みーちゃんといっしょ
けろよん
第1話
外では雨が降っている。
特に親しい友達がいるわけでもなく、家で一人暮らしの僕は、別にやることもなく部屋でごろごろとしてテレビを見て過ごしていた。
時刻は3時になった。
「あ」
3時と言えばおやつの時間だ。僕はなんとなくチョコレートを食べたくなって近所のスーパーに買い物に行くことにした。
それが思えば僕と彼女の運命の出会いの始まりだったのかもしれない。
「みーみー、みーみー」
スーパーに行く途中の空き地から不思議なかぼそい声が聞こえてきた。
猫にしてはなんか違うと思った。なんだろう。
僕は気になって空き地に入っていった。
雨が降るどんよりとした雲の下、そこには中学生ぐらいの一人の女の子がダンボール箱の中に座りこんで声をあげていた。
「みーみー、みーみー」
捨て猫? いや、目の前の彼女はどう見ても人間だ。
僕はとにかく彼女が風邪をひくといけないと思い、彼女のそばに近づいていって傘をかざしてやった。
彼女はつぶらな、純粋無垢な瞳で僕の顔を見上げてきた。僕は少しどきりとしながらも気になることを聞いてみた。
「こんなところで何やってるの?」
「みーみー」
「はやく家に帰らないと風邪ひくよ」
「みーみー」
「……君、しゃべれないの?」
「みーみー」
「…………1足す1はいくらか分かる?」
「みーみー」
「………………」
どうやら彼女は喋れないようだ。僕はどうすればいいのか分からなくて困った。
しょうがない。
「誰か良い人に拾ってもらってよ」
僕はあきらめて引き返すことにした。こんな中学生ぐらいの女の子をどうすればいいのかなんて分からなかった。
それに彼女なりの軽いいたずらなのかもしれないし、こんなことで警察や近所の人に通報するのはやりすぎだと思ったからだ。
だが、運命は簡単には僕を手放してはくれなかった。
僕が背を向けた瞬間、何かがいきなり僕にしがみついてきたのだ。
「うわっ! な、なに!?」
突然のことに慌てふためく僕。振り返ると、さっきの女の子が立ち上がって僕の体にしがみついていた。
「みーみー、みーみー」
僕より背が幾分低い彼女は必死に何かを取ろうとするかのように手を上に伸ばしている。
狙いは僕の……
「駄目だよ、この傘は! 僕が濡れちゃうだろ!」
「みーみー!」
彼女のことを少しはかわいそうとも思ったが、やはり大事なのは他人より自分だ。それにこの傘は僕が持ってきたものだ。この傘の所有権は僕にある。
「やめろと言ってるだろ!」
僕はしつこくまとわりついてくる彼女を勢いよく突き飛ばした。彼女は数歩よろめき、足をもつれさせて、地面へ倒れ……
「危ない!」
僕は傘を放り出し慌てて彼女に手を伸ばした。地面は雨でひどくぬかるんでいる。こんなところに倒れたら大惨事だ。
「たあー! とりゃあ! ふう、なんとか間に合った」
僕はなんとか彼女を受け止めることに成功した。
彼女は驚いたように目をぱちくりさせていたけど、すぐに笑顔になって僕に抱きついてきた。
「みーみー!」
「やれやれしょうがないな。僕の家に来るかい?」
少し戸惑いはあったけど、僕も彼女も濡れちゃってるし、今はそれが一番良い方法だと思った。
「みーみー、みーみー」
彼女は嬉しそうに返事をした。
僕は傘を拾うと彼女と一緒に家へと向かった。彼女はおとなしくひっついてきた。ひょっとしてなつかれちゃったのだろうか。
「君、名前はなんて言うの?」
歩きながら、僕はあまり期待せずに聞いてみた。濡れた体に彼女の体温が伝わってきてちょっとこそばゆい。
彼女の答えは予想通りだった。
「みーみー」
「みーみーか……じゃあ、みーちゃんでいいよね」
「みーみー」
彼女は嬉そうに返事をした。そして、僕とみーちゃんの奇妙な生活は始まったのだ。
──夕暮れの太陽に街が赤く染まっていく。
近所で最も高く、街が一望に見渡せる場所、風見ヶ丘。その頂上の展望台で一人の少女が街を見下ろし立っていた。
「今年もこの季節がやってきたわ……」
ほんの小さなつぶやき。彼女の声は凛として清々しく、聞く物を和ませる天使の歌声のようであった。
彼女の右手がゆっくりと持ち上がっていく。その手の先にあるのは一枚の純白の羽。
「祝福の羽よ。この街で最も心清く、迷える人に……思いを届けるきざはしとなって……」
風が吹く。羽が少女の手を離れ、ゆっくりと宙へと舞い上がっていく。
赤く染まる町並に羽が飛んでいくのを見送って、少女は笑みを浮かべたまま姿を消した。
僕たちは家へとたどり着いた。雨は一時的な通り雨だったらしく帰ってくる途中で意外とあっけなく止んでいた。
「みーみー」
僕の横では空き地で見つけた少女みーちゃんがおなじみの声をあげながらもう必要のなくなった傘をくるくると回して遊んでいる。
僕はその様子を微笑ましく眺めながらもいつまでもこうしているわけにもいかないのでさっさと玄関の鍵を外してドアを開けた。
「ここが僕の家だよ。さあ、上がって」
彼女に中に入るように促す。
「みー?」
みーちゃんは不思議そうに首を傾げて中をのぞき、しばしの観察のあと僕から離れてとことこと入っていった。
「ああ! くつ! くつは脱いでよ!」
さも当然のことのようにくつを履いたまま上がる彼女を僕は慌てて呼び止める。
「みー?」
「家に上がる時はくつは脱ぐんだよ。あ、傘もね」
「みーみー」
よく分かってなさそうなみーちゃんから傘を受け取り、彼女を玄関に座らせる。
僕はみーちゃんの前にかがみこむと、くつを指さして言った。
「ほら、くつ、脱いで」
「みーみー」
みーちゃんは何を言われているのかよく分かっていないようだ。
「しょうがないな。僕が脱がせてあげるよ」
僕はあきらめて彼女のくつを脱がせてあげることにした。彼女はむずがるように背筋をくるくるとくゆらせた。
「みーみー」
なんだかくすぐったがってるみたい。
本当に彼女は何者なんだろう。僕は改めてそう思う。
つい家に連れてきちゃったけど、本当に良かったんだろうか。とにかく濡れてる服をなんとかしないと。
「ちょっとタオル取ってくるから、ここで待ってて」
いくらなんでも二人揃って濡れている僕達が家に上がれば家の中がびしょびしょになってしまう。僕は急ぎ足で洗面所に行ってタオルを取ってくると玄関へと引き返した。
みーちゃんはおとなしく玄関に座って待っていた。
「ほら、ふいてあげるからこっち向いて」
「みー」
みーちゃんは言われた通りにおとなしく振り向いた。さっきのくつのことで彼女に説明しても分からないだろうと思ったので、僕は自分の手で彼女をふいてあげることにした。
みーちゃんの頭にタオルを乗せてごしごしとこすってやる。
「みーみー」
「ほら、ふいてあげるんだからおとなしくして」
ふらふらと手を振るみーちゃんを黙らせて、僕は彼女の頭から足元へと手際よく水分をふきとってやった。続いて自分の体をごしごしとふく。
まだ濡れて冷たいけど、ぽたぽたと落ちる水はだいぶましになった。
「さあ、上がって」
「みー」
僕は彼女の手をつかむと、彼女を部屋へと連れていった。
「着替え……なんて持ってないよね?」
「みーみー」
聞くまでもないことだった。彼女はどこからどう見ても手ぶらだ。
「僕の服を貸してあげるから着るといいよ」
僕はタンスから服を出すとみーちゃんの手に渡した。
みーちゃんは不思議そうに手に持った服を引っ張ったりかざしたりして、そして最後に首をかしげて僕の方を見つめた。
「みー?」
「あ、服。着替えてほしいんだけど」
「みーみー」
「あー、うん、そうだね」
適当なあいづちを打ちながら僕は困っていた。どうしたらいいんだろう。
靴をぬがしたり軽くふいてやるのならともかく、女の子の服を着替えさせるなんてまっとうな男である僕になんてできるはずはない。
でも、このまま放っておいたら彼女は間違いなく風邪を引いてしまうだろう。僕に選択の余地なんて無かった。
「じゃあ着替えさせてあげるから。みーちゃん、僕をうらまないでよ」
僕は内心どきどきする心臓を必死に押さえ込みながら彼女の着ている服へと手を伸ばした。
