第七三食 家森夕と〝お兄さん〟


「ありがとうございましたー」


 カフェ店員のゆるい挨拶を背景に、俺、真昼、そして千歳の三人は揃って店を出る。時刻は五時前。夕方と言っていい時間だが、夏の太陽はまだまだ青い空の上に浮かんだままだ。


「本当にいいのか、千歳ちとせ? 真昼まひるはともかく、俺の分まで出してもらって……」

「いいっつってンだろうが。高校生の前で割り勘とかダセェ真似させんじゃねェ」

「わ、悪いな……ありがとう」

「るせェよ、テメェのためじゃねェ」

「ありがとうございます、千鶴ちづるさんっ!」

「お、おう……気にすんな」


 三人分の代金をなにも言わずに払ってくれた千歳は、どうやら真昼のことが大層気に入ったらしい。まあ一時間半にも渡って随分話が盛り上がっていたし、真昼の屈託のない笑顔にかれる気持ちはよく分かる。大学じゃ仏頂面しか見せないヤンキー女こと千歳千鶴がそろそろ店を出ようかという段になったとたん露骨にガッカリした顔をしたくらいなので、よほど真昼と波長が合ったのだろう。……その半分でもいいからゼミでも愛想良くしてくれればいいのに。


 真昼の方も〝千歳さん〟ではなく〝千鶴さん〟と呼ぶ程度にはこの金髪お姉さんに懐いているようだ。青葉あおばなんて未だに〝青葉さん〟呼びなのに。


「(って、そんなこと言ったら俺は〝お兄さん〟じゃねえか)」


 名字すら入ってなかった。おいおい青葉以下かよ、死にたくなってきた。他の誰以下でも構わないが、青葉以下は死にたくなるぞ。


「(まあつっても、初めて会った時からずっとそうだしな……)」


 最初はこんな風に彼女と関わることになるなんて思いもよらなかったから、お互い自己紹介もしないままいたんだっけ。今にして思えば馬鹿みたいだが、だからこそ今さら真昼から〝家森やもりさん〟とか〝ゆうさん〟とか呼ばれても逆に距離を感じてしまいそうだ。


「えっ、千鶴さんもバイク乗ってるんですか!?」

「!」


 真昼の声にハッとして、思いふけっていた俺は顔を上げる。

 見ればカフェの駐車場脇、白線の引かれた駐輪スペースに停めてある大型バイクにキーを差し込む千歳の姿が目に映った。真昼のキラキラした目を向けられた金髪女は「お、おう、まァな」と照れ隠しでもするようにハンドルにかけてあったジャケットに袖を通す。


「えっ? 千歳、お前って徒歩通学じゃなかったっけ?」

「大学のバイク駐輪場の抽選落ちたンだよ。大型でけェのは台数限られてるとかで」

「ああ、そういやそうだっけ」

「ったく、こんなことなら原付にしとくンだったぜ……」

「いいじゃないですか! おっきいバイク、すっごく格好良いですよっ!」

「お、おう、そうか? ……まァ、でかいバイクも悪いもんじゃねェよ、うん……」

「(千歳あいつ、真昼相手だと女慣れしてない中学生みたいな反応するなあ)」


 男子校出身の友人も女相手だとあんな感じだったような気がする。本人の前で言うとまた噛み付かれそうなのでその言葉は飲み込んでおくことにするが。


「お兄さんお兄さんっ! 千鶴さんのバイクくらい大きいバイクだったら二人乗り出来るんですか!?」

「ん? ああ、そりゃ余裕だろ。俺は中型免許ちゅうめんしか持ってないからそのバイクには乗れんけど」

「あっ……そ、そうなんですね」


 ちょっぴり残念そうな顔をした真昼に、俺はむぐっと言葉を詰まらせる。……帰省した時に親父に頼んで実家のボロバイクでもいいから原付と取り換えて貰おうか、などと真剣に考えていると、千歳が不思議そうな顔をした。


「ンだよ、二人乗り二ケツしてみてェのか? オレの後ろで良ければ家まで乗っけてってやンぞ?」

「(な、なにぃー!?)」


 金髪ヤンキーのまさかの発言にガビーンッ、と頭の悪い効果音SEを脳内で響かせる俺。いや、別にショックを受けるようなことではないのだろうが……なんとなく一番手をとられるのは負けたような気がする。


