第一九九食 女子高生たちと自宅料理②

 代表的なロシア料理の一つ、ビーフストロガノフ。テレビ番組などでも頻繁ひんぱんに名前が出てくる料理だが、真昼まひるはそれをしょくしたことがなかった。最近であれば自宅で手軽に作れる市販のルウがあるくらい世間にも浸透しているものの、残念なことに真昼の育った環境ではロシア料理の〝ロ〟の字も出てこなかったのだ。

 それもあって、食いしんぼうな少女はこの〝名前だけは知ってるけど食べたことはない料理〟に以前から興味津々だった。同じくくだんの料理を食べたことがない隣人の青年に「絶対難しいと思うぞ……」と言われたため、不器用な真昼じぶんでは作れないだろうと諦めていたのだが……しかしいざ調べてみると、作り方だけなら真昼の得意料理であるカレーと然程さほど難易度は変わらないことが発覚したのである。無論カレー同様、市販のルウに頼るという前提の上で、だ。


 作り方をごく簡単にまとめてみよう。

 一、細切りの牛肉とタマネギとマッシュルームをバターでいためる。

 二、水と牛乳で一煮立ちさせてからルウを投入し、しっかりと煮込む。

 三、好みでサワークリームやヨーグルトの酸味を加える。

 ――以上だ。ちなみに諸説あるが、ビーフストロガノフの〝ビーフ〟は英語の牛肉ビーフとは別物らしく、豚肉や鶏肉を用いて同じものを作っても〝ポークストロガノフ〟や〝チキンストロガノフ〟とはならないらしい。


「――ということで、どうでしょうか。とり肉と豚肉が両方入ったビーフストロガノフのお味は?」

「ややこしいな」


 午後九時半。夕方から試作品を作り始めて一度失敗し――肩に力が入りすぎていたことは語るまでもない――、改めて作り直した本番・本命・本気の一皿が今、青年の目の前に置かれていた。場所は真昼の部屋ではなく、隣の二〇六号室。夜も遅いということで友人たちは帰ってしまい、部屋にいるのは真昼と夕の二人だけである。

 皿にられているのはもちろんビーストロガノフ。食器類を含めてなにかと出費がかさんだ結果、涙を飲んで牛肉ではなく特売の薄切り豚肉、そして夕の部屋の冷凍庫に常備されている鶏もも肉を使用し、仕上げとしてもちいたのも正規品のサワークリームではなく、安物のクリームチーズにレモン汁を混ぜた代用品だ。ひよりが余ったバターで作ってくれたガーリックバターライスがなければ、かなりお粗末そまつ出来映できばえになっていたかもしれない。


 アルバイトから戻った格好のまま「いただきます」と呟いた青年がスプーンを手にし、真昼がごくりとのどを鳴らす。これがレストランの品評ひんぴょう会であれば見映みばえや香りも審査されていただろうが、よほど酷い見た目・においでもない限り、素人しろうとの夕が確認するのは味だけだ。それでも少女の緊張感は、新作料理を持ち出した料理人シェフたちにも劣るまい。

 今回のように真昼が夕に隠れて料理をしたのは、体育祭の時におにぎりを作った時のみ。いや、あの時でさえおにぎりの作り方を教えてくれたのは夕だった。そういう意味では、真昼が夕の手を借りずに――友人たちの手は借りたが――新しい料理を作るのは、今回が初めてなのかもしれない。


「……ん!」

「! ど、どうしましたかっ!?」


 軽く頷いただけの夕に対し、しかし真昼は過敏かびんな反応を示す。そんな少女に「落ち着け」とばかりに苦笑してから、スプーンを置いた青年がうなるように言った。


「――美味うまい」

「ほ、本当ですかっ!?」

「ああ。ビーフストロガノフなんて初めて食ったけど、めちゃくちゃ美味いよ」


 そのじりのない称賛に、真昼は思わず飛び上がりそうになるのをどうにかこらえた。ここはアパートの二階、しかもこんな夜遅くに跳ねたりしたら、下階の住民からの苦情は必至だろう。


「豚肉でもこんなに美味く作れるんだなあ。てっきり牛肉じゃないと駄目なんだと思ってたよ」

「えへへー」


 普段は先生代わりの彼から「美味い」と言われるたび、真昼の相好そうごうがふにゃりと崩れる。どう見ても目標たる〝大人っぽさ〟からはかけ離れた表情だったが……しかし嬉しいものは嬉しいのだ。この少女にポーカーフェイスなど出来ようはずもない。


「でも――俺も次あたり、作ってみないかって言おうと思ってたんだけどなあ……」

「? お兄さん、今なにか言いました?」

「いや。真昼もすっかり料理上手になったなあってさ」

「ええっ!? そ、そんなあ~、『すっかり大人っぽくなった』なんて、照れちゃいますよぉ~!」

「誰もそんなこと言ってないよ」


 嬉しさ余ってくねくねと身をよじる真昼は気付かなかった。青年の部屋にある小さな本棚の最下段。知らないうちに増えている中級者向けの料理本の一ページに、真新しい付箋ふせんが貼られていることに。彼もまた、少女が喜ぶ料理を作ろうとしていたことに。


「じ、じゃあお兄さんっ! 今度私がビーフストロガノフの作り方、教えてあげますねっ! 手取り足取り、ふっふーん!」

「なんだ、下剋上げこくじょう気取きどりか? でもまあ、お願いしようかな。本当にびっくりするくらい美味かったし」

「えへへへへー」

「特にこのガリバタ飯、すげえよく出来てるよな。これだけで白米はくまい食えるくらい美味いけど、これも真昼が作ったんだよな?」

「え……そ、それは――ひよりちゃんが……」

「あっ……」


 しまった、てっきり全部真昼が作ったんだとばかり……という顔で気まずそうに目をそむける夕に、真昼がうるうると目に涙をめる。当然それを見て焦った青年が、慌ててフォローの言葉を口にした。


「で、でもほらっ、ビーフストロガノフ自体も美味かったしな!? あ、味付けも俺好みっていうか、これは真昼じゃなきゃ作れないっていうか!?」

「そ、それ市販のルウなので、私が味付けしたわけじゃ……」

「あっ……で、でもなっ!? 牛肉じゃなくて豚肉と鶏肉ってところがいいんだよなっ!? 安くて美味いとか最高だもんな!?」

「そ、それも自分で考えたんじゃなくて、全部ネットで探して真似しただけで……ふえぇっ……!」

「いやそんなこと言い出したら俺らの今までの料理全部そうですけど!? な、泣くなよ真昼!? 本当に美味しかったって!?」


 先程までの自信はどこへやら――あるいは緊張がけて気が抜けてしまったせいかもしれないが――、ぽろぽろと目尻から玉の涙をこぼし始める真昼に、青年が子をあやすかのようにわめく声が聞こえてくる。


「――バカひま。『ご飯も自分で作りました!』って言っとけばいいのに……馬鹿正直なんだから」

「んふふー、そこがまひるんの可愛いところでしょー」


 そんな二〇六号室のドアの外、鍵が掛かっていない扉の向こう側で、帰ったはずの二名の少女が友人まひるの一歩前進を静かに祝福していた。

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