第二〇〇食 家森夕と家森真昼

――――


――


『ふん、ふん、ふふーん……』


 その女は慣れた手付きでトントントン、とまな板の上の包丁を動かしていた。よどみのない、文字通り流れるかのような包丁さばき。下拵したごしらえを終えた食材たちを料理へ昇華しょうかさせていく間、彼女の手が一秒と止まることはない。

 冷蔵庫で寝かせておいた成型済みのハンバーグを蒸し焼きにしている間に豚汁とんじる灰汁あく抜きをし、いた隙に千切せんぎりキャベツとレタス、トマトとクリームチーズを手作りドレッシングでえたサラダを手早く作る。そして横目で掛け時計の秒針を確認したのち、お洒落しゃれな食器棚から真っ白なお皿を二枚取り出し、じゅわじゅわと音を立てつつ見事な焼き色に仕上がったハンバーグ、付け合わせ用の細切りポテトと獅子唐ししとう、甘く煮た人参にんじんを盛り付けた。


『これでよし、と』


 今晩のメインディッシュをダイニングまで運び、汁物とサラダ、副菜の小鉢こばちも綺麗に並べ終えると、女は満足げに頷いた。彼女が高校一年生の時、すなわち料理を始めたばかりの頃と比べれば、その腕前や手際てぎわの良さはくらぶべくもない。

 学生時代から作り続けた数々のレシピは女の細腕と記憶にしっかりと根付いており、そこにはもはや、レシピ本や料理サイトに頼る少女の面影おもかげはどこにもなかった。今の彼女の姿を見て、かつてはその不器用さのあまり両親から包丁も握らせてもらえなかったなど、誰が信じられるであろうか。


『さてと、お夕飯は出来たけど……』


 呟き、女がエプロンのポケットに入っている携帯電話に手を伸ばそうとしたその時、玄関の方からガチャリ、と鍵を回した音が聞こえてきた。瞬間、女は表情をぱっと輝かせると、前掛けのすそなびかせながら彼を――いなを出迎えに向かう。


『ただいまー』

『おかえりなさいっ!』

『うおっ!? っと……』


 ビシッとしたスーツ姿でビジネスバッグをげたその男は、勢いよく首もとにきついてきた女のことをどうにか片手で受け止めてくれる。眉尻を下げた苦笑で『こら、危ないだろ?』と注意しつつも自分のことをしっかりと抱き返してくれるおっとに、女は『えへへ、ごめんなさい』と笑い返した。


『おかえりなさい、アナタ。ご飯にする? お風呂にする? それとも――』

『じゃあめしで』

『あっ!? もー、まだ続きがあるのにー……食いしんぼうさんなんだから』

『はいはい。でもこれだけ美味うまそうな匂いがしてるんだから仕方ないだろ?』

『ふふっ、そうかも。私もお腹ぺこぺこだし、早くご飯にしよっか!』


 お決まりの文句を無視スルーされて頬を膨らませたのもつか、旦那以上に食いしんぼうな女はかばんを受け取り、1LDKのマンションの廊下を先行する。


『はあ……今日も疲れた』

『お疲れさま。やっぱり公務員って大変なんだね』

『まあな。楽だなんだって言われるけど、仕事なんて全部似たようなもんだろ』


 受け取ったジャケットをハンガーに掛けて軽くしわを伸ばしていると、男がめていたネクタイをしゅるりとゆるめる。その男らしい仕草を目にし、女はドキッと胸がはずむ感覚を覚えた。


『……ん? どうかしたか?』

『えっ!? う、ううん、なんでもないよ!』


 赤くなった顔を逸らすことで誤魔化ごまかし、両頬を押さえる女。同棲どうせいと結婚をた今でも、男のちょっとした言動に弱いところはなにも変わっていない。というか、むしろ弱くなっているような気さえする。