冷たい布の感触が僕の手に伝わる。早く彼女を暖かくしてやらないと。
「みー?」
みーちゃんが視線を上げて僕の目をまっすぐに見つめる。僕は思わず照れて後ずさってしまった。
「みーみー」
「みーちゃん、そんな目で僕を見ないでよ……」
みーちゃんは多分何も分かっていないんだと思う。ただ僕を信頼してなついてくれている。そんな彼女の純粋な瞳が僕の決意をにぶらせる。
でも、やるしかないんだ。
僕はみーちゃんの視線から逃げるように、みーちゃんの背後へと回りこんだ。
ゆっくりと手を伸ばす。
「あ、動かないで」
振り返ろうとするみーちゃんの肩を押さえ、動きを止める。
「みーみー」
「みーちゃん、じっとしててよ」
僕はみーちゃんの服をそっとつかみ、持ち上げた。みーちゃんの肌がちょっとだけあらわになる。
「うわあ! だだだあ!!」
僕は思わず暴走しそうになる鼻血を押さえ、派手に音を立てて引っ繰り返ってしまった。
「み、みーちゃん……刺激が強いよ……」
「みーみー」
倒れた僕をみーちゃんが心配そうにのぞきこむ。
「ごめんよ、みーちゃん。なんでもないから気にしないで」
僕は手を振りながら弁解した。
何をやっているんだろう僕は。こんなことでみーちゃんを心配させるなんて……
「みーちゃん、服を脱ごう。そして、お風呂に入ろう!」
僕はもう迷わないことに決めた。みーちゃんのため、自分のため、思い切って……やってみた。
ありったけの勇気を振り絞って……
『そして、行為が終わった』
着替え終わったみーちゃんは今では僕にドライヤーを当てられて気持ちよさそうに座っている。
僕はみーちゃんの髪がよく乾くように丹念にドライヤーの風を当ててやる。
「みーちゃん、気持ちいい?」
「みーみー」
僕の声にみーちゃんは気持ちよさそうに答えてくれる。いろいろあったけど思い切ってやって良かったと僕は思う。
「みーちゃん、君は一体何者なの?」
「みーみー」
僕のちょっと気になる質問にもみーちゃんはいつもの言葉しか返さない。
「みーちゃん……ひょっとして君は僕のところに舞い降りた天使なのかもしれないね。僕のために……」
「みーみー」
「みーちゃん……大好きだよ……」
もうみーちゃんが何者かなんてどうでも良かった。
目の前の少女がたまらなくかわいくて、いとしくて、僕はみーちゃんのことをそっと優しく抱き締めた。
そして、僕がみーちゃんと過ごすようになってから二週間の時があっと言う間に過ぎていった。
その間に分かったことと言えば、みーちゃんが絵を描くのが好きだということ。
最初、僕が出掛けている間に家の中を落書きだらけにされたのには本当に驚いた。
でも、僕はみーちゃんのしたことだからちょっとだけ怒って許してやった。
そして、僕はみーちゃんにスケッチブックを買ってあげた。僕から彼女への始めてのプレゼント。
ちょっと照れ臭かったけど、みーちゃんはいつものように嬉しそうにみーみーと言って僕のプレゼントを受け取ってくれた。
みーちゃんは楽しそうにクレヨンやマジックを使って僕のあげたスケッチブックに絵を描いていく。僕もみーちゃんに付き合って一緒にお絵かきの時間を楽しんでいった。
僕とみーちゃんの絵はお世辞にもうまいとは言えないものだったけど、それでもこのお絵かきの時間は僕たちにとってかけがえのない幸せな時間となった。
僕たちは外へ散歩へ出るようにもなった。
最初のうちこそ僕はみーちゃんを外へは出さないようにしていたけど、みーちゃんがあまりにも退屈しているように見えたから思い切って外へと連れ出してみたのだ。
驚いたことにみーちゃんは外にある何もかもが珍しいようだった。嬉しそうにみーみーとかわいらしい声をあげてはしゃぎまわっている。
みーちゃんは外から来たはずなのに……いったいどこからやってきたんだろう。
そんなことはどうでもいい。
僕たちにとってみーちゃんはみーちゃんであり、僕は僕。今ここにある全てが真実なんだ。
……みーちゃんは……僕の家族だ……
みーちゃん…………
夜がきて僕は明日の予定を話し合うことにした。明日からは祝日と重なって連休だ。僕はこの機会にみーちゃんを連れてちょっと遠出しようと思っていた。
デート……とも言えるかもしれない。
僕は部屋で寝転んでお絵かきしているみーちゃんの横からそのパンフレットを見せてやった。
「みーちゃん、明日ここへ行こうと思うんだけど」
僕の差し出したパンフレットにみーちゃんはさっそく喜んで飛びついてきた。みーちゃんは本当に珍しい物が好きだ。
「みーみー」
「風見ヶ丘って言って、丘のくせに山だろと言いたくなるような場所なんだけど、その頂上の展望広場から見る街の景色がとても綺麗なんだ。みーちゃん、行くよね?」
「みーみー」
「うん、明日の朝出掛けよう。みーちゃん、きっとこの街が好きになるよ。じゃあ、今日はもう寝ようね」
明かりを消して僕はそっとみーちゃんを布団に寝かせてあげる。
僕はこの幸せがずっと続くものだと思っていた。
みーちゃんは僕だけの物だと思っていたのに……
運命の使者は僕たちのすぐ近くまでやってきていたんだ……
次の日、絶好の旅日和に空は晴れていた。天気も僕たちを祝福してくれているみたいだ。
「見て、みーちゃん。良い天気だよ」
僕がカーテンを全開にすると、みーちゃんはまぶしそうに目をこすりながらふとんから起き上がった。
「みー……」
みーちゃんはまだ眠いみたい。僕は開けたカーテンをまた閉じることにした。
「みーちゃん、まだ眠い? もう少し寝る? できれば少し早めに出発したいんだけど」
みーちゃんは僕の言葉を最後まで聞く前にまたぱたりと倒れて眠ってしまった。
仕方ないよね。僕の都合よりみーちゃんのことが優先だ。
「クー、スー……」
みーちゃんが軽く寝息を立てている。
みーちゃん、寝る時はみーみーじゃないんだ。
僕はつまらないことに関心しながらそっと部屋を出た。
ソファに腰掛けて居間でテレビを見る。天気予報では今日は絶好のお天気だそうだ。地図はほとんど晴れのマークに埋まっている。
みーちゃんと始めて会った時みたいに雨に降られたら大変と思っていたけど、その心配もなさそうだ。
でも、雨の中でみーちゃんと傘をさして歩くのも悪くないと思ったり、雨だとせっかくの景色が興ざめしちゃうんじゃないかと思ったり、何かアクシデントがあったらどうしようと思ったり、いろいろあれこれ想像して僕は一人でにんまりしていた。
ニュースは今日もどうでもいい遠くの事件を報道している。みーちゃん絡みのことは無いみたい。
当然か。僕とみーちゃんは特に何もしていないごく普通の一般人なんだ。今日は一緒にピクニックに行って、いっぱい遊んで帰ってこよう。
「みーみー」
それから30分ほどして、みーちゃんがいつもの声を出して起きてきた。
「おはよう、みーちゃん。朝ごはんの用意してあげるね」
と言っても僕にできることはパンを焼いてコーヒーを入れてあげることぐらいだ。
昼食は向こうのレストランで取ろうと思っている。
僕もお母さんぐらい料理がうまければ気の利いたお弁当でも作ってみーちゃんに喜んでもらうのに……
まあ、僕たちの人生は長いんだ。気長に行けばいいさ。
僕は思いながら、焼けたパンにバターを塗ってみーちゃんに渡してやった。
「みーみー」
みーちゃんは本当においしそうにパクパクと食べる。
そんなみーちゃんの笑顔を微笑ましく眺めながら、僕も自分のパンにバターを塗って口に入れる。
誰かと一緒に食べる食事はおいしいと言うけれど、僕はそれは真実だと言うことを実感していた。みーちゃんがいて、僕がいる。たったこれだけのことがこんなに幸せに思えるなんて。
今日はきっと思い出に残る良い一日になる。僕はそう確信していた。
でも……人の織り成す因果の糸はそんな僕たちを決して見逃してはくれなかったのだ。
朝食が終わり、僕たちがいよいよ出掛けようと腰をあげかけた時、めったにならない僕の家のチャイムが鳴り響いた。
『ピンポーン』
誰だろう。集金かな。……こんな時間に?
