第二六四食 家森夕と二人の本音⑤

 俺は真昼まひるとどうなりたいのだろう。

 八ヶ月前、それまで顔も知らなかった隣人がまだ高校生になったばかりの女の子だと知り、親元を離れている彼女にひょんな思い付きから料理を教えることになって。

 以来、ほとんど毎日一緒に過ごしているお日様のようなこの子と、俺は一体どうなりたいと思っているんだろう。


 もう分からなくなってしまった。俺はどうして、真昼から向けられる好意を受け止めてやることが出来ないのだろう。

 真昼の気持ちを疑っているわけではない。初めて告白されたあの日ならいざ知らず、今はもう、彼女が本気で俺を想ってくれていることくらい理解している。

 真昼のことが嫌なわけでもない。当たり前だ、彼女のように可愛くて優しい女の子から好かれるなど、むしろ身に余る光栄である。もしも俺が高校時代にこの子とおない年の同級生だったら、きっと迷わず告白を受け入れていたはずだ。


 では、やはり彼女がまだ高校生こどもだから、なのだろうか。

 少なくとも、今まではそう思っていた。未熟者とはいえ、成人した大学生オトナが手を出していい相手ではないと。想いを告げられても断ることが〝オトナの対応〟だと、そう思っていた。

 だが――今にして思えばそれも結局、ただの建前たてまえだったのかもしれない。


「真昼……もうやめてくれ」

「……」


 鼻先数センチの距離から俺がそう言うと、少女は瞳を閉じたまま、ピタリと動きを止めた。そして刹那せつなにも永劫えいごうにもひとしく感じられるような空白の時間をて――ゆっくりと目蓋まぶたを持ち上げる。


「そう、ですよね……」


 悲痛ひつうゆがんだ表情で、少女が呟く。


「やっぱり……気持ちわるいですよね、いきなりこんなふうにせまられたって」


 喉を震わせながら、彼女はその整った相貌そうぼうを十数センチほど引いた。羞恥しゅうちと緊張が抜け落ちた頬にはまだアルコール由来の赤みが差しているのに、なぜか俺は彼女の肌が無念の青白さをびているように幻視してしまう。

 俺が知る旭日あさひ真昼は、とても心優しい少女だ。誰に対しても分けへだてなく接し、他人ひとの気持ちに人一倍敏感な女の子。そんな彼女が――いくら酒の魔力が悪い方向に作用してしまったとはいえ――俺の合意もぬまま、強引ごういんに迫ることを良しとするはずもない。

 それでもこんな軽率けいそつな行動に走ろうとしたのは、彼女も必死だったということなのだろう。俺の気持ちを動かすために、あるいは


 そしてそのお陰でようやく俺は――この二ヶ月間、ずっとけずにいた問題の答えが少しだけ分かったような気がした。


「ごめんなさい、おにいさん……」


 瞳をせ、今にも泣き出してしまいそうな声で謝罪してくる真昼。握られていた手のひらからするりと力が抜けていく。

 だがこのまま離してしまえば、罪悪感に押し潰されそうになっている少女はこの部屋から逃げ出してしまうかもしれない。だから俺は彼女の細い手を握ったまま、可能な限り穏やかな声で告げた。


「真昼。俺は、君と一緒に過ごす時間をとても――とても大切に思ってる」

「え……?」


 脈絡みゃくらくなくそう言われた真昼が、当惑とうわくしたようにその大きな瞳をしばたたかせた。一方で俺は、それに構うことなく続ける。


「だから、あの大切な時間を壊したくなかった。あの時間が壊れてしまうくらいなら……俺は君にとって、ただの〝お隣のお兄さん〟のままで構わないと思ってたんだ」


 ここまでは文化祭の時にも――彼女の母親越しではあったかもしれないが――伝えた通りだ。真昼も、今さらそれがどうしたのかと言わんばかりの表情を浮かべている。彼女にしてみれば、俺のそういった考えを変えるためにこの数ヶ月を過ごしてきたのだろうから、当たり前と言えば当たり前か。


「でも」


 俺は繋いだままだった手を離し、少女の代わりに部屋の天井を見上げながら言う。


「もし一緒にいる相手が君じゃなかったら、俺はあの時間をここまで大切に思っていなかったんじゃないかとも思う」

「!」


 それは考えてみれば至極当然で、しかし俺が今日までほとんど意識せずにいたこと。

 たとえば二人で料理をする時、あるいは一緒に食事をする時。他愛もない話をする時や、揃って冷蔵庫の中身とにらめっこをしている時。俺の隣で、目の前で笑顔を咲かせるのが真昼以外の誰かだったら、果たして俺は何気ない日常の風景に、これほど価値を見出だせていただろうか。たった今俺のことを押し倒したのが真昼以外の誰かだったら、果たして俺はこれほど心を乱されていただろうか。

 相手が他の誰でもない、俺は味気のない日々をかけがえのない時間だと思えるようになったのではないか? 相手が真昼だったからこそ、俺は心臓が破裂してしまいそうなほどの動悸どうきを覚えたのではないか?


 だとすれば俺が本当の意味で大切に、また特別に感じているのは真昼と過ごす時間ではなく彼女本人そのもの

 もしかしたらあの文化祭の日、彼女に告白される前から俺は――


真昼きみのことが、好きだったのかもしれない」

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