第一一一食 妄想女子と万が一


「(や……やっちゃったぁぁぁぁぁ……!)」


 その日の夕方。浴槽の半分ほどまで溜めた温かい湯の中に身体を沈めながら、真昼まひるは波のように押し寄せる後悔に打ちひしがれていた。

 その頬はりんごのように、あるいは茹でたタコのように真っ赤に染まっているが……それは決して湯の熱さのせいなどではない。ひとえに今朝、ゆうに対して〝好きな女の子のタイプ〟を始めとする踏み込んだ質問をアレコレ浴びせかけてしまったという羞恥ゆえのものである。


「(ぜ、絶対変な子だって思われた……! どうしよう……!? だ、だって、久しぶりにお兄さんとゆっくりお話出来ると思ったら嬉しくてつい……!)」


 明らかに困惑していた隣人の表情を思い出し、真昼は一人浴槽の中で頭を抱えながら誰にともなく言い訳を試みる。

 良く言えば自分の心に正直、悪く言えば目先のことしか考えられない彼女は、一度「こうしたい!」と思うとすぐさま行動に移してしまうタイプの人間だ。今日の質問攻めにしてもそう、海に行った時から考えていた「もっとお兄さんのことを知りたい」という欲求と、帰省期間中につのった「もっとお兄さんとお話したい」という欲求が掛け合わさったことで、あのような半暴走状態になってしまったのである。

 もちろんそのお陰で、今日はこれまで知らなかった夕の好みをたくさん知ることが出来たわけなのだが……。


『真昼、そんなに俺のことを詳しく知ってどうするつもりなんだ? もしかして――俺のこと好きなのか?』


「違いますッ!? いえ大好きですけどそうじゃなくてッ!?」


 不意に頭の中に現れた空想上の夕の一言に、真昼はばっしゃーんっ! と湯船に顔面を叩きつけた。水面に激突したひたいに痛みが走り、喪失しかけた冷静さが戻ってくる。

 実際のところ、真昼が夕のことをもっと知りたいと思うようになったのは、自分が夕に対して抱く気持ちが恋愛感情によるものなのかどうかが分からなかったためだ。恋をした経験のない少女には〝好き〟と〝好き〟の境界線が分からなかったのである。

 なにより、夕には真昼がまだ知らない一面がまだまだたくさんある。ゆえに今よりももっと深く彼のことを知り、今まで以上に彼のことを好きになれたその時はこの気持ちを〝恋〟と呼ぼうと決めていた。……決めていた、のだが。


『ごめんな……俺、真昼みたいな子どもっぽい子は好きじゃないんだよ』


「うあああああッ!? 違う違うッ!? お、お兄さんはそんなこと言わないもんッ!?」


 やらかしてしまった、という自覚があるせいか、脳内の夕にやたら辛辣しんらつな言葉を突き立てられた真昼がぶんぶんと首を振り回した。たかが空想上の言葉に過ぎないのに、夕に「好きじゃない」と言われてしまったらと考えただけで胸の奥ににぶい痛みが走る。


「うう……というか私、今までどんな風にお兄さんとおはなししてたっけ……?」


 帰省中ずっと会えなかったこともあり、夕との距離感が分からなくなってしまっているのかもしれない。昨日の花火大会ではもっと普通に話せていたはずなのに、いざ彼の部屋で二人きりになると変に意識してしまうというか、緊張してしまうというか。

 いったい何が原因なんだろう、と思い当たる節がないか記憶を探ってみると……。


『なにかあってからじゃ遅いんだ、真昼。今後もその男の部屋に上がり込んで、襲われでもしたらどうする?』


「~~~ッ!」


 実家で父・冬夜に言われたことを思い出し、真昼の顔が今にも発火しそうなほどの高熱を帯びる。

 あの時は夕をし様に言われたことが悔しくてそれどころではなかったが、思えば以前ひよりにも似たような心配をされたことがあった。そして〝襲われる〟という言葉の意味を理解出来ないほど、真昼は馬鹿でもおさなくもない。


「……」


 真昼は無言のまま、湯船に浸かっている己の身体をそっと見下ろしてみる。そこにあるのは平均的な――どちらかと言えばやや細めの女の身体だ。

 水泳の授業の時に雪穂ゆきほが真昼のねたんだりもしていたが、それはあくまで中学時代と比べて、という話である。貧相でこそなくなったものの、亜紀あきほど肉体的に恵まれているというわけでもない。

 じゃあ、もしも父が危惧していたようなことが自分と夕の間で起こったとしたら……?


「(お兄さんは絶対そんなことしない……しない、けど……)」


 しかし万が一……そう、万が一ということもあるかもしれない。人間は決して完璧な生き物ではないのだ。誰しも一時の気の迷いを起こしてしまうことくらいあるだろう。

 そしてその万が一が今日この後、夕食を作りに彼の部屋に行った時に起こるという可能性もゼロではないのではないだろうか? たとえば、夕が酒を飲んで酔っ払っていたりすればあるいは。……彼が部屋で飲んでいる姿など真昼は見たこともないが、それはさておき。


『――真昼。そんな無防備な格好で男の部屋に来るなんて……襲ってくれって言ってるようなもんだぜ……?』

『お、お兄さんっ……!』


「ほにゃああああああああああッ!? いいい、いったいなに考えてるの私はッ!?」


 もはや完全に別人と化した夕に迫られてぎゅっと目を閉じている自分の姿を幻視し、真昼は恥ずかしさのあまりばちゃばちゃと連続して顔を湯船に叩きつける。こともあろうに自らこのような想像――もとい妄想――をするなど、完全に頭が逆上のぼせているとしか思えない。

 真昼はふらつく足で立ち上がり、これ以上変なことを考えないようにさっさと風呂場から出ようとして――ぴたりと手を止めた。


「……も、もう一回だけ身体を洗っておこうかな……へ、変な意味じゃなくてねっ!? 長い時間お湯に浸かってたから汗もかいただろうしっ!?」


 誰も見ていないのに誰にともなく言い訳を重ね、真昼はもう一度バスチェアに腰を下ろした。

 もちろんこの後、夕の部屋でなにも起こらなかったことについては語るまでもない。

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