「みーちゃん、ちょっと待っててね」
僕はいったいなんだろうとめんどくさく思いながらみーちゃんを置いて玄関へと向かった。
それが僕とみーちゃんの平穏な関係をかき乱す運命の始まりとも気づかず、
『ピンポーン』
「二回もならさなくても聞こえてるよ」
僕はそんなささいなことに腹を立てながら、玄関の扉をぶっきらぼうに跳ね開けた。
「何か用……ん?」
そこに立っていたのはまったく僕の予想になかった人だった。
てっきり何かのおじさんかおばさんだと思っていたのに、そこにいたのは小学生ぐらいのかわいらしい女の子だった。
「あたし、頼子(よりこ)です。あの」
「ここは君の家じゃないよ」
なんだいたずらか。僕はさっさと扉を閉じようとした。
が、近寄ってきた女の子に止められてしまった。
「ちょっと待ってください。聞きたいことがあるんです。あたし、お姉ちゃんを探してるんですけど」
「ふーん」
僕には関係ないことだ。でも、頼子と名乗ったこの少女が簡単には引き下がらないように思えて僕はとりあえず話だけは聞いてあげることにした。
「それでなに?」
僕が話を聞いてくれると思って喜んでいるのか、少女がちょっと顔をほころばせた。
服のポケットから一枚の写真を取り出して僕に手渡してくる。
「これ、お姉ちゃんの写真です。お姉ちゃん2週間ぐらい前に病院からいなくなっちゃって。この辺りで見たという人がいるんですけど、知りませんか?」
「君のお姉ちゃんのことなんて僕が知ってるわけ……」
言いかけて、僕は驚愕に表情を凍りつかせてしまった。
その写真に写っていたのは……みーちゃんだったんだ。
僕の知らないみーちゃんが……僕の知らない場所で、僕の知らない格好で笑っている……
「どうしてこんな……」
「知ってるんですか!?」
僕の反応に少女が驚いたように身を乗り出してくる。
僕はそんな頼子ちゃんに勢いよく写真を突き返した。
「知らないよ! 僕が、みーちゃんのことなんて……!」
言いながら僕はまずいと思っていた。頼子ちゃんは静かに写真を受け取りながらも明らかに僕を怪しむような目付きで見上げている。僕もそうだけど彼女もこの事態にどう反応したらいいのか思いあぐねているようだ。
だから、僕は先手を打ってとにかく口を出すことにした。相手は小学生だ。いざとなればどうにでもなる。
「それで、お姉ちゃんの名前はなんて言うの?」
「……春子(はるこ)」
少女が何故か言いにくそうに返事をする。その言葉に僕は安心して肩の力を抜いた。
やっぱりみーちゃんじゃない。
みーちゃんじゃないんだ。
みーちゃんなわけなかったんだ。
僕は心の中で何度もそう繰り返し、頼子ちゃんに言った。
「残念だけど他を当たってよ。この辺りにはいないよ」
だけど、彼女はそれだけでは引き下がらなかった。
「みーちゃん……」
誰に言うでもなく少女が小さく呟いた。その言葉に僕は驚いて頼子ちゃんの顔を凝視した。
幸いにも彼女は地面の方を見つめていて、僕の変化には気づいていなかった。
僕は慌ててなんでもない風を取り繕った。
ちょっとして、頼子ちゃんが顔を上げて言葉を続けた。
「家で飼ってた猫の名前なんです。……すみません、お手間をおかけしました、失礼します」
頼子ちゃんはがっくりと肩を落とした様子で言葉を並べたてると、すごすごときびすを返して歩いていった。
僕はただ黙って見送った。かわいそうとも思ったけど、どうしていいか分からなかった。
「みーみー」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこにはみーちゃんが立っていた。僕の様子が気になって玄関まで出てきたのだろう。
「なんでもないよ、みーちゃん。さあ、家に入ろ……」
言いかけて僕は言葉を飲み込んでしまった。みーちゃんが僕とは違う何かをじっと見つめている。僕の背後にある何か。きょとんと丸くしたような瞳で。
みーちゃんの視線をたどるように僕は振り返る。
頼子ちゃん……
「なんでまだ……いるんだ……」
玄関の門から少し離れたところで、頼子ちゃんが言葉を失ったように振り返って立ち止まっていた。
一瞬の静寂。の後。
「みーちゃん!!」
「お姉ちゃん!!」
「!!?」
僕がみーちゃんを家の中へ突き飛ばすのと、頼子ちゃんがこちらにロケットのようにダッシュをかけてくるのと、みーちゃんが何かに驚いたように目を見開いたのはほとんど同時だった。
みーちゃんは転がるように階段を駆け上がる。僕の横を擦り抜けるように玄関に走り上がろうとした頼子ちゃんの手を僕はなんとかつかみとった。
「やめろ!! 僕のみーちゃんに何をするんだ!!」
「離せえ!!」
さっきまでのしおらしさはどこへやら、すさまじい見幕で引っ掛かれ蹴飛ばされ、僕は頼子ちゃんの手を離して玄関先に引っ繰り返ってしまった。
「くそっ!!!」
みーちゃんの後を追って、頼子ちゃんが階段をかけあがっていく。
みーちゃんがさらわれる、みーちゃんがいなくなってしまう、その恐怖に僕の頭は真っ白になってしまった。
急いで頼子ちゃんの後を追って階段をかけあがる。廊下の先の僕の部屋の前で頼子ちゃんは叫びながらドアを叩いてノブをがちゃがちゃやっていた。
「お姉ちゃん開けて! 開けてよ!」
「やめろおおおおお!!!」
轟音のように轟く僕の声に頼子ちゃんがぎょっとしたように目を向ける。
僕は精一杯に手を伸ばし、頼子ちゃんの体をドアの前から引きはがすと、力任せに廊下の床に叩きつけた。
「みーちゃん!!!」
愛しい彼女のことが気になって、好きな人の無事を確かめたくて、僕は何も考えられずに目の前のドアを蹴り開けた。
「みーーーー!」
扉の向こうでみーちゃんが悲鳴をあげて倒れこむ。
その様子に僕はやっと我を取り戻した。
「みーちゃん!!」
みーちゃんは部屋の中からドアをおさえこんで侵入者をはばんでいたんだ。それを僕が蹴り開けてしまったから……
「ごめんよ、みーちゃん。大丈夫?」
僕は優しくみーちゃんを抱き起こす。みーちゃんは力無く目を開けながらも返事をしてくれた。
「みーみー……」
「ごめんよ、みーちゃん。もう大丈夫だから……」
なにが大丈夫なんだろう。僕は何がなんだか分からなかくてただおろおろしていた。
ドアの方を振り返ると今にも力尽きそうな様子で立っている頼子ちゃんがいた。
「お姉ちゃん……よかった……」
頼子ちゃんはそれだけ呟くと糸の切れた操り人形のように気を失って倒れてしまった。
僕はやっと冷静さを取り戻して来て、事態の深刻さを受け止められるようになっていた。
あんな小さな女の子に僕はなんてことをしてしまったんだろうか。
「みーみー……」
みーちゃん……
みーちゃんと頼子ちゃんと運命の荒波にほんろうされて、僕はなすすべもなくただ座っていることしかできなかった。
とにかく……頼子ちゃんをあのままにして放っておくわけにもいかないよね。
数刻ばかりたってからようやく落ちつきを取り戻してきた僕はみーちゃんのそばからゆっくりと立ち上がった。
「みーみー」
僕の服のそでをみーちゃんが引っ張る。その瞳はとても不安そうな色にゆれている。
「大丈夫だよ。すぐ戻ってくるから」
僕はみーちゃんを安心させるように優しく言い聞かせると、足音を立てないように静かに倒れている頼子ちゃんに近づいていった。
「頼子ちゃん……頼子ちゃーん」
声をひそめて呼びかけてみる。が、彼女は完全に気を失っているようだ。ぴくりとも反応してくれない。
我ながら僕はなんてことをしてしまったんだろうか……なんて感傷に浸っている場合でもない。
僕は頼子ちゃんを起こすために思い切って大きな声で呼んでみようと思った。その時だった。
「みーみー、みーみー」
後ろからみーちゃんの悲しそうな声が聞こえてきて、僕は吸った息を大きく吐き出して彼女の方を振り返った。
「どうしたの、みーちゃん。何かあったの?」
「みーみー、みーみー」
みーちゃんはまるで何かを恐れているかのように床に座りこんで首を横に振っている。
「みーちゃん? ……もしかして頼子ちゃんのことが怖いの?」
みーちゃんが何を恐れているのかは僕には分からない。でも、変化の原因となったのは明らかにこの少女だと思った。
僕は改めて床に倒れて気を失っている頼子ちゃんの姿を見下ろしてみた。
