第一八九食 家森夕と大人な友人


「だっはーっ!? もう無理、もう一文字たりとも読んでられない! どこが争点そうてんでどれが有力説なのかなんて知らない、分からない! もうとっくの昔に済んだ裁判の話をし返す必要がどこにあるっていうんだよおっ!?」

判例はんれい研究を根本こんぽんから否定するな。つーかお前がその判例集開いてからまだ一時間もってねえんだよ」


 真昼まひると大学祭に行った翌々日の午後、うちのアパートと某イケメン女子大生の自宅のちょうど中間くらいのところにある、狭いながらも小洒落こじゃれた喫茶店の一席にて。

 法学部に所属している学生にとっては基本中の基本とも言える作業に嫌気いやけが差して目の前で発狂する青葉蒼生あおばあおいに、俺はジトッとした半眼を向けていた。約束通り、このままでは二度目の大学二回生を繰り返すことになりそうな彼女の提出物レポート作成を手助けしていたわけなのだが……馬鹿バカかつ不真面目かつ集中力皆無なこの友人は、たった半刻程度でも本を開いていられないらしい。


「お前なあ……別に恩に着せるつもりはないけど、俺がせっかくの学祭休やすみ返上へんじょうしてまで付き合ってやってるんだから、もうちょっと真剣に取り組めよな」

「やぁん、ゆーくん大ちゅきー! もうっ、や・さ・し・い・ん・だ・か・らっ!」

「本当にキモい」


 イケメン女子の似合っていないにもほどがある可愛子かわいこぶりっ子に、俺は氷点下の視線を作るとともに吐き捨てる。コイツのために目を通していた辞書のように分厚い解釈集を閉じ、背表紙のかどで思いっきり殴り付けてやりたくなった。

 そんな俺の思考を読んだわけでもなかろうが、青葉は冷や汗を流しながら「ま、まあまあっ!」と喫茶店のメニュー表を差し出してくる。


「ほ、ほら、ちょっと休憩にしようよ! 好きなもの注文していいよ、もちろんキミの自腹じばらさっ!」

「『もちろん私のおごりさ』みたいに言うな。お前がこの一時間、なまけながらもまとめたデータファイル、全部削除してやろうか?」

「もちろん私の奢りでございます、ハイッ!」


 テーブル上のノートパソコンをかばいながら返事をする情けない友人に、俺はため息をついてからメニュー表を開く。ちなみに、ここで「コーヒー一杯で勘弁してやるか……」なんていう優しさを発揮したりはしない。この喫茶店は混雑時でなければ学生の自習利用を禁止していないが、それでも長居させてもらう以上は相応の注文をすべきだし、なにより多少の財政打撃いたみを伴わなければ、この友人はどこまでも駄目人間になっていく気がするからだ。

 というわけで遠慮なくランチプレートとカフェ・マキアート、ついでにデザート用のフルーツパフェを注文した俺に、青葉が「この人本気マジで容赦ねえ!?」と悲鳴を上げる。ちなみにしめて二〇〇〇円弱、俺と真昼であれば余裕で三日は食っていけるくらいの出費しゅっぴだ。が、私立大学で現級留置げんきゅうりゅうち処分になるよりはずっとマシだということで、納得してもらうしかない。


「う、うう……今月はただでさえお財布が薄いのにぃ……」

「はあ? お前実家暮らしのくせに、なんでそんな金欠になるんだよ?」

「だ、だって、食欲の秋だから飲み会いっぱい開いてるし……」

「自業自得じゃねえかよ」


 ついでに言えば、食欲の秋だろうが夏バテの夏だろうが、青葉おまえは一切関係なく飲んだくれている。


「それに――雪穂ゆきほとのデート代も、あんまり馬鹿にならないしね」

「!」


 さらっと出てきたとある眼鏡女子高生の名前――しかも知らない間に呼び捨て――に、激しく結露けつろしているお冷やのグラスを握る手をあやうくすべらせそうになる俺。あ、危ない危ない……メンチカツの一件がなければ粗相そそうをしでかしていたかもしれない。


「そ、そういや真昼が気にしてたぞ。『雪穂ちゃんと青葉さんはうまくいってるんですか?』って」

「え、真昼ちゃんが? ……あ、そういえば雪穂あの子、学校じゃ私の話を禁止されてるんだっけ?」

「ああ、なんでも小椿こつばきさんたちに『うるさい』って怒られたらしいな」

「聞いた聞いた。ふふ、本人もなげいてたよ。『私はただ惚気のろけ話を聞いてほしいだけなのに~っ!』って」

「〝惚気〟っていう自覚がある辺りが余計に悪質だな……」

「そうだねえ。私個人としては嬉しいんだけどね」


 テーブルに両肘をつき、組んだ手の甲にあごを乗せながらクスクスと笑う青葉。そんな彼女の表情は友人おれが見たこともないくらいに穏やかで、同時に幸せそうな雰囲気をただわせている。


「……お前、最初は冬島ふゆしまさんと付き合うの、嫌がってたんじゃなかったっけ?」

「ええ~? 心外だなあ、別に『イヤ』とは思ってなかったよ? ただ好意のきっかけがきっかけだったし、もちろん女の子同士っていうこともあって断ろうとはしたけどさ」

「……それを嫌がってるって言うんじゃないのか?」

「言わないよ~。じゃあ逆に聞くけど、夕は真昼ちゃんが『イヤ』だから、あの子の告白を断ったって言うのかい?」

「うっ……」


 しまった、藪蛇やぶへびだったか……。隣人の少女の笑顔とあの夜の出来事を思い出してしまい、俺はぐっと言葉を詰まらせた。対するイケメン女子大生はニヤニヤと底意地の悪い顔で笑っている。


「そういうことだよ。ま、そのうち夕にも分かる日が来るさ。その様子だと、真昼ちゃんも結構みたいだしね」


 見下みおろすような、そして見透みすかしたような口調で言ってくる青葉。俺はそんな彼女のことが気に入らなくて――後は多少の照れ隠し的な意味合いも含めて――彼女のノートパソコンのバックスペースキーを長押ししてやる。

 上書き保存をしているくせに「ぎゃあああああっ!?」と大袈裟おおげさな叫び声を上げる友人の方が大人おとなであるような気がして、なんだか無性むしょうに悔しかった。

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