『で、でも、忙しくても毎日帰る前にちゃんと連絡してくれるの、すっごく嬉しいよ』

『ん? そんなの別に普通だろ? メッセージ送るだけだし』

『そのお陰で、時間ぴったりにお夕飯の準備出来るんだもん。やっぱり、せっかくなら出来立てのご飯食べてもらいたいからね』

『はは、そんな気遣わなくてもいいのに。……だけど、ありがとな』

『えへへ……うんっ!』


 満面の笑みを返し、着替え終わった男と二人で小さなテーブルを囲む。来客があったら困る程度には小さいその食卓は、しかし女たっての希望で購入したものだ。昔、まだ青年とお隣さん同士でしかなかった時代に囲んだローテーブルも、ちょうどこれくらいの大きさだったから。


『『いただきます』』


 女が茶碗にきたて米をよそい、男が二人分の飲み物の用意をし。

 そして二人で行儀ぎょうぎよく手を合わせてから、彼らはまだ湯気が立っている夕食に手をつけた。


『ん、相変わらず美味いなあ。もう料理の腕じゃとっくに抜かれたな、俺』

『あはは、いつの話してるの? あなたが大学の卒業論文書いたり、就職してお料理する時間なくなってからも、私はずーっと続けてきたんだからね? 今じゃお料理もお洗濯もお掃除も、全部私の方が上手に出来るもん』

『あの汚部屋おべや女子高生がこんなに立派になって……お兄さん嬉しいよ』

『わ、懐かしい! 最初はずっと「おにいさん」って呼んでたよね』

『今思い返してみるとすごい違和感だな。あれはあれで好きだったけどさ』

『ふふ、じゃあまた呼んであげようか? お・に・い・さ・んっ!』

『やめろよ、なんか恥ずかしいわ』

『えへへ、私も恥ずかしいかも』


 昔の話に花を咲かせつつ、あっという間に夕食を食べ終える二人。夫婦ふうふになってからも変わらず続く温かな食事の時間こそ、彼らがなによりも幸せを感じる瞬間だった。


『――真昼まひる

『わっ? ど、どうしたの、ゆうくん?』


 食器を片付け終えてエプロンを外そうとした女は、後ろから回された男の両腕にぎゅっと抱き締められた。戸惑いの声を上げながらも心臓が高鳴るのを感じていると、男は彼女の首根にそっと頬を寄せてくる。


『……ふふ、今日は食いしんぼうさんだけじゃなくて、甘えんぼうさんなのかな?』


 女がどうにか平静をよそおい、肩越しに彼の髪をでながら言う。しかし振り返ったそのすぐ眼前、夫の真剣な視線に射抜かれてしまうと、そんななけなしの余裕などあっという間に消えてしまった。


『――好きだよ、真昼』

『ゆ……夕、くん――』


 どこか色気のある男の声。つやっぽくうるむ女の瞳。

 互いをへだてるものなどなに一つなくなった二人はそのまま、愛のままに唇を合わせ――


――


――――


「……」


 ――ようとしたところで、少女はすっかり見慣れた天井を呆然と見上げていた。窓の外からはチュンチュンとありがちな小鳥たちのさえずりが聞こえてきて……自分が今の今まで夢の世界に飛んでいたのだということをこれ以上なくはっきりと告げてくる。


「……」


 むくりと上体じょうたいを起こし、まだ覚醒しきっていない顔で自らの首もとを撫で、続いて肩越しに後ろを振り返ってみて――に誰もいないことを確認する……確認、してしまった。


「……ふっ」


 少女が、どこか虚無的ニヒルに笑う。

 ……もし、彼女の友人であるゆるふわ系少女や眼鏡少女たちがこの場に居合わせていたら、きっとこう言っていただろう。人の気も知らずにケラケラ笑いながら、あるいは下品に手を叩きながら。


 ――「夢オチおつ!」、と。


「うああああああああああッッッ!? な、なんでっ!? どうしてっ!? よ、よりによってあんないいところで終わっちゃうなんて……ッ! だってせめてあと一〇秒、ううん、五秒あれば……っ!? ひ、ひどいよ、こんなのってないよっ、うわああああああああああんっっっ!?」

『どど、どうした真昼!? な、なにかあったのか!?』


 少女の絶叫に、隣室から青年の驚いたような声が響く。

 今日も、うたたねハイツの朝は平和であった。

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