第二三七食 旭日真昼と前々夜


「わ……もう真っ暗だ」


 人生初のアルバイトを終え、娘を迎えに来た雪穂ゆきほの父親の車でうたたねハイツのすぐ近くまで送ってもらった真昼まひるは、月明かりが降りそそぐ夜空を見上げてぽつりと呟く。こんな夜遅くに一人で――自宅からほんの一分足らずの位置ではあるが――出歩いた経験などほとんどない少女にとっては新鮮な光景だ。手袋をけていない両手を寒さにり合わせながらも、昼間とはまるで違う雰囲気をかもすアスファルトの上を軽い足取りでたっ、たっ、たっ、と進む。


「(お仕事って大変だけど、結構楽しいなあ。お兄さんはいつも『やらずに済むならバイトなんかしたくない』って言ってるけど……長く続けると大変になってくるのかなあ)」


 真昼は「今日もバイトか……」とぼやく隣人の青年を思い出してくすくすと笑う。彼はここ最近、以前までよりもシフトを増やしているような気がするが、冬休みで大学の授業がなくなるからだろうか。基本的にいつも金欠の彼のことだ、少しでも生活費を稼ぎたいというのは当然の欲求なのかもしれない。

 ちなみに真昼は、たった二日間だけとはいえバイトを始めたことを青年に伝えていなかった。彼の性格上、「お兄さんへのプレゼントのためにバイトします!」なんて言ったら反対されることは分かりきっていたし、かといって嘘の下手な真昼じぶんがそれらしい理由で誤魔化ごまかおおせるとも思えない。

 ゆえに今朝は〝明日ひよりちゃんのおうちでするクリスマスパーティーの準備〟という名目で出てきたし、千鶴ちづるにも「ぜっっっっったい、お兄さんには内緒にしてくださいね!」とお願いしておいた。例の金髪女子大生も「家森ヤローにバイト先を知られたくなんかねェ」とのことだったので、一応は両得の関係ということになるだろうか。


「(お兄さん、きっともうご飯食べちゃったよね……)」


 最近取り替えられたのばかりなのか、一つだけやけに明るい蛍光灯の下をくぐって建物の中へ。青年には帰りが遅くなることをあらかじめ伝えておいたため仕方がないことだが、彼と食事を共にする時間が減ってしまうのはやはり残念だった。

 とんとんとん、と階下の住民に気を遣っていつもより静かに階段をのぼる。そして二〇六号室の扉へちらりと目を向けつつ、自室の鍵を取り出そうとした、その時。


「思ったより遅いな――……って、あ」

「え?」


 まさにその二〇六号室の扉が内側から開かれ、部屋のあるじ家森夕やもりゆうがひょっこりと顔を出した。スウェット姿にサンダルというラフな格好をしている彼の姿を見て、真昼は思わず目を丸くする。


「お、お兄さん!? どうしたんですか、そんな格好で!? ダメですよ、また風邪引いちゃったらどうするんですか!」


 つい一週間ほど前に寝込んだばかりの青年に急いで駆け寄ると、彼は「そんな虚弱きょじゃく体質みたいに言わないでくれ」と苦笑した上で真昼のことを見下ろした。


「別に出掛けようとしてたわけじゃないよ。ただ、君の帰りが思ってたより遅かったからちょっと心配でさ。一応メッセージも飛ばしたんだけど、返事がなかったから」

「え゛っ!?」


 慌てて携帯電話を確認すると、たしかに一時間ほど前に夕からのメッセージが一通入っている。この時刻はまだ業務中であり、携帯はロッカーに置いていたため気が付かなかったようだ。『帰りが遅くなりそうなら迎えに行くから気兼ねなく言え』というむねのメッセージに、「私はなんて勿体ないことを……!」と膝から崩れ落ちそうになるのをどうにかこらえた。


「ご、ごめんなさいお兄さん、気が付きませんでした……」

「いや、謝らなくてもいいよ。帰り道、大丈夫だったか?」

「あ、はい。雪穂ちゃんのお父さんが一緒に車で送ってくれたので」

「そっか。パーティーの準備も無事に終わったのか?」

「へ?」

「え?」


 一瞬の沈黙。そしてすぐに「あっ、そういうことになってるんだった!」と思い出す。


「も、もうバッチリですよ!? 朝からひよりちゃんたちと飾りつけの準備をしたり、お菓子の買い出しに行ったり……あ、あとはえーっと、け、ケーキをたくさん売りましたっ!」

「え……け、ケーキを売った……? 買ったんじゃなくて?」

「ハッ!? まま間違えましたっ、そうですっ、ケーキをたくさん買ったんです! ほ、ほんとですよ、売ってないですからね!?」

「お、おう、そりゃそうだろ。ケーキ屋――千歳ちとせでもあるまいし」

「!? ちち、千鶴ちづるさんと一緒に働いてなんていないですよ!? わ、私は今日はほら、ひよりちゃんたちとずっとパーティーの準備をしてましたし!?」

「お、おう……?」


 自ら墓穴ぼけつを掘っていることに気付かない真昼に、夕が「なにか様子が変だぞ?」とばかりにいぶかしむような瞳を向ける。しかし幸いなことに彼がなにか言いかけるよりも早く、部屋の中からピピーッという特徴的な電子音が聞こえてきた。


「おっ、ちょうど米がけたな。真昼、メシはもう食ってきたのか? まだなら一緒に用意するけど」

「えっ!」


 驚きの声を上げたのはもちろん真昼だ。今日は彼の方も朝からバイトに入っており、つまり遅くとも夕方頃には帰ってきていたはずなのだが……いつもの夕食の時間よりも随分遅いのに、もしや真昼じぶんの帰りを待ってくれていたのだろうか。


「お――お兄さんのそういうところが好きですっ!」

「!? い、いきなり何言ってんの!?」


 感極かんきわまって彼の腕に抱きついてしまう真昼と、突然の不意討ちに面白いほど動揺する夕。

 クリスマスの前々夜イヴイヴに冷えた少女の手は、あっという間に青年の体温で熱を取り戻したように感じられた。

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