第三〇〇食 湯上がり少女とドライヤー①

 風呂から上がった俺は着てきた服ではなく、自分の部屋のタンスから引っ張り出した寝間着ねまきに着替えた。一人暮らしを始めるにあたり、やむなく実家に置き去りにしていった高三当時の服だ。どうやらこの二年の間も母が管理してくれていたようで、しかしそのおかげでものすごく防虫剤臭い。

 そして俺がパジャマ目掛けて衣料用芳香剤を連射していると、下の階からトントンと階段をりていく音が聞こえた。おそらく今度は夕飯の準備が一段落した真昼まひるが風呂へ向かった音だろう。もし母であれば〝トントン〟ではなく〝ドスドス〟という育ちの悪い歩行音が響いてくるはずだ。

 自室で髪を乾かし、人工的フローラルな香りをまといつつ二階へ戻ると、案の定台所には母の姿しかなかった。


「あら、真昼ちゃんならお風呂行ってるわよ」

「知ってる。……バスタオルと服は?」

「タオルは新品、服は悪いけど私のお下がりを貸したわ。……言っておくけど、女子高生おんなのこのお風呂を覗こうとしたら息子だろうと関係なく通報するからね」

「だ、誰がそんな恥知らずな真似するか! というかそれを言うなら俺が風呂入ってる時に真昼にタオルなんか持ってさせないでくれよ!」

「いいじゃない、あんたのハダカなんて見られたところでどうせはしにも棒にも掛からないんだから。真昼ちゃんは戻ってきた時、面白いくらい真っ赤になってたけどね。ふふ、純情で可愛い子だわ」


 そう思うならもっと気を遣ってやってくれと思うが、既に後の祭りだった。それにしても青葉あおばといい高等部の悪ガキコンビといい、真昼はいつも誰かにからかわれてばかりだな。反応リアクションが素直で面白いからなのだろうが……せめて俺くらいはあの子に優しい人間でり続けなければ。


「晩飯の用意は? まだ済んでないなら俺も手伝うけど」

らない要らない。真昼ちゃんも手伝ってくれたし、あとは私一人で十分よ。出来たら呼ぶから、あんたは部屋の片付けでもしてなさい。真昼ちゃんに見られたら恥ずかしいものとか、上手く隠しておくのよ?」

「大きなお世話にも程がある」


 軽く返しつつ、俺は三階の自室へUターン。そして別にやましいものなど何もないと思いつつ、一応部屋の中を軽くチェックして回る。なにせ相手はあの真昼だ、俺から見ればなんでもないようなものに食い付く可能性だってゼロとは言い切れまい。

 一〇分少々自分の部屋を吟味ぎんみし、特に問題ナシと判断してからさらに三〇分。久々の実家とはいえやることもない俺が中学生くらいの頃に買った漫画本をパラパラめくって暇を潰していると、不意に部屋のドアがこんこんこん、と控えめにノックされた。


「お兄さん、入っても大丈夫ですか?」

「真昼か。どうぞ」


 本を脇へ置いて顔を上げると、開かれた扉の隙間すきまからバスタオルを肩にかけた少女がひょっこりと顔を出した。その頬はぽかぽかと桃色に染まっており、髪もしっとりと濡れている。よく湯上がり姿は色っぽく見えると耳にするが、たしかに今の彼女は普段よりもいくらか大人っぽく見えた。


「すみません、お兄さん。お母様に聞いたら、お兄さんの部屋にドライヤーがあるって言われたんですが……」

「ああうん、あるよ。こっちおいで」

「は、はいっ」


 俺が手招きすると、真昼はキョロキョロと周囲を窺いながら室内なかへ入ってくる。うたたねハイツの部屋には毎日堂々と出入りしているのに、今はまるで他所よそから借りてきた猫のようだ。


「(そういや、初めて会った時もこんな感じだったっけ……懐かしいな)」


 まだ互いの名前すら知らなかったあの日のことを思い出していると、少女はきょとんと首を二〇度左へ傾けた。「ごめん、なんでもないよ」と先んじて答え、机の上に出しっぱなしだったドライヤーのプラグをコンセントへ差し込む。


「じゃあこれ、使ってくれていいから」

「はい。……あ、あの、お兄さん?」

「ん?」

「そ、その……私の髪、乾かしてもらえませんか?」

「……え?」


 唐突なそのお願いに、今度は俺がフリーズする番だった。

 当たり前だが、真昼は腕や手を怪我けがしているわけでもなければ、他になにかドライヤーが使えない事情があるわけでもない。つまりは単純に、俺に髪を乾かしてほしいから言っている……のだろう、たぶん。


「い、いいけど、そんなに上手くやれる自信ないぞ? 人の髪なんか乾かしたことないし」

「は、はい、大丈夫です」

「まあ君がそれでいいなら……じゃあこの辺、座ってくれるか?」


 ぽんぽんと座っていたカーペットの上を叩いてやると、真昼はこくんとひとつ頷いて俺の前に腰を下ろした。ふわりとシャンプーのいい匂いが鼻腔びこうをくすぐる……俺と同じシャンプーを使ったはずなのにどうしてこんなにいい匂いするのか、不思議でたまらない。

 ややサイズが大きい寝間着の合わせ目や、濡れ髪からちらりと覗くうなじも妙にセクシーで――とそこまで考えかけたところでぶんぶんと頭を振り回し、余計な煩悩ぼんのうを脳から消去デリートする。


「(この子は仔犬こいぬ、この子は仔犬……)」


 おそらく本人に言ったら怒られるであろう呪文を暗唱あんしょうすることで意識を正常にたもちつつ、俺はテーブル上の送風機へと手を伸ばした。

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