第二三一食 自炊少女と病人食④


「(あー、喉いてえ……)」


 暗くなってきた空を見上げながら、布団で横になっているゆうは心中でぼやいていた。

 一日中安静に過ごしていたわりに、ちっとも症状が軽くなった気がしない。それどころかつばを飲み込むだけでズキズキ痛む咽喉いんこう軽微けいびな熱、鼻詰まりによる息苦しさといった風邪特有の症状が、どうにか眠りにつこうとする彼のことを妨害してくる。マスクをけたり濡れタオルをひたいに乗せたりと、思いつく姑息こそく的療法は一通り試してみたものの、残念ながらこれといった効果は実感できなかった。


「(ちゃんとめし食わねえと治らねえか……でも食欲ないんだよな……)」


 夕は今朝から飲み物以外なにも口にしていない。無論、動けないほど体調が悪いというわけではないし、作ろうと思えば食事くらいすぐに用意できる。しかしその〝作ろうと思えば〟までが驚くほどに億劫おっくうなのだ。食欲がない時の料理ほど面倒なものもそうないだろう。特に基本的に怠惰たいだなこの青年にとっては。


「(何も食ってないって知ったら、真昼まひるに怒られそうだな……)」


 今朝、部屋から追い出す直前まで「私が看病します!」と繰り返していた心優しい少女のことを思い浮かべて苦笑する。余計な心配させるのも悪いし、食事はきちんとったことにしておこう、と嘘を算段さんだんを整えていたその時、玄関の方からなにやら物音が聞こえてきた。


「真昼か……?」


 自分以外にこの部屋の合鍵を持っているのは隣人の彼女だけだ。夕は「来るなって言ったのに」と少しだけ眉をしかめそうになって――しかし部屋のドアから入ってきた意外な人物の姿を見てすぐに目を丸くする。


「おう、起きてたかよ」

「ち、千歳ちとせ? なんでお前がここに……」


 風邪を引いたことを伝えてもいないヤンキー女子大生の登場に夕が身体を起こすと、彼女は見覚えのあるキーホルダーが付いた鍵をカチャリとテーブルに置いた。真昼に預けている合鍵だろう。


「な、なんでお前がそれを……?」

「フン、あの子から借りたってだけだ」


「つまんねェ部屋だな」と殺風景な室内を見回しながら短く返答し、千鶴ちづるは無遠慮に座布団へ腰を下ろす。一応友人だが特別に親しいわけでもないという微妙な関係の彼女が自室に居ることに、猛烈もうれつな違和感を覚えてしまう。

 するとそんな夕の心情など気にも留めず、金髪を揺らす女子大生が「コレ食え」と片手に持っていた鍋をずいっと差し出してきた。


「あれ……それ、たしか真昼の鍋じゃ……?」

「あァ、今さっきあの子が作ったメシだ。てめェ、あの子に『部屋に入るな』っつったんだろ? だからオレが代わりに持ってきてやったンだよ」

「代わりに、って……そのためにわざわざ来てくれたのか? な、なんかごめんな」

「うるせェ、コレ駐輪場したでたまたまあの子に会って頼まれただけだ。てめェに謝られる筋合いなんざねェよ」

駐輪場したでたまたま……って、え? じゃあなんでお前、うちのアパートの駐輪場に居たんだ?」

「! う、うるせェ、いいからさっさとそれ食え! 冷めちまうだろうが!?」

「す、すみません!?」


 顔を赤くして怒鳴るヤンキー女子大生の剣幕けんまくに、夕は慌てて布団越しの膝上に乗せた手鍋へと意識を戻す。


「卵雑炊ぞうすい……」


 それは青年がまだ幼い頃、母親がよく作ってくれた病人食だった。そしてそういえば以前真昼が倒れた時、これを再現して食べさせたのだったかと思い出す。


「『お兄さんは自分のことになると無頓着だから、きっとご飯も食べてないと思う』っつってたぞ、あの子」

「うぐ……」

図星ズボシかよ」


 長く側に居たせいか、すっかり自分の性格を把握はあくしているらしい真昼に思わず頬を引きつらせる青年。……どうやら、もはや夕の隠し事などあの少女には通用しないらしい。


「(いい匂いだな……)」


 まさしくかつて母親が作ってくれたそれと同じ香りがして、夕がわずかに目を細める。簡単な作り方を口頭こうとうで教えた覚えはあったが、それだけとは思えないほど見事な完成度だ。いっそ、自分が記憶を頼りに作ったものよりも再現率が高いのではないかとさえ思わせられてしまう。幼少期、ひそかな楽しみでもあった一食を前に、まったくなかったはずの食欲がふつふつと胃の中からき出し始めていた。


「それと、こっちはあの子からの差し入れだ」


 そう言って千鶴が手渡してきたのはスポーツドリンクや梅干し、そして真昼がよく食べているチョコレートなどが入った袋。そしてペットボトルのキャップには少女の字で『お兄さんへ たくさん食べてたくさん寝て 早く良くなってくださいね』と書かれた手紙がテープで貼り付けられている。


「……さっさと治せよ。てめェのためじゃねェ、あの子のために」

「……ああ」


 無愛想に窓の外を眺めながら告げてくる千鶴に頷いて返し、夕は鍋の中のレンゲを手に取った。


「――いただきます」


 青年がその言葉を向けた先は、自室と隣室をへだてる壁の向こう側だったのかもしれない。

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