平均より少しかわいいぐらいのどこにでもいるような普通の女子小学生にしか見えない……けど……
でも、みーちゃんの写真を持っていた。みーちゃんのことをお姉ちゃんって呼んでた。すごい見幕で引っ掻かれて蹴飛ばされた。そして、僕がつかんで投げ飛ばしたんだ。
僕が頼子ちゃんについて知ってるのはそれぐらいだ。いったい頼子ちゃんとみーちゃんにどんな関係があるんだろう。
まさか、頼子ちゃんは某国からみーちゃんを追いかけてきた凄腕のエージェントとか……馬鹿馬鹿しい。そんなこと現実にあるはずがない。
「みーみー、みーみー」
「あ」
後ろからの改めて催促するようなみーちゃんの声に、僕は考え事の世界から戻ってきて我に返った。
「ごめん、みーちゃん。すぐにすむからね」
何をどうすればすむのか僕にはちっとも分からなかったけど、とにかく考えていてもしょうがないのは確かだ。
僕は思い切って頼子ちゃんの体を抱き抱えると部屋のベッドまで運んで寝かせてあげた。
やっぱり普通の女の子……だよなあ。あどけない頼子ちゃんの寝顔はとてもみーちゃんを恐れさせるような凄腕のハンターのようには見えなかった。
「みーみー」
後ろからみーちゃんが僕を呼ぶ。
「ごめん、みーちゃん。今行くからね」
とにかく頼子ちゃんには目が覚めたらすぐに帰ってもらおう。僕にはみーちゃんとの今の生活が一番大事なんだ。どこの誰とも分からない人に邪魔されたくなんてなかった。
それから僕とみーちゃんは一階の居間であやとりをして過ごした。
本当は今日はデートに行くはずだったのに、すっかりだいなしだ。僕はいろいろあって気持ちが混乱していたし、家に頼子ちゃんを置いて黙ってでかけるような気にもなれなかった。
それでもみーちゃんは気落ちすることなく喜んで僕との遊びに興じてくれている。
僕としては嬉しさ半分悲しさ半分といった感じだ。みーちゃんは今日という日をどう思ってくれていたんだろう。
「ほら、みーちゃん。ここをこうするとホウキなるんだよ」
僕はみーちゃんの前で器用に指を動かして自分のひもをホウキの形に作り上げてみせた。
「みーみー」
みーちゃんは不器用に手を動かしてひもをこんがらがしてぐるぐるにもつれさせてしまった。
「あはは、みーちゃんは手が器用だねえ」
「みーみー」
みーちゃんは半ばむきになったようにひもをしっちゃかめっちゃかにいじくり回してなんとか川の形に巻き戻す。それからまたくるくる回してもつれさせてしまった。
みーちゃん、川はなんとか出来るみたいだけど、ホウキはかなり難しいみたい。
「みーちゃん、手伝ってあげようか」
「みーみー」
僕が言ってあげると、みーちゃんは真剣な顔で首を横に振って、また目の前のひもに集中する。
そんなみーちゃんの様子を僕はあきることなく微笑ましく眺めていた。
かわいいみーちゃん、真剣なみーちゃん、ずっと一緒にいたいけど……二階に寝かせた頼子ちゃんのことがそろそろ気になってきて、僕はそっと部屋を出ていった。
二階に行くと、頼子ちゃんはすでに目を覚ましていた。窓のそばに立って黙って外を眺めている。
「頼子ちゃん」
呼びかけてみると、頼子ちゃんは静かに振り向いた。そのしぐさが一瞬みーちゃんのように見えて僕の心臓はドキッと跳ね上がってしまった。
どうしたんだ、僕は。頼子ちゃんのことがみーちゃんに見えてしまうなんて。
そんな僕のことに頼子ちゃんはとまどうでもなく、およそ年齢にふさわしくないような落ち着いた声で話しかけてきた。
「あの子……みーちゃんなんだよね」
「え? …………うん」
僕は一瞬何を言われたのか分からなかったけど、なんとか言葉をのみこんで返事を返してあげることに成功した。頼子ちゃんは静かにうなずいた。
「やっぱり…………本当は分かっていたんだ。お姉ちゃんはみーちゃんなんだってこと……」
この子はいったい僕に何を言うつもりなんだろう。僕にはさっぱり分からなかったけど、何か不愉快な予感のようなものを僕は感じていた。
『この子は今すぐにこの家から叩き出さないといけない。みーちゃんとの生活を守るためにはそうしないといけないんだ』
そう思うのに、心のどこかでは頼子ちゃんの話を聞きたいと思い、僕の指は動かなかった。
昼のまだ明るい外を背景に、少女が笑みとも悲しみともつかない形に表情を崩す。
「前に言ったよね。あたしの家で飼ってた猫の名前……みーちゃんって言うんだって……」
「うん…………」
頼子ちゃんの頬に一筋の涙が流れた。頼子ちゃんは……泣いていたんだ。
そして、僕に言ったんだ。
「お姉ちゃん……自分のこと猫だって思ってるんだよ。あたしたちが飼ってた……死んだみーちゃんなんだって……」
「君は間違ってるよ……みーちゃんは……みーちゃんなんだ。僕の好きな……明るくて優しい女の子なんだ」
頼子ちゃんは多分僕には分からない深い何かを抱えているんだろう。
でも、僕には僕で退けない理由がある。
僕はみーちゃんが好きだ。みーちゃんの何もかもが大好きなんだ。そんなみーちゃんのことを否定する頼子ちゃんの言葉を認めるわけにはいかなかった。
「…………みーちゃんに会わせて……」
深い悲しみを絞り出すような頼子ちゃんの声。僕はその言葉を退けることが出来なかった。
頼子ちゃんを連れて居間に行くと、みーちゃんはまだ座ってあやとりのひもをいじくり回していた。
「みーちゃん」
僕が呼んであげるとみーちゃんはぱっと顔を輝かせてこちらの方を振り向いた。
でも、その目が頼子ちゃんの姿を認めた瞬間、みーちゃんの顔はあっと言う間に不安な曇り空になってしまった。
「みーちゃん」
頼子ちゃんがみーちゃんを呼ぶ。今までのお姉ちゃんではなく、みーちゃんという呼び方で……
その言葉は僕の慣れ親しんだいつもの呼び方だったけど、何かが悲しかった。
「みーちゃん、大丈夫だよ。怖くないから……ね?」
頼子ちゃんがみーちゃんに近づいていく。みーちゃんは不安にとまどうような顔で僕と頼子ちゃんを交互に見つめている。
逃げることもせず、床に座りこんだままで。手にはぎこちなく崩した川を作ったまま……
僕はただ黙って彼女たちの様子を見守っていた。
「みーちゃん」
頼子ちゃんがもう一度そっと優しく声をかけて、みーちゃんを抱きしめる。
みーちゃんはまだ不安そうに体を震わせていたけど、頼子ちゃんの優しいぬくもりが伝わったのか、やがて緊張を解いて嬉しそうにみーみーと言った。
「みーちゃんは良い子だね」
頼子ちゃんが優しくみーちゃんの頭をなでてやっている。みーちゃんは気持ちよさそうに笑顔でされるがままになっている。
そんな彼女達の姿を見て、僕の脳裏に頼子ちゃんの言った言葉が蘇ってきた。
『お姉ちゃんは自分のこと猫だって思ってるんだよ』
違う……
『あたしたちの飼ってた……死んだみーちゃんなんだって……』
それは……間違いなんだ。頼子ちゃんの勘違いなんだ。
みーちゃんは絵だって描けるし、あやとりだって出来るんだ。みーちゃんはどこにでもいるごく普通の女の子なんだ。僕の大好きなみーちゃんなんだ。
「みーちゃん、あやとりの続きをしよう」
僕は不安に戸惑う心を追い払うように、みーちゃんと頼子ちゃんのもとに近づいていった。
――それはかつてあった光景。風見ヶ丘は今も昔も変わらずそこにある。
前方はるかに広がるのは活気ある街の営み。そのパノラマを背に一人の少女が翼を広げて降り立った。
『わたしは天からの使いシンシアです。心迷えるあなたに祝福を、清き願いをかなえましょう』
少女が手をさしのべる。
その先に立つのは一人の老婆だった。しわだらけの手に大事そうに何かを抱えている。
『おやまあ、天使なんて本当にいたんだねえ。ああ、かわいいねえ。あたしも若い頃は……』
――中略――
『それで願いごとは? なにもないならそれでもいいですけど』
『ああ、待っておくれよシンシアさん。実はいたずら好きのくそ猫に困らされてね。これをなんとかしてほしいんだよ』
『これですね。分かりました。すぐになんとかいたしますわ』
『たのんだよー』
シンシアの手から白い光が広がっていき、それは変化をとげたのだった。
次の日、平凡な朝に僕は目覚めた。ほがらかな空気が僕の見慣れた部屋を優しく穏やかに包んでいる。
