第10話

 二番街、ホールデン通り、酒場『コアスタ』店内のカウンターにて。

 まだ生木の匂いが強く残る店内で、俺はただひたすらにモラヴィア産ワインを舐めていた。

 他に客の姿はない。まだ新しく、人に知られていないからというのも無いわけではないが、そうではない。

 俺が借り切ったのだ。小さい店だし、「光の家教会」の案件ででかい収入もあったばかりだから、さして懐は痛まない。

 集まりの主催者ホストたるもの、先に店に入って場を整えておかねばならないのだ。

 ふっとため息をつきながらゴフレットの中身を喉に流し込むと、『コアスタ』入り口のライトブルーの扉が開かれ、ドアベルが鳴る音がする。


「……来たか」

「いらっしゃいませ」


 店内に入ってきたのはグリゴリーとアリョーナ、そして一級エージェントのエメリヤン・コサリコフだ。

 三人とも、先の「光の家教会」の案件で新聞に名前が載るほどの活躍を上げた、アニシン領エージェント協会所属のエージェントである。エメリヤンは特に、グリゴリーと一緒になってクヴィテラシヴィリ伯爵家に乗り込んだから、新聞での扱いも大きかった。


「よう」

「お待たせ、ルスラーン」

「お招き、ありがとうございます」


 短く言ってジャケットを脱ぐグリゴリーと、彼の後ろから朗らかな笑みを向けてくるアリョーナとエメリヤン。今日はこの四人で、仕事を抜きに一緒に飲む形だ。


「なんだ、三人とも一緒に来たのか」

「ちょうど、そこの角でグリゴリーと行き会ったの」

「僕とアリョーナさんは、先に二番街の入り口で待ち合わせてから来ました」


 俺が笑顔を返しながら口を開けば、アリョーナとエメリヤンがにこやかに答える。対して、グリゴリーはずっと難しそうな、複雑そうな表情で立っていた。

 いつも明るい彼にしては珍しい話だが、まあ、こればかりはしょうがないというやつだ。俺の隣の椅子に手をかける。


「よし分かった。とりあえず座るといい……マメダリエフ」

「はい、あれですね」


 リュシアンに声をかければ、事前に伝えていた通りに彼が動き出す。新しいゴフレットを三つ取り出し、そこに冷蔵庫から取り出した白ワインを注いでいく。

 俺が先程まで、テイスティングついでに舐めていたワインだ。白い花のニュアンスがあるこのワインを、今日の一杯目と決めていた。


「『デシイェツ』フュトスカ・アルパです。ルスラーンさんのゴフレットにも注ぎますね」

「ああ、頼む」


 俺の両脇に座る三人にゴフレットを差し出したリュシアンが、俺の前に置かれた空のゴフレットにも手を付ける。席配置は扉側からエメリヤン、グリゴリー、俺、アリョーナと言った具合だ。

 そうしてワインのおかわりを注がれたのを確認して、俺はそれの脚を手先で摘まみ上げた。


「入ったか? それじゃあ行くぞ」


 目配せすれば、三人もゴフレットを手に持って。それを見てから、俺は静かに手の中のゴフレットを持ち上げた。


「『光の家教会』案件の解決の祝いと、グリゴリー・クヴィテラシヴィリの明日のために……乾杯!」

「「乾杯!」」


 俺の発声に合わせて、アリョーナとエメリヤンが高らかにゴフレットを掲げた。グリゴリーも無言ながら、ついと手の中のそれを掲げてみせる。

 今回の飲み会の目的は単純明快、グリゴリーをなぐさめるためのものだ。

 その後の調査の結果、クヴィテラシヴィリ伯爵家は屋敷の地下倉庫に保有していた麻薬を、市内の各所で高値で売りさばいていたことが判明。伯爵家の人間とその関係者は厳罰に処され、つい先日に伯爵位の剥奪はくだつ、お家の取り潰しが決まったのだ。

