付き合うよ。でも眠れそうだと思ったら、なるべく自分の部屋に戻るんだぞ?」

「本当ですか!? ありがとうございます! それじゃあ失礼して……」

「お、おう」


 真昼が早速もぞもぞと布団の中に入り込んできて、夕は前回と同じように全身を緊張させる。一度経験したことながらも、間近まぢかに感じる少女の体温とシャンプーの匂いにクラリとさせられる点は何も変わっていない。


「えへへ、お兄さんとい寝……♪」


 にへにへと緩んだ表情かお無遠慮ぶえんりょに抱きついてくる恋人に、青年の眠気は既に半分以上吹き飛んでいた。

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