昨日は頼子ちゃんが来ていろいろどたばたしちゃったけど、今日はみーちゃんと一緒に落ち着いた休日を送りたいと思う三連休二日目のことだった。
「みーちゃん」
僕がベッドに寝ているみーちゃんに声をかけると、それを見計らったかのようにチャイムが鳴った。
『ピンポーン』
こんな朝早くに誰が……なんて考えなくても僕には分かる気がした。昨日の今日でこんな時に来るのはあの子しかいない。僕は落ち着いた足取りで玄関へと向かった。
そして、案の定外で待っていたのは彼女だった。朝からにこにこ顔で立っている小学生ぐらいの女の子。
「おはようございます」
頼子ちゃんは昨日の迷いはふっきれたのか元気よくあいさつをしてきた。
「ああ、おはよう」
でも、僕はまだ彼女に完全に気を許すことはできなかった。
「何か用?」
めんどくさく思いながら僕が聞くと、頼子ちゃんは全く動じることもなくはきはきと答えた。
「うん、みーちゃんと遊びに来たのよ」
「へえー、まあ上がってよ」
追い返そうとして暴れられても困るので、僕はおとなしく言うことを聞いてあげることにした。昨日彼女に引っ掻かれて蹴飛ばされた傷がまだ痛むし、彼女はみーちゃんとは遠からぬ関係があるようなのだ。
昨日はなんとなく一緒に遊んで、僕たちの数年来の友人のようにバイバイして別れちゃったけど、今日こそはなんでもいいから白黒付けよう。
そう覚悟を決める僕の後ろを頼子ちゃんは黙って付いてくる。
僕は緊張を振り切るように別にどうでもいいことだけど言ってやった。
「人の家に上がる時は『お邪魔します』だよ」
「あ、お邪魔します」
頼子ちゃんはぼーっとした空想の世界から戻ってきた旅人のようにはっとした表情を走らせてから元のポーカーフェイスを取り戻して言った。
この子は何を考えているんだろう。僕にはよく分からなかった。
「みーちゃんまだ寝てるからテレビでも見ててよ」
居間に入ってきて、僕がリモコンを持ってテレビを付けようとすると、頼子ちゃんはそれをやんわりと断った。
「それよりも今日はやりたいことがあるの」
「なに?」
振り返って僕は後ろに立つ頼子ちゃんを血走ったような目でみつめる。
この少女はいったい何をやらかすつもりなんだろうか。僕は緊張にごくりとつばを飲み込んで彼女の次の言葉を待った。
頼子ちゃんはやんわりとした口調を崩すことなく言った。
「おそうじしたいの」
おそうじって……掃除のことだろうか。僕は彼女の言葉の意味がよく飲み込めなかった。
「おそうじって……なんで、頼子ちゃんがぁおそうじなんくわぁしたいのうお?」
思わず混乱した舌でちぐはぐと返答をしてしまう。頼子ちゃんは居間の真ん中にある木製のテーブルの上にカバンを置くと、構わずマイペースな調子で発言を続けた。
「うん、お兄ちゃんの家って結構汚いでしょ。みーちゃんが住むんだし、もうちょっときれいにしたいなって思ってたの」
「僕は君のお兄ちゃんじゃありませんよ」
「お姉ちゃんのことお姉ちゃんって呼べないから代わりにお兄ちゃんのことお兄ちゃんって呼ぶことに決めたのよ」
「あっそう」
まあ断る理由も無いし、僕は頼子ちゃんにおそうじをまかせることにした。
「みーちゃん寝てるからできるだけ静かにしてね」
「うん、掃除機どこ?」
僕は頼子ちゃんに掃除機の場所を教えてあげると、居間に戻って新聞を読むことにした。今日も特にこれといった事件はないようだ。
廊下から頼子ちゃんが掃除機をかける音がする。左から右へ。そして階段を上っていった。
…………え!?
僕は何かが変だと思った。なんで一階の掃除がそんなに早く終わるわけ? って言うか!
「頼子ちゃん!!?」
僕は思わず新聞を置いて立ち上がった。階段の上から掃除機のうなる音がする。
まさか、みーちゃんが掃除されてるんじゃ!!
馬鹿な想像をしながら僕は階段をかけあがった。昨日といい今日といい、なんでこんなことに。
僕は少しでも頼子ちゃんを信用した自分を恨んだ。
階段を昇り切ったところで掃除機のうなる音がぷつりと切れる。ちくしょう、あの悪魔め!
僕は大急ぎで扉の前に張り付くと勢いよくはねあけた。
「みーちゃん!!」
僕の呼ぶ声にみーちゃんは気持ちよさそうな寝返りで答えた。よかった無事だ。
掃除機を手に頼子ちゃんはベッドで寝ているみーちゃんを黙って見下ろしていた。窓から入ってくる風がカーテンをさらさらとゆらしている。
「頼子ちゃん、どういうつもりなんだよ」
僕は忍び足で頼子ちゃんに近づいていくと、みーちゃんを起こさないように小声で話しかけた。
「うん、みーちゃんのこと見たかったから」
「まったく……」
余計な心配をかけさせないでほしい。それとも僕が心配しすぎなだけか?
「みーちゃんってかわいいよね」
みーちゃんの寝顔を見つめたまま頼子ちゃんがつぶやく。
「うん」
僕も全面的に賛成だった。
「みーちゃんに変なことしないでよね」
「しないよ」
それには全面的に反対だった。それに……
「頼子ちゃん、ちょっと話をしよう」
「え?」
不思議そうに目を丸くする頼子ちゃんの手をつかんで僕たちは一階の居間へと降りていった。
「おそうじまだ途中なんだけど」
「そんなの後でいいから」
しぶる頼子ちゃんをテーブルの前に座らせて、僕は向かい側に腰を降ろした。
この機会にみーちゃんのこと、頼子ちゃんのこと、きっちり白黒付けようと思った。僕はいつまでも頼子ちゃんのことを正体不明の少女のまま放置しておくことに落ち着きのないものを感じていたのだ。
さて……どうしようか…………
僕は頼子ちゃんから横の掃除機、テーブルの上の小さなカバン、壁にかけてある時計へと視線を移した。
この中に間違っている物が一つだけある……わけないか。
「あの」
僕が考えに迷っていると、目の前に座っている頼子ちゃんが口を開いた。
「なんですか頼子君」
僕は古いクイズ番組の司会者のように頼子ちゃんに指を向けて言った。
「お茶入れようか」
「うん、お願い」
頼子ちゃんがとことこと台所へ歩いていく。僕が2、3回深呼吸している間に頼子ちゃんはきゅうすと湯飲みをお盆に乗せてすぐに戻ってきた。
テーブルの上に湯飲みを置いてきゅうすでお茶を注いでいく。僕はその光景を黙って見守っていた。ずいぶんと手慣れた手つきだと思う。
「どうぞ」
頼子ちゃんにどうぞと言われるのも変な物だと思ったけど、僕は彼女の入れてくれたお茶を黙って受け取った。
少し緊張した手で一気に飲み干す。頼子ちゃんは自分で入れたお茶を飲まずにじっと僕の様子を見ている。
僕は思わず罠だと実感した。お茶を吐き出そうとするが遅かった。すでに毒は口中に染み渡り、僕の意識をむしばんでいたんだ。
「く…………ぅ…………!」
僕は手に持った湯飲みを取り落とし、派手な音を立てて床の上に引っ繰り返ってしまった。
かすむ視界の向こうで、頼子ちゃんがびっくりしたような顔でかけよってくるのが見えた。
何かを言っているが僕の耳はもうその声を聞き取れることは出来なかった。
〈やっぱり頼子ちゃんを信用したのは間違いだったんだ……〉
不安と後悔とこの世の物と思えぬ味にさいなまれながら、僕の意識は途絶えたのだった。
数刻後。
「戸棚の中のお茶っ葉使ったでしょ! あれは駄目だって!」
泣きそうな目になりながら僕は流し台で口をゆすいでいた。なんと言う名前か忘れたけど、あれは世界一苦くて健康に良いお茶とやらで、去年の夏おじさんが外国土産に買ってきた物だった。
あの時も大変な目にあったけど、この苦しみをもう一度味わうはめになるなんて。
「ちくしょう!!」
いくら水でゆすいでもこの苦みはなかなか取れやしない。
何が世界一苦いお茶だ、何が健康に良いお茶だ。
僕はせっかくもらった物だからと捨てられなかった過去の自分を恨み、頼子ちゃんを恨み、とりとめのない思考に迷走していた。
「ご、ごめんなさい……知らなかったから……」
後ろで頼子ちゃんが泣きそうな顔をしながらおろおろしている。まったく泣きたいのはこっちだよ。まじでお花畑の向こうに死神が見えちゃったよ。
「いったいどういうつもりなんだよ」
やっと落ち着いてきた僕は改めてテーブル越しに向かいあい、頼子ちゃんを問い詰めた。
「ごめんなさい……」
かわいそうに頼子ちゃんはぽろぽろと涙をこぼしながら泣きじゃくっていた。