「(いやでも、真昼が乗りたいっていうならそれを邪魔するのはなあ……)」


 自分の本音と大人オトナの良識の間で心が揺れる。しかしそんな俺の苦悩は結果として無駄に終わった。


「いえ、私はお兄さんと一緒に歩いて帰ります」

「!」


 千歳の申し出をあっさりと断ってしまった真昼に、俺はぽかんと口を開けて間抜け面を晒す。


「そ、そうか……まァ、乗りたくなったらいつでも言えよな?」

「はい! ありがとうございますっ!」

「……おう。じゃあオレぁ帰るわ――おいヤモリ!」

「ッ!? な、なんだよ?」


 俺はまたハッとして、声を張り上げたヤンキー女に顔を向けた。


「テメェちゃんとこの子を家まで送れンだろうな!?」

「い、いや送れるもなにも部屋隣だし――」

「ンだそりゃ自慢してンのかテメェ!?」

「情緒不安定かよ」


 一日で真昼に陥落したチョロチョロ女子大生は、「チッ!」と盛大に舌打ちをするとフルフェイスのヘルメットをがぽっと被る。そしてバイクに跨がると、にこにこ手を振る真昼に対してのみ軽く手を上げてこたえ、そのままさっさと走り去って行ってしまった。


「や、やっぱ変人だよな、あいつ……」


 俺がやはり自分の認識が間違っていなかったことを再確認していると、真昼がてててーっと側まで駆け寄ってくる。


「さっ、私たちも帰りましょう、お兄さんっ!」

「お、おう」


 微妙に千歳の中学生感が伝染うつったような反応をしてしまいながら、俺たちはカフェの敷地を出てうたたねハイツへ向けて歩き出した。真昼が「千鶴さんっていい人ですねー」と話題を振ってくるが、それは曖昧に笑うことで誤魔化しておく。……千歳あいつがあんな優しいの、真昼きみに対してだけだからな、本当。


「……バイク、乗せてもらわなくて良かったのか? 乗りたかったんだろ?」

「え? んーと……そうですね、少しだけ」


「でも」と真昼は言葉を区切ってから――いつもと同じお日様のような笑顔で言った。


「私、やっぱり最初はお兄さんの後ろに乗せてほしいですっ!」

「!」


 屈託なく笑う女子高生に、俺は胸の内になにかが込み上げてくるような感覚を覚える。


「……そうか。じゃあまあ、機会があればな」

「はいっ! 楽しみにしてますねっ!」


 なんというか……ずるいよな、この子って。俺は心の中で思う。

 ――こんなふうに無邪気に言われたら、そりゃあ叶えてやりたくなってしまうじゃないか。

 そんな俺の気も知らず、のんきな女子高生さまはとん、とん、とんっと軽快な足取りで俺の前を行く。


「お兄さんに乗せてもらったら、そのあと千鶴さんにも乗せてもらいますねっ!」

「ははっ、そりゃ千歳も喜ぶだろうな。……そういや、さ」

「?」


 足を止めて振り返った真昼に、俺は「えーっと……」と若干の気恥ずかしさを覚えながら問うた。


「ち、千歳は〝千鶴さん〟なんだな?」

「え? ど、どういう意味ですか?」

「い、いや深い意味はないんだけど……真昼、俺のことはずっと〝お兄さん〟って呼んでるからさ」

「それはお兄さんが名前で呼ばれるの嫌がったからじゃないですかっ!」

「えっ、そ、そうだったっけ……」


 そういえばそんなことを言った気もする。


「……じゃあ俺がいいよって言ったら〝お兄さん〟以外の呼び方になるのか? 〝家森さん〟とか〝夕さん〟とか……」

「……」


 俺がさっきぼんやり考えたことをそのまま聞いてみると、真昼はなぜかぷいっと顔を背け――そしてほんの小さな声で呟いた。


「ゆ――〝夕くん〟……」

「……」

「……が、いいです」

「……」


 次の瞬間。真昼の髪から覗く可愛らしい耳が急速に真っ赤に染まっていく。そしてそれに釣られたように、俺の頬までカッとした熱を帯びる。


「や、やっぱりいいですっ! わわ、私今の呼び方も気に入ってますしっ!?」

「そ、そうだな、うん! お、俺も真昼から〝お兄さん〟って呼ばれるのわりと好きだし!?」


 二人揃って中学生のようなことを言い、今のやり取りを丸々なかったことにしようと試みる。……今日の千歳のこと馬鹿に出来ないな、これは……。

 結局この後俺たちは互いに顔を合わせられないまま、妙に早まった歩調でしゃかしゃかと帰路に着いたのであった。

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