 当主だったゲンナジー・クヴィテラシヴィリの次男であるグリゴリーも関係者ではあるし、そのファミリーネームを名乗ってはいるが、数十年も前に伯爵家を出奔していること、今回の事件で逆にエージェントとして家の悪事を明るみに出したことが考慮され、何の処罰も受けずに済んで、今ここにいるのである。

 とはいえ実家の人間が大犯罪人になり、実家が無くなったことは間違いない。ハモン通りの伯爵家の建物も取り壊しが決まっている。もう、彼の寄る辺は殆どない。

 だから今回の事件に関わったエージェントで、アニシン領のエージェント協会に属し、俺が信頼できる人間を呼んで、こうして飲み会を企画きかくしたのだ。

 アリョーナもエメリヤンもそのことは分かっている。だから努めて明るい表情で、ワインに舌鼓を打っていた。


「はーっ……美味しいー」

「モラヴィア産のワインはあまり飲んでこなかったですが、これはいいですね」

「ああ……いい酒だ」


 深くため息を吐くアリョーナに、にこにこ顔でゴフレットに口をつけるエメリヤン。グリゴリーはというと、まだ難しい顔をしているが、口元は幾分か和らいでいた。

 リュシアンの選んだ酒を気に入ってもらえたことが少し嬉しくて、俺は隣に座るグリゴリーの肩を、そっと叩く。


「具合がいいだろう。この店は基本的にモラヴィアのワインしか置いてないからな、存分に味わって、嫌なことは洗い流していってくれ」

「今回は飲み放題で伺っていますので、お気軽にお申し付けくださいね」


 これまでだったらなかなか出来なかったことをしながら、隣に座る友人に笑いかける俺。それを見て同じく笑いながら、リュシアンもグリゴリーに声をかける。

 今日はリュシアンに話を通して、財布を気にせずしこたま飲めるように、飲み放題で場をセッティングした。『デシイェツ』の赤と白、『ルプ・アルブ』の赤と白、『ソック』の赤と白、スパークリングワインの『ダニエラ』が飲み放題だ。もちろん、いずれもモラヴィアのワインである。

 どの瓶も一本3,000セレー前後の安めのワインとはいえ、飲み放題となれば出方も変わってくる。ましてや四人での貸し切り状態だ。

 グリゴリーから取る金は最低限にするつもりだから、俺の懐からは優に30,000セレーは出て行っている。が、これも先日に大きな収入があったからこそ、出来たことだ。


「思い切ったわねー、ルスラーン。店を借り切って、さらに飲み放題だなんて」

「そこまでしてくれなくてもよかったんだぞ、いくら俺のためのパーティーだとしたって」


 アリョーナがゴフレットに口をつけつつ横目で笑えば、グリゴリーがふっと息を吐きながら俺のわき腹をひじでつついてくる。

 確かに、並みの相手ならここまでする必要はなかっただろう。しかし今回一緒に飲んでいるのは、元貴族で、特級エージェントの、あのグリゴリー・クヴィテラシヴィリ。並みの相手なわけがない。


「お前のためのパーティーだからここまでしたんだろうが。これまでにお前がどれだけの回数、俺に酒を飲ませてくれたと思っている」

「本当ですよね。グリゴリーさん、何かあるたびに僕やルスラーンさんを誘って、色んなお酒に触れさせてくれましたから」


 呆れたような俺の言葉に同調して、エメリヤンも口を開く。彼も俺同様、グリゴリーと親しくしては、いろんな機会に酒席を共にしてきた。彼との付き合いの中でいろいろといい思いをしてきた人物である。俺と同様に。

 グリゴリー自身も、そのことはよくよく分かっている。だから、額を掻きながら眉間にしわを寄せた。


「そりゃ、そうだけどな……今後もこれまでと同じように、好き放題に飲めると思われたら俺だって困るぞ? もう既に何社か、スポンサー契約を切られてるんだ」


 そう話しながら、ゴフレットをぐいと呷る彼だ。

 特級エージェントともなると、国内外のいろんな企業がスポンサーに付いて、コマーシャルメッセージに出演する代わりに新商品を送ったり、エージェントとしての活動資金を援助したりなど、多大な支援を多方面から受けている。