「なんで泣くのーーー」
何を考えているのか分からない強気な女の子だと思っていたのに、やっぱり普通の女の子なんだなと思って僕は困惑した。
どうすればいいんだろう。
こんな時、同年代の友達でもいれば相談できるんだろうけど、あいにく今の僕は独り者だった。
「みーみー」
そう思っていると、聞き覚えのある声がして僕は振り返った。
みーちゃんが部屋の入り口のところに立っていた。
「みーみー」
僕はきまずい思いをかみしめたけど、みーちゃんは何が起こっているのか分からないと言ったような顔できょとんと立っているだけだった。
泣いている頼子ちゃん、立っているみーちゃん、この状況をなんとかするのは僕しかいない。
戸惑う気持ちをごまかすためもあっただろう。僕はそんな使命感にとらわれて思い切って声をあげた。
「みーちゃん、頼子ちゃんはみーちゃんと遊びに来たんだよ。昨日のこと覚えてるよね。頼子ちゃんだよ」
「みーみー」
みーちゃんは今気づいたといった感じに嬉しそうに頼子ちゃんの方に歩いていった。
「頼子ちゃん、今日はみーちゃんと遊びに来たんでしょ。楽しく笑ってよ」
「う、うん……」
手でごしごしと涙をふく頼子ちゃん。
「みーみー」
みーちゃんの呼ぶ声に手を下ろして頼子ちゃんは顔をあげた。
みーちゃんは彼女の頬をぺろりと舌でなめると、そのまま頼子ちゃんに抱き着いてじゃれついた。
「みーみー」
「あはは、くすぐったいよ。みーちゃん」
頼子ちゃんは泣き笑いのような微妙な表情を浮かべながらみーちゃんにじゃれかえした。僕は……まさか二人にとびつくわけにもいかないので黙って傍観者の立場にふけっていた。
この二人って……本当に……どういう関係なんだろうか。
みーちゃんは本当に心の底から無邪気に喜んでいる感じだったけど、頼子ちゃんはやっぱりどこか変だと僕は思っていた。
「みーみー」
「みーちゃんどうしたの?」
みーちゃんが声を上げ、頼子ちゃんが不思議そうにたずねる。
じゃれついている途中に何かを見つけたのか、みーちゃんはまっすぐにテーブルの方へと手を伸ばした。
「みーみー」
届かないのか頼子ちゃんから離れてはいよっていく。そこにある物は……
「わたしのカバンが珍しいの?」
みーちゃんの後ろから頼子ちゃんが声をかける。みーちゃんの鼻がクンクンと動いた。
違う。僕は気づいた。みーちゃんが狙っているのは……
「みーちゃん!! それは駄目だよ!!」
僕は慌てて叫んだが間に合わなかった。僕が手を伸ばすよりも早く湯飲みをつかみとったみーちゃんはそれを一気に飲み干してしまった。
頼子ちゃんが入れてまだそのままに置いてあった頼子ちゃんの分のあのお茶を。
「み、みーちゃん???」
事態の危うさに気づいた頼子ちゃんも慌てている。僕もどうしていいか分からなかった。
みーちゃんはもう飲んでしまったんだ。
あのお茶を。
後は運を天にまかせるしか…………あっ!
みーちゃんの手から湯飲みが落ちた。テーブルの上を転がっていって僕の足元にぽとりと落ちた。
僕は……僕は……どうしたらいいんだ?
運命の歯車は今加速度的にその歩みを速めていた。
夢を見ていた。本当か幻想かよく分からない、けれどどこかリアルに感じる夢。
その中で僕は傍観者として立っていた。
静かな部屋の白いベッドの前で二人の少女が泣いている。みーちゃんと……頼子ちゃん……? 今の姿よりも若干幼く見える。
けれど、僕にはよく分からない。なんていうかはっきりしないぼやけた印象。
僕は声をかけようとしたけど、意志に反して体は指一本動かすことは出来なかった。
「お父さんは死んじゃったわ」
不意に視野の外から女性の声が響いた。その人はゆっくり歩いてくると、僕の視界に入り、二人の少女の横で立ち止まった。
「お父さんを助けて!」
子供は涙ながらに訴える。その時になって僕は気づいた。
このベッドで寝ている人は死んでいるんだ。そして、彼女の言葉が示す通りならその人は少女の父親なのだろう。そしてこの人は母親なんだ。
僕はなんとなく意識の底でそう理解をした。
「もう駄目なのよ。死んだ人は帰ってこないわ」
母親は泣きじゃくる娘をあやしもせずに冷たく言い捨てるのだった。
場所は代わる。不意に風が吹きぬけるのを感じ、僕は別の場所に立っている自分に気づく。
そこは小高い草原にあるお墓の前のようだった。青い空の下に景色が淡く浮かび上がって見える。
さっきの少女達が二人で何かの相談をしているようだった。僕にはよく分からなかったけど、その声ははっきりと耳に捕らえることができた。
「お母さんはあれから変になっちゃったわ。毎日暴れてわたしの髪を引っ張ったり、部屋をめちゃくちゃにしたりするの。わたしたちどうしたらいいのかな」
「どうしようもないよ。頼子、いっしょにお父さんのところへ行こうよ」
少女がもう一人の頼子と呼ばれた方の少女の腕をつかむ。彼女はおびえたように後ずさろうとする。
「痛いよ、お姉ちゃん」
「大丈夫、もう何も心配しなくていいから」
「みーみー」
その時、二人の足元に一匹の猫がすりよってきた。姉はつかんだ手をそのままに冷めた目線であわれな小動物を見下ろした。
「何? この猫」
「みーみー」
「邪魔よ。みすぼらしいなりでわたし達に構わないで!」
姉は猫を蹴り飛ばす。頼子は慌てて助け寄ろうとするが姉の手を振り切ることは出来なかった。
「お姉ちゃん! 猫がかわいそうだよ!」
「うるさい! こんな奴の何がかわいそうなのよ! わたしたちなんて……」
「みーみー」
しかし、猫は蹴られた痛みも気にしないように起き上がると、つぶらな声で鳴き続けるのだった。姉の顔に苦汁と悔しさが入り交じったような複雑な表情がよぎる。
「猫のくせにわたしたちの同情を引こうというの! しゃくね……良いわ、構ってやろうじゃない。あんたがくたばるまで面倒見てあげるわ。この糞生意気なバカ猫め!」
姉は吐き捨てるようにそう言うと、やっと妹の手を放して解放してやったのだった。
日は代わり、ミルクを持ってやってくる二人。空は良い天気に晴れている。
「バカ猫! おーい、バカ猫!」
「みーみー」
姉が周囲に向かって呼びかけると、猫は墓の後ろからよろよろと歩み出てきた。姉は不機嫌そうに眉根を寄せて猫を睨みつける。
「まだいたのね、この糞猫」
「お墓に住んでるのかな」
姉の後ろからおどおどといった感じで声を出したのは頼子と呼ばれた少女だ。姉はいたずらっぽい笑みを浮かべて妹の方を振り返る。
「もしかして幽霊かもね」
「お、お姉ちゃん!」
「ふふふ、冗談だって。さあ、猫ちゃん。せっかくミルク持ってきてやったんだから、ちゃんと飲みなさいよね」
皿を差し出されミルクを飲む猫。二人はどこか寂しそうながらも微笑ましくその光景を眺めている。
僕はその時になって始めて、二人は血の通った人間だということに気づいたような気がしたのだった。
どうして今になってそう思ったのかは分からないけど。
「いい度胸してるよね、この猫。ものおじしないというか、せっそうがないというか」
「でも、こんな猫でも精一杯生きている。わたしたちもがんばれるよね」
「そうね」
「ねえ、この猫に名前付けてあげようよ」
「…………バカ猫でいいんじゃないの?」
「駄目だって、名前は……えーと、名前は……」
指を当てて考える少女に姉があきれたようにためいきをつく。
「はあ……あんたにまかせてたら日が暮れるわ。待ってなさい、わたしが世界一かっこいい名前をこの猫に付けてやるから」
「みー」
自分のことが話題にされていることに気づいたのか、猫が皿から顔を上げて一声鳴いた。
「この子にかっこいいのは似合わないと思うよ」
その顔を見て妹は正直な感想をもらすのだった。
季節はめぐる。夏が過ぎて秋、そして冬が近づいてくる。優しい緑に覆われていた景色に淡い紅葉と落ち葉が目立ってきた。
「みーちゃん、みーちゃん」
やってきた少女が呼ぶと、猫はいつものように歩み出てきた。名前はみーちゃんに決まったらしい。
「みーみー」
鳴き声をあげる猫を姉は優しくなでてあげる。
「あんたも頑張るわね。でも、そろそろ寒くなってきたんじゃないの?」
「この子に家を作ってあげようよ」
子供っぽい妹の発言に姉は落ち着いて答えを返す。
