第二二八食 自炊少女と病人食①


「ふんふん、ふふーん、ふふふふーん……これでよしっと!」


 午前七時頃、うたたねハイツ二〇五号室から少女のご機嫌な鼻歌が聞こえてくる。発生源はしっかり冷ましたお弁当箱をランチクロスで包んでいる真昼まひるだ。

 お弁当デビューを果たしてからというもの、彼女はほぼ毎日のように早起きして自分の昼食を用意している。依然いぜんとして練習中の身ではあるが、それでも過去二回、隣人の青年に渡したお弁当よりは格段に進歩したという自負が少女にはあった。


「そろそろもう一度お兄さんに食べてもらおうかなあ、うへへへ……」


 ふにゃふにゃした笑みを浮かべた真昼がポッと頬を染めていた時、ちょうど彼女の携帯電話がちゃらんちゃらんと特徴的な着信音を奏でる。少女が個別に設定している、〝お兄さん〟用のリングトーンだ。

 すぐにエプロンの裾で手をぬぐい、より一層表情を明るくした真昼が電話に出る。もうすぐ一緒にご飯を食べる時間なのにわざわざどうしたんだろう、などという疑問は二の次だった。


「もしもし、お兄さんですか? おはようございますっ!」


 雷雨の夜の一件以来、青年と通話することがすっかり好きになってしまったらしい少女は、元気いっぱいな声で朝の挨拶を電波に乗せる。それに対し、電話の向こうから聞こえてきたのは――


『おはよう……ごめん真昼、今日からしばらくうちに来るのは控えてもらっていいか……?』

「――」


 瞬間、少女は靴箱の上に置いてあった鍵束かぎたばをひっつかむと、玄関の扉を突き破るかのように自分の部屋から飛び出した。そして向かって右隣に位置する青年の部屋――二〇六号室に合鍵を差し込み、引き千切ちぎらんばかりの勢いでドアノブを回して中へと飛び込む。


「どっ!? どどどっど、どういうことですかお兄さんっ!? もうお兄さんの部屋に来るなって!?」

「うわあっびっくりした!? は、話聞いてたか!? 来るのは控えろって――ゴホッ、ゴホッ!?」

「! お、お兄さん!?」


 いきなり入ってきた少女に驚きのリアクションを取れたのも束の間、口元を押さえて咳き込む青年――ゆうの姿を見て、真昼は慌てて彼の側へ駆け寄る。見れば、いつも平日のこの時間には畳んであるはずの布団は敷きっぱなしで、その上に座している青年も寝間着ねまき姿のまま。

 そしてなにより、夕の顔色がものすごく悪い。これはもしかしなくても――


「か、風邪かぜですか!?」

「おう、やられちまったみたいだ……ゴホッ」


 棚から取り出したマスクを装着し、真昼にもそれをけるようにうながしてから夕が頷く。


「昨日からやけに寒気がするとは思ってたんだけどな……今朝起きてみたらこれだよ。つっても熱も大したことないし、寝てりゃ治るレベルだろうけど……でも伝染うつしたらまずいから、それまでは真昼もうちには来ないでほしいんだよ」

「そ、そういう意味だったんですか……」


 事情を聞き、なんらかの理由で出禁を食らったと早とちりしていた真昼はホッと胸を撫で下ろ――しかけて、イヤイヤそうじゃないとブンブン首を振った。


「そ、それなら私が看病します! 前に私が倒れた時もお兄さんにお世話になっちゃいましたし……!」

「アホ、高校生きみらは来週から期末試験だろ? だったら俺なんかに構ってないで勉強に集中しな」

「で、でも私、テストよりお兄さんの方が心配でっ……!」

「はは、相変わらず大袈裟おおげさだなあ……大病たいびょうわずらってるでもあるまいし、それに自分の面倒くらい自分で見られるよ――ぶしゅんっ!」


 一つくしゃみをした青年は、ズズッと鼻をすすりながら続ける。


「とにかく、気持ちだけ貰っておくから真昼は自分のことだけやりな。真昼そっちの部屋でも自炊出来るようになってて良かったよ、本当に」

「あ、あうう……じ、じゃあせめておかゆだけでも私が……!」

らない要らない。あんまり食欲もないし、欲しけりゃ自分で作るからさ」

「そ、それじゃあ寝汗をタオルで拭いたりとか、寝ているお兄さんに寝返りを打たせたりとか、お布団を蹴っ飛ばしちゃったら掛け直したりとか……!」

「俺は生後数ヶ月の赤ん坊か」


 いつも以上に覇気はきを感じない顔に苦笑を浮かべた夕は、その後もあれこれ言いつのろうとした真昼にトドメの一撃をはなつ。


「心配してくれるのは嬉しいけど……俺は、俺のせいで真昼に迷惑を掛けるのが一番苦しいかな」

「……っ!」


 困ったような表情でそんなことを言われてしまうと、なおも食い下がることなど出来るはずもなく……結局、真昼は夕の部屋からやんわりと追い出されてしまうのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る