 しかしそれは、そのエージェントとの信頼関係があってこそ。今回のように身内が不祥事や事件をやらかした結果、スポンサーから離れるということは、よくよくあることだ。

 そんな話をしょっちゅう聞いてきた俺が、カウンターに肘をつきながら頷く。


「だろうな。爵位を剥奪され、一家が揃って投獄とうごく、主犯のリリアは処刑されたクヴィテラシヴィリ家だ。その悪事を暴く側に回ったとはいえ、お前について回る悪印象は拭えない」

「事件とは全く無関係どころか、クヴィテラシヴィリの名を名乗ってすらいないエゴール君すらも、新聞記者に追いかけ回されているもんねぇ」


 アリョーナも涼しい顔でワインを飲みながら、とある知り合いのエージェントの顔を思い出して苦笑を零していた。

 麻薬密売事件の主犯であり、当主夫人のリリア・クヴィテラシヴィリは銃殺刑。当主のゲンナジーとその息子のヴコール、つまりグリゴリーの兄は終身刑で投獄されている。

 屋敷の使用人も殆どが終身刑かアニシン領からの追放刑。リリアの孫にあたるヴコールの子供たちも、ヤノフスキー市内からの追放刑に処されているからものすごい。

 リリアの子や孫のうち、シュクロフスキー家に嫁いだマリア・シュクロフスカヤとその息子のエゴールは、クヴィテラシヴィリ家の一員ではないために何の咎めも受けていないが、母親と一緒に新聞記者に追われる日々を過ごしているそうだ。エゴールはアニシン領のエージェント協会に所属する三級エージェントだから、情報は俺の耳にも入ってきている。

 自分の縁者が揃って何かしらの罰を受けている現状に、グリゴリーは深く深くため息をついていた。


「そうなんだよな……クヴィテラシヴィリを名乗っていない姉貴と姉貴の息子にまで新聞屋が付いて回っている以上、それを名乗る俺に何の面倒もない、なんてことはあり得ない。俺には妻も子供もいないし、新聞屋の相手は慣れているから、まだいいけどよ」


 そうぼやきながら、リュシアンに『ソック』チャルドネを注文するグリゴリーだ。ついでに、と俺とアリョーナの手も上がる。

 彼自身、あんな事件が起こって自分がなんの損も被らない、なんてことがないことくらい、よく分かっているのだ。独身貴族を謳歌おうかしているから、自分以外の人間に迷惑がかからないというだけであって。

 もし、彼に妻がいて、子供がいたとしたら、そうした人達がトラブルに巻き込まれる可能性は、マリアやエゴールのそれより何倍も高いだろう。

 その話を神妙な面持ちで聞きながら、しかし彼が話し終えて『ソック』に口をつけ始めるのを待って、俺はゴフレットを手に取りながら口を開いた。


「まあ、な。だがお前は罪を被るどころか、罪を暴く側にいるんだ。クヴィテラシヴィリの家名が地に落ちたとはいえ、お前を応援してくれるスポンサーは、まだいるんだろう?」

「そうですよ。セイツ社とか、ポミドルカンパニーとか、大口のスポンサーはいっぱい残っているじゃないですか」


 エメリヤンも頷いて、『ルプ・アルブ』カダルガに口をつけつつ言った。

 実際、グリゴリーの支援をするスポンサーのうち、彼から離れていった会社は半分にも満たない。印刷会社大手のセイツ社や、ウォッカ製造でルージア連邦を支えているポミドルカンパニーなど、大口のスポンサーは揃って彼の支援を継続している。