「そんな必要ないわよ。みーちゃんはわたしたちの家に連れて帰ればいいわ」
「でも、それだとお母さんに怒られたりしないかなあ」
「今までずっと家のことなんて放っておいた人だもん。今更何も言いやしないわよ」
「そうだね」
「みーみー」
なでられながら猫が気持ちよさそうに鳴き声をあげる。姉は見下ろし、軽く微笑みを浮かべて立ち上がった。
「ついてきなさい。とびっきりの楽園に案内してあげる」
猫はなついているのだろう。きびすを返してさっさと歩いていく姉におとなしくとことことついていった。
「大丈夫かなあ」
妹は心配そうながらも嬉しそうに一人と一匹の後を追っていったのだった。
原っぱを出て街に出る。猫はさわがしい道路が怖いのかちょっとおっかなびっくりといった感じで足を出したりひっこめたりしている。
ぐずる猫を姉は不思議そうに目を見開いて眺め降ろした。
「何やってるの? ここまで来るのは始めてってわけでもあるまいし」
「恐がってるんだよ。みーちゃん、おいで。わたしがだっこしてあげる」
妹の言葉に猫は飛びつくように素直に少女の腕に飛び込んだ。その光景に姉はあきれたように笑みを崩すのだった。
「あははあ。甘えんぼさんね、あんた達は。まったく似た者同士だわ」
「どういう意味よ」
「みーみー」
妹と猫がそろって抗議の声をあげる。それを見て姉はとうとうおなかを押さえて大笑いしたのだった。
「あはははは、いいのいいの。さあ、はぐれないようについておいで甘えんぼさんの子猫さん達」
「もう」
「みーみー」
二人は歩いていく。信号が赤に変わり、交差点の前で立ち止まる。すいている時間帯なのか通り過ぎていく車の数はそれほど多くない。
姉が振り返って一人と一匹に声をかける。
「さあ、お家はもうすぐよ」
「みーみー」
妹とその腕に抱かれている猫は一緒に楽しそうにじゃれあっていて聞いちゃいなかった。姉は仲間外れにされた疎外感に眉を潜めて手を突き出した。
「頼子、みーちゃんをわたしによこしなさい」
「やだよ、みーちゃん暖かいもん」
しぶる妹に姉はさらに歩み寄って手を出してきた。
「むー、ならなおさら寄越しなさい!」
無理に取り上げようとする姉。渡すまいとする妹。苦しみから逃れようとするように猫は身をよじり二人の腕の透き間から飛び出した。
着地したのは横断歩道の中央当たり。
「ああっ! この馬鹿猫! 横断歩道を赤信号で飛び出す奴があるか!」
いくら交通量が少ないと言っても礼儀知らずにもほどがある。信号というのは守らなければいけないものなのだ。
妹を突き飛ばし、姉はすぐに猫を拾いに走る。猫に気持ちが集中していて回りが見えていなかったんだと思う。
「お姉ちゃん!!」
耳に頼子ちゃんの叫びとブレーキ音が聞こえた時は遅かった。姉の体は車に跳ねられ、赤い雑巾か何かのように宙を転がって道路の上に倒れ伏した。
「お姉ちゃん! しっかりして! みーちゃん!」
歩道の端ぎりぎりから近づくことも出来ず、頼子ちゃんが身を切るような叫び声をあげる。
「よ……り……こ……」
路上で倒れたまま春子ちゃんが小さく目を開け、息を吐く。
「お姉ちゃん!!」
「まったく、馬鹿な子ね……いやにな…………」
「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」
彼女の叫びを聞きながら、僕の意識は暗い闇の中へと沈んでいった。
その間に僕は知ることになった。
姉はなんとか命を取り留めたけど、みーちゃんは死んでしまったんだ。かわいい猫なのにかわいそうだと思う。
「みーちゃんは?」
病院のベッドで目を覚まして春子ちゃんは最初にそう聞いた。頼子ちゃんは言いにくそうに口をつぐんだけど、結局正直に答えることに決めたようだ。
「死んじゃった」
「そう……」
そのまま二人そろって押し黙ってしまう。無言の間に僕は何故か息が苦しくなってくる。
やがて、頼子ちゃんが口を開いたことで僕の緊張はほぐされた。
「お姉ちゃんは死なないでね。わたしを一人にしないでね」
「……頼子、お母さんはどうしてる?」
「別に。いつも通りだよ」
娘が入院しているのに来ないのをいつも通りというのだろうか。僕は意識の片隅でそう思う。
春子ちゃんはおかしそうに苦しそうに笑みを浮かべながら言った。
「変な顔しないの頼子。わたしも、みーちゃんも、そばにいるから……」
「え?」
不思議そうに声をあげる頼子ちゃんから目をそらし、春子ちゃんは静かに白い天井を見上げた。
「感じることがあるの。わたしの中にあいつがいるってこと。あいつ、元気よね。元気で生意気だわ……」
姉はそう言うとゆっくりと目を閉じた。僕はそれで彼女は眠ったのだと思った。でも、そうではなかったようだ。
「みーみー」
僕は最初そのつぶやきが誰のものか分からなかった。でも、やがて理解した。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
「…………」
春子ちゃんはそれっきり喋れなくなってしまったんだ。
時は移る。今週が終わり数週間の後へと飛んでいく。
「おはよう、お姉ちゃん。元気してる?」
手に袋を持って病室へとやってきたのは頼子ちゃんだ。部屋の患者であるみーちゃんは黙ってベッドに腰掛けたまま外を見ている。その様子を見て頼子ちゃんは声をかけた。
「お姉ちゃん、外に出たいの?」
「みーみー」
妹の声にみーちゃんが振り返って声を出す。頼子ちゃんは困ったように眉を潜めたけどすぐに笑顔を取り繕ってみーちゃんのそばまで歩いてきた。
「もうすぐ退院できるって、お医者さんが言ってたよ」
「みーみー」
みーちゃんは分かっているのかいないのか、ただ真顔で声を出す。そんな彼女の様子に頼子ちゃんは戸惑いを隠せないでいる。
「……お姉ちゃん、変だよ。みーちゃんみたい」
「みーみー」
困惑気味な頼子ちゃんの言葉に、みーちゃんが不機嫌に顔をしかめる。失敗を悟った彼女は慌てて弁解に回った。
「ごめん、お姉ちゃん。わたし、変なこと言ってるよね。気にしないで。……リンゴむいてあげるね」
気を落ち着けようと椅子に腰掛けた彼女が、器用な手つきでナイフを動かしてリンゴの皮をむきはじめる。
みーちゃんはしばらく珍しそうに眺めていたけど、すぐに興味を失ったように窓の外に視線を戻してしまった。そのままじっと外を眺めている。
窓の外にはよく晴れた昼の天気にいつもの日常の景色が広がっている。彼女は彼女なりに思うところがあるのだろうか。僕が待っていると、
「お姉ちゃん、リンゴむけたよ」
しばらくして、リンゴを切り終わった頼子ちゃんがお皿を持ちあげながらお姉ちゃんに声をかけた。
きれいにむきおわって食べやすい大きさに切りそろえられたそれらのリンゴをみーちゃんは奇妙な物でも見るような目付きで眺める。
「リンゴだよ。食べるとおいしいの。ほら」
頼子ちゃんが一つをつかんでかじって見せる。みーちゃんは渋っているように手をさまよわせながらもふっと一つをつかみ、同じようにかじってみた。
何かの新発見でもしたように、みーちゃんの顔に笑顔と刺激があふれていく。
「みーみー」
それは喜びの声。それからは夢中でみーちゃんはリンゴをたくさん食べていった。
日は流れる。みーちゃんと頼子ちゃんの関係は特に何の変転もすることなくのどかな日常が続いていく。
しかし、周囲の状況は確実に彼女達の生活に変化を促してくるのだ。
事故で負った傷が癒え、みーちゃんの退院の日が近づいてきた。
だが、今のみーちゃんは日常の生活を送るに支障のない体調になったとは言え、精神的にはあやふやな物だと僕は思う。何故なら彼女はあの日からみーみーとしか喋っていなかったのだから。
しばらく様子を見てもいいという医者の薦めもあったが、頼子ちゃんはみーちゃんを日常の生活に戻してあげることが彼女の癒しのためになると思っていたようだ。
あのリンゴを食べた日から二週間ほどが過ぎた。退院の日も近づいてくる。
頼子ちゃんはその日も笑顔で病室にやってきた。
「お姉ちゃん、明日にはいよいよ退院できるよ。外で遊べるんだよ。良かったね」
いつもよりさらに一段とはしゃぐしぐさを見せる頼子ちゃんに対し、ベッドで腰掛けたまま振り向いたみーちゃんの反応はいつもの落ち着いた物だ。
「みーみー」
