第三〇八食 恋人たちとデートの終わり


「それじゃあ母さん、もう行くよ」

「はいはい。気を付けて帰りなさいよ。まだ薄暗い時間だし、真昼まひるちゃんだっているんだからね」

「分かってるよ、普段から安全運転してるって」


 午前六時半過ぎ。実家のリビングでエプロン姿の日菜子ひなこから心配そうに言われ、ゆうは両の眉根を下げて苦笑した。念のために防寒具をフル装備した手指や足首の動きを確認し、まったく問題がないことをジェスチャーで伝える。

 昨晩の睡眠時間が短かった割に、青年のコンディションはいつも以上に良い。息子たちに合わせて早起きし、しっかりした朝食を用意してくれた母のおかげか、それとも下宿先で使っている安物と比較して上等な布団で眠ったからだろうか。あるいは――


「(真昼に抱き枕にされて寝たのが良かった、とか……? い、いやいや、まさかな……)」


 電気ストーブの前でバイク用プロテクターの装着に手間てま取っている恋人の少女に目を向けてから、青年はふるふると首を左右に振る。実際は平熱の高い真昼を抱いた状態で眠るのはかなり心地好ここちかった――もちろん本人には言えるはずもない――が、夕の睡眠時間が短くなったそもそもの原因も彼女なのだ。安眠グッズ〝旭日あさひ真昼〟の効能はプラマイゼロ、ということにしておこう。

 夕がそんな益体やくたいもないことを考えて一人ウンウンと頷いていると、ようやく準備を終えた真昼が立ち上がった。


「お母様、本当にお世話になりましたっ! 今度是非、私とお兄さんのアパートにも遊びに来てくださいね、たっくさんご馳走しますからっ!」

「あらあら、真昼ちゃんがお料理してくれるなら行かなきゃ損ね。じゃあその時こそは、うちの主人もご一緒させていただくわ」

「はいっ! ……あ、あの、本当に大丈夫ですか? お父様にご挨拶しないまま帰ってしまって……」


 少女が気遣わしげな表情を浮かべたのも無理はない。というのも彼女は今回、夕の父・照平しょうへいと顔を合わせることが叶わなかったからだ。

 真昼としては恋人の父親というのはもちろん、突然泊めてもらった身で家主やぬしに顔も見せぬまま帰ることが無礼な行為に思えてならないのだろう。しかしそんな彼女の深慮しんりょは、妻である日菜子が呵呵かかと笑い飛ばしてくれた。


「気にしなくていいのよ。うちの人が真昼ちゃんに会いたがってたのは事実だけど、仕事で疲れてるみたいだから寝かせてあげて頂戴」


 夕の父は昨日、日も変わる直前に帰宅し、とこについたのはもう丑三うしみどきも近い時刻だったらしい。たしかにそれなら、挨拶をしたいから起きてこいと注文する方がよほど礼儀知らずというものである。


「こっちこそごめんなさいね、真昼ちゃん。せっかくわざわざ来てくれたのに、会えず仕舞じまいになっちゃって……本当は起こしてくるべきなんでしょうけれど」

「そんな、滅相めっそうもないです!? 私も仕事で疲れてるお兄さんを起こすかどうかで迷っちゃいましたし、お母様の気持ちはすっごくよく分かりますっ!」

「は? 仕事で疲れてる俺を起こすかどうかで迷った……って?」

「い、いえ、こっちの話です。お兄さんのお父様とお会いするのは、次の機会までのお楽しみにしておきますね」

「ふふ、そうね。起きてきたらそう伝えておくわ。さあ、もう行きなさい。学校、遅刻しちゃうわよ」


 日菜子に背を押され、階段をりた夕と真昼は家森家の玄関を出る。そして一台の原付と二台のバイクが並んでいるガレージからいつもの中型二輪を引っ張り出し、来た時と同じように二人して乗り込んだ。


「夕、くれぐれも節度せつどわきまえなさい。どんなに可愛くたって真昼ちゃんはまだ高校生なんだから、清く正しいお付き合いをしないとね」

「その高校生と俺を同じ布団で寝させた人の言葉とは思えないんだが」

「真昼ちゃん、夕のことをどうか……どうか、お願いね。あなたに捨てられちゃったらこの子、もう二度と恋人なんて出来ないだろうから……」

「情けないことを切実に願うな」

「安心してください、お母様。私が息子さんのこと、一生幸せにしてみせますから」

真昼きみ真昼きみで無駄に格好良カッコよッ!? やめろよ、俺の立つがなくなるだろ! ほ、ほら、もう行くぞ!」


 痛切つうせつな表情で息子の恋人に懇願こんがんする母親と、差し出された母の手をぎゅっと握り返しながらキリリと真剣な顔で答える女子高生。これではどちらが彼氏でどちらが彼女だか分かったものではない。

 自らの面目めんぼくたもつべく夕がブロロンッ、とエンジンを動かしたのを見て、手を離した真昼と日菜子はクスクスと笑みをわした。


「それじゃあ二人とも、またいつでも帰ってらっしゃい。風邪なんて引かないようにね?」

「……ああ」

「はいっ! お母様もお元気で! お父様にもよろしくお伝えください!」


 真昼のその言葉を最後に、二人を乗せたバイクがゆっくりと動き出した。サイドミラー越しに見える日菜子が、最後まで後ろから手を振ってくれている。


「素敵なお母様ですね、お兄さん!」

「……そうかよ」

「はいっ!」


 最初の曲がりかどを折れたところでそう言われ、夕はいつもよりほんの少し強めにアクセルを回した。その分かりやすい照れ隠しに、真昼は笑いながら彼の背中を抱き締める。

 最高の初デートを終え、越鳥おっとり市から歌種うたたね町へ帰っていく彼らの間には、これまで以上に強い絆が芽生めばえ始めていた。

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