第三〇七食 家森夕と家森真昼2


 ――――


 ――


 エプロン姿で鼻唄を歌うその女は、まな板の上で小気味良く包丁を動かしていた。

 1LDKの小さなマンション、手狭てぜまながらも清潔感のあるキッチン。グツグツとシチューを煮込む鍋から食欲を刺激するこうばしい匂いがただよい始め、ポップアップトースターのタイマーがかなでる通電音が、じきに朝食の時間であることをしらせてくれている……のだが。


『これでよしっ、と。……もー、ゆうくんってば、休みの日はいっつもお寝坊さんなんだから』


 二つに割ったゆで玉子をちょちょいと盛り付けたサラダをダイニングテーブルに並べ、コンロの火を止めた女が腰に両腕を当てて一人呟く。視線の先にあるのは女と旦那だんなのベッドルーム。平日は朝食までに起きてくる彼は、日曜日になるといつもこうなのだ。


『(でもお仕事で疲れてるだろうし、もう少し寝かせてあげたいかも……ううん、ダメダメ。夕くん、朝ごはんが冷めちゃったら絶対「なんで起こしてくれなかったんだよ」って文句言うもん)』


 愛する夫が子どものような不平を言ってくる様子を想像し、女はクスクスと笑みを咲かせた。そして『まったく、手がかかるんだから』と母にも姉にも似た感情をいだきつつ、台所から寝室へ。引き戸を開けて中に入り、ダブルベッドの上で山を作っている彼へと呼び掛ける。


『夕くーん? そろそろ起きて。もう朝ごはん出来てるよー?』

『……うう……ん……』


 しかし男はふかふかの羽毛うもう布団を胸に抱いたまま、起きる気配を見せない。せいぜい、ぴくぴくと眉が動く程度だ。


『ほーらー、起きてー? ごはん冷めちゃうよー?』


 ゆさゆさと掛け布団越しに身体を揺すぶってみても、結果は変わらず。女は『むう』と不満げに半眼を形作っていたが、その直後、名案でもひらめいたかのように人差し指を唇に添えた。

 ニヤリと口角に浮かんだのは小悪魔の微笑。ベッドの端に膝を乗せた彼女はそのまま男の耳元に顔を寄せ――一言。


。起きないと、キスしちゃいますよー?』

『!』


 その瞬間、男がカッと目を見開いた。『わっ!?』と驚く暇もなく、彼に腕を掴まれた女はそのままぐいっと布団の中へ引きずり込まれる。


『……起きないと、なんだって?』

『……えっ』


 頭まですっぽりとおおわれた状態でそう問われ、女はたらりと汗を流した。目の前には大好きな旦那の真剣な瞳。エプロンを着けたままの胴は彼の腕に強く抱き寄せられており――もう逃げられないことを経験則で察する。


『お……起きないとキスしちゃうよ、って……』


 学生時代となんら変わらぬ胸の高鳴りを覚えつつ女が繰り返すと、男は『ふーん……』と相槌を打ってから再度目を閉じてしまった。


『じゃあ……まだ起きない』

『も、もうっ、夕くんったら!? それ、ちゅーしたいだけじゃないっ!』

真昼まひるが自分から言ったんだろ。したくないならしなくてもいいぞ? その代わり、俺はまだ寝るけど』

『ご、ごはんが冷めちゃったら怒るくせにぃ~っ!』


 形だけ文句を言いながらも、女は自ら彼の首へ腕を回す。彼に捕まってしまった時点でもはや選択肢などありはしないのだ。彼女自身、それを分かった上で毎度のだからどうしようもない。


『今日はもう、朝飯が冷めるの確定だけどな?』

『うう……ゆ、夕くんのケダモノ……』

『なんとでも。ほら、おいで』

『あっ……』


 肉食動物に狩られた小動物のように身を震わせ、きゅっと両目をつむった女は慣れ親しんだ感触が唇を襲う瞬間を待つ――


 ――


 ――――


「はい、夢オチおつっしたー!」と言わんばかりの電子音が携帯電話から鳴り響く室内で少女・旭日あさひ真昼はぱっちりと目を覚ましていた。

 恋人の実家、見慣れない天井、まだ暗い窓の外、午前五時を示す手中の液晶画面。覚醒しきっていない頭で視覚から与えられる情報を整理した彼女は、「ふっ……」とどこか虚無的ニヒル微笑ほほえみを浮かべてから――心の内で叫ぶ。


「(うああああああああああッッッ!? な、なんでっ!? どうしていつもこうなのっ!? あと一〇秒、ううん、五秒あれば最高の夢になってたのに……ッ! ひ、ひどいよ、こんなのってないよっ、うわああああああああああんっっっ!?)」


 いつぞやも似たようなことがあったせいで余計に悔やみきれない少女は、両腕を力任せにぎゅううっ、と引きしぼることでストレスの発散を試みる。だがその行為は、頭の上から聞こえてきた「ぐえぇっ!?」という潰れたカエルのような悲鳴によって中断された。


「あ、朝っぱらからなんだよ真昼……俺をめ殺す気か」

「ほえ? ……あ」


 青い顔でこちらを見下ろしてくる青年・家森やもり夕の姿を認めたところで、真昼はようやく自分が彼と同じ布団で眠っていたことを思い出した。ついでに今抱きついているのが彼の身体であること、頭に敷いているのが彼の右腕であることも認識。そして次の瞬間には、悔恨かいこんに支配されていた少女の胸中からネガティブな感情の一切が消し飛ぶ。


「お、お兄さんっ!? もも、もしかして一晩中、私のことを抱っこくれてたんですかっ!? そ、それに腕枕までっ!?」

「いやまあ……どっちかと言えば抱きついて来てたのは君の方なんだけどな? 腕枕も積極的にやったというより、いつの間にか君の頭が乗ってただけっていうか――」

「はあぁんっ! 私のためにそこまでしてくれるなんて、お兄さんは優しすぎますっ! 大好きっ!」

「聞けよ」


 瑞夢てんごくから悪夢じごく、かと思えばどんでん返しの現実てんごくが訪れ、幸福一色に染め上げられた少女はガバッと青年の胸に飛び込んだ。互いの体温だけがこもった布団が二人を包み、その身体は冬だというのに春夏よりもぽかぽかとあたたかい。


「すーっ、はーっ、すーっ、はーっ……えへ、うへへへへ、あ、朝からお兄さんの匂いでいっぱい……しあわせぇ……」

「変態みたいだからやめなさい。ほら、今日から学校なんだからもう起きるぞ」

「えー、もうちょっとだけこうしてたい……あっ、そうだ! じゃあお兄さんが私にキスしてくれたら起きますよっ!」

寝惚ねぼけてんのッ!? なな、なに朝からとんでもないこと言ってんだよ!?」


 夢の中の青年と同じように瞳を閉じ直す真昼と、夢の中の青年と同じような反応は示してくれない夕。しかしそんな奥手な彼のことがたまらなくいとおしくて、少女は夢幻むげんの自分にも負けないくらい、現実いまの自分が幸せであることを再認識する。


「(……でもいつかは、胸を張っての私幸せだって言えるようになりたいなあ)」


 ――それは、まだ少しだけ未来さきの話だ。

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