「もう」
鈍感とも脳天気とも思える姉の気を勇めようと、頼子ちゃんは勢いよくみーちゃんの手を取って握った。力強い目で見つめ訴える。
「お姉ちゃん、もうすぐ外へ出るんだからいつまでもみーみーじゃ変だよ。お医者さんはあの事故でショックを受けているんだろうからしばらく様子を見ようと言ってくれたけど、わたしは早くお姉ちゃんと一緒に帰りたいんだよ。でも、今のままのお姉ちゃんじゃ家に連れていきたくはないな」
「みーみー」
穏やかながらも語気強く言いたてる頼子ちゃんの言葉も、みーちゃんにはあまり伝わっていないようだ。ただ喜びととまどいの入り交じった困惑の表情で頼子ちゃんの目を見つめ返している。
おびえる彼女を逃がすまいと、頼子ちゃんはみーちゃんの手を握っている力をさらに強めて言った。
「いい加減にしてよ、お姉ちゃん。もうみーちゃんはいないんだよ。いつまでも逃げちゃ駄目だよ!」
「みーみー!」
みーちゃんが拒絶の意志に拒否の反応を示す。頼子ちゃんは引き下がらなかった。
「駄目だって言ってるでしょ! お姉ちゃんはお姉ちゃんなんだよ! みーちゃんが死んだのは悲しいけど、それはお姉ちゃんのせいじゃないんだから! あんな猫のことは忘れてわたしといっしょにいて!」
それは頼子ちゃんの強い願いなのだろう。
しかし、彼女の必死の言葉もみーちゃんは聞く耳を持たなかった。恐怖から逃れようとするかのように勢いよく手を振りほどいたみーちゃんは、そのままベッドの中にもぐりこんでしまったんだ。
「お姉ちゃん……」
気落ちに肩を落とす頼子ちゃんが力なくつぶやく。
「ごめんね、また来るから。明日はいっしょに手をつないで帰ろうよね」
ベッドにもぐりこんでうずくまるみーちゃんを置いて、頼子ちゃんは静かに病室を出ていった。
明日はみーちゃんといっしょに家へ帰る日。そこからどのような日常が始まるのだろう。
僕が分かっているのは、僕は彼女と出会うことになり、彼女は行方をくらました姉の姿を求めてさまようことになるということだ。
そう、僕たちの願いはかなえられることは無いんだ……
次の日、頼子ちゃんに退院の準備を整えられ、外へと出ていくみーちゃんと頼子ちゃん。昼下がりの道を二人で歩いていく。
つながれた手と手。頼子ちゃんははにかんだ笑顔で、横を歩く姉に声をかける。
「お姉ちゃん、やっと一緒にいられるね。今日は一緒に遊んで一緒にご飯食べて一緒にお風呂入って一緒に寝ようね」
それが頼子ちゃんのかつてからの夢だったのだろう。彼女は寂しかったんだ。僕はずっと気づいていたはずのことを今更ながらに思い出す。
「みーみー」
「お姉ちゃん、もう駄目だよ。もうみーちゃんはいないんだから、しゃきっとしてよね」
「みーみー」
にえきらない彼女の反応に、頼子ちゃんの表情が険しくなっていく。また昨日と同じだ……
〈駄目だよ頼子ちゃん。ずっといっしょにいたいんだろう……?〉
僕の声は届くことはない。状況は続いていく。彼女達を止めることは……僕には出来ないんだ。
「いい加減にしてよ! どうしてちゃんと喋ってくれないの!」
「みーみー!」
「やだよ、ちゃんと喋ってくれないと離さないから!」
強引にでも腕を引っ張って力強く訴える頼子ちゃん。何が何でも引き下がらない真剣な眼差しに、みーちゃんは嫌悪の表情を浮かべる。
「みーみー」
「いい加減にしてって言ってるでしょ! そんなことだから……あっ!」
みーちゃんの手は素早かった。彼女は一瞬の隙をついて頼子ちゃんの腕を振り切るとそのままきびすを返して一目散に走りだした。
「待って、お姉ちゃん!」
頼子ちゃんは慌てて追いかけるが、逃げるみーちゃんをつかまえることは出来なかったんだ。
日は巡る。数日が過ぎたその日はあの日から打って変わった曇り空。いまにも雨が降りそうな重い空の下を、一人の少女が歩いてくる。
「お姉ちゃん……どこに行っちゃったの……?」
頼子ちゃんは見晴らしのいい広場の崖際の手摺りにもたれかかると、目前に広がる街並みに目を向けた。
街が一望に見渡せる雄大な景色が広がるその場所を僕は知っている。
『風見ヶ丘……』
〈みーちゃんといっしょに来るはずだった場所。幸せの始まるはずだった場所〉
「こんな場所から……見えるわけないか……」
《虚無と空想、夢と現実が交わるに最も近き丘……》
[天使が降り、光もまた来る……イルヴァーナの支配領域への接点がつむがれる……]
{魂が行き交う……運ぶ者、死神。守る者、人間。食らう者、ソウルイーター。巨神竜は世界を創造する。電界の女王の意志のままに……}
『だけど、そんなことは…………僕には関係ない』
「お姉ちゃん……」
みーちゃんとの生活を守ること、頼子ちゃんとの生活も守ること、大切な人達といっしょにいつまでも大切な時を過ごすこと。それが僕にとっての一番大切なことなのだから。
僕の願いは最初から決まっているんだ。だけど……いや……あるはずだ……きっとある……できること……だって、僕達の思いはこんなにも苦しく高まっているのだから……
一筋の閃光が走る。周囲を轟かす轟音を伴って辺りに満ちる。雷と雷鳴。電子の響き。
純白に染まる景色の中で、僕は宙を舞う少女の影と、その背に広がる金色の翼を見たような気がした。一瞬の光景。だけど長く思える時間。
少女の声が僕に届く。だけど、その相手は僕ではない。誰か、遠くに在る存在。
「あなたは天使なのですか? 悪魔なのですか? …………願いをかなえてくれるなら誰でもいい。わたしはもう……強くはなれない…………」
それっきり僕の視界は闇へと包まれた。光が去ったその変転に僕は戸惑う。
光が彼女を連れ去ってしまった。その事実を僕は忘れることにする。
「嘘でも偽りでも間違いでもなんだっていい。彼女達といっしょにいられることが僕達の全てなのだから……」
その言葉に偽りはないのだから。
『本当にそれでいいのですか?』
優しい声が僕を暖かく迎えてくれる。闇から守ってくれている。
「シンシアさん……僕はもう……決めたんです……」
白い翼がはばたく。僕を遥かな高みへと連れていってくれる。眼下に闇が遠ざかっていく。闇の外には光がある。あの場所は……
『あなたは知らない方が良い所です』
「そうですね」
僕は帰っていく。自分の世界へ。本来あるべき場所へ。彼女達の待つ我が家へと……
光があふれている。風が吹いている。窓は……開けたままでいる方が良いかもしれない。
立ち上がった僕は大きく背伸びをする。長い停滞の時間を解きほぐすように。不思議と意識ははっきりと覚醒していた。
〈僕達は前進するんだ。たとえゆっくりでもいい。少しずつ、少しずつ。大切なことはいっしょにいるということ。僕はあきらめない。いつか本当の笑顔に出会えることを〉
ふと、部屋の隅を見ると何か白い小さな物がふわふわと床上を舞っているのが見えた。僕はそれを手にとって見る。
――1枚の純白の羽根――
僕の脳裏に最後に別れた少女の言葉が蘇る。
『つらい時はいつでも頼ってください。一年に一回だけのことですけどね。それを持って風見ヶ丘へ来てくれれば、わたしはいつでもあなたの助けとなりましょう』
ありがとう、シンシアさん。だけど、僕は自分の力で頑張ってみると決めたから。
僕はその羽根を静かに机の引き出しへとしまい込む。
「お兄ちゃん!! みーちゃん!! 朝ご飯できたよー!!」
そのタイミングに合わせるかのように、階下からフライパンを叩きながらの頼子ちゃんの呼ぶ声がした。
そう言えば、彼女にはまた料理を作ってもらっていたんだっけ。鍋の時みたいにまた待たせるわけにはいかないな。怒られるのもあやまるのもいやだし。
僕はおかしさをかみ殺しながら、みーちゃんを起こしにいくことにする。
よく寝る彼女のことだから、きっとまだ寝ていることだろう。
「みーちゃん、起きて」
「……」
「みーちゃん」
「…………」
「みーみー、だよ」
「…………?」
「みーみー」
「……みー、……みー……」
「みーみー」
「……みーみー」
「みーみー」
「みーみー!」
僕達は歩いていく。
終わり。
みーちゃんといっしょ けろよん @keroyon
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