 だから、スポンサーがいくらか離れたとして、彼自身のエージェント活動に、そこまで影響が出ることは、無いはずなのだ。


「まあな……」

「ほらー、じゃあその残ってくれたスポンサーを大事にすればいいじゃない、グリゴリー。家族のことを悔やんでもしょうがないんだし」


 なおも難しい表情をしてゴフレットの中のワインを呷るグリゴリーに、これまたワインをすいっと飲み終えたアリョーナが朗らかに声をかけた。この二人、ペースが随分早くないだろうか。あとでぶっ倒れても知らないぞ、と釘を刺さねばなるまい。

 と、これまで以上に深いしわを眉間に刻んで、グリゴリーがアリョーナに鋭い視線を突き刺した。


「アリョーナ、簡単に言ってくれるなよ。今までとは違うんだ。俺はもう『貴族の地位を捨てた男』じゃない、『大犯罪者の息子』なんだぞ。例えクヴィテラシヴィリの家名を捨てたって、この立場をどうにかできるわけもない」


 その突き放すような辛辣な物言いに、その場にいる全員が押し黙る。

 しかし数分も経たずに、アリョーナがしれっとその沈黙を破りにかかった。


「まあね。それはそうだわ。でも、それで貴方のエージェントとしての経歴に、きずがつくわけじゃないでしょう?」


 涼しげな表情をして何でもないことのように話すアリョーナ。その言葉に、グリゴリーが目を見張った。

 彼女の言うとおりだ。クヴィテラシヴィリ伯爵家の関係者としては株を落とした彼だが、エージェントとしては逆に株を上げているのだ。経歴に瑕がついたどころの話じゃない。


「ゴンチャロワの言うとおりだ。お前の名前と家名には小さくない瑕がついたが、お前の経歴に瑕がついたわけじゃない。むしろ箔がついたというものだ」

「そうですよ、グリゴリーさん。だって、今回の案件で領のエージェント協会から表彰を受けたじゃないですか」


 これ幸いと、畳みかけるように励ましにかかる俺とエメリヤンだ。

 三人からいっぺんに賞賛と慰めの言葉を受けて、いよいよグリゴリーは感極まった様子。目の端がじわりと潤んでいた。


「お前ら……」

「気にするな、とまでは言わないがな、クヴィテラシヴィリ。少なくとも俺達は、お前の両親がどこまで屑だろうと、ちっとも気にしないぞ」

「そうそう」

「そうですよ」


 ダメ押しとばかりに、俺が一言二言言葉を投げれば、アリョーナもエメリヤンもにこやかに頷いて。

 それに対して、ようやく晴れやかな笑顔を浮かべながら、貴族でも何でもなくなった、ただの特級エージェントたるこの男は、手の甲で目を拭った。

 そのまま、再び潤み始めた目を、俺へと向けてくる。


「ルスラーン」

「なんだ」


 笑顔で短く声をかける友人に、笑顔を以て返すと。

 グリゴリーは親指を立てて、くいとカウンターに並ぶワインの瓶を指さした。


「今日は飲み放題だと、そう言ったな?」

「確かに言った。銘柄はここに並べられたやつから選ぶ形だが」


 彼の問いかけに俺が頷くと、グリゴリーは俺から視線を外してカウンターの中にいるリュシアンに目を向けた。その瞳に悲しみの色は、もう無い。


「よしリュシアン、この店で一番高いワインを瓶で持ってこい! 追加分の金は俺が払う!」

「えっ、い、いいんですか!?」


 突然の予想だにしない言葉に、リュシアンはものすごく狼狽していた。

 飲み放題にないワインを飲ませろ、なんて話は予想していたが、中でも一番高いものをボトルで出せ、とは。思い切ったものである。

 店に入ってから初めて聞いた、グリゴリーの覇気のある物言いに笑みを浮かべながら、俺も戸惑うリュシアンに声をかける。


「こう言っているんだ、気にせずやってくれ。確か『マグダレーナ』があったはずだな?」

「えっ、モラヴィア王室御用達ごようたしだったっていう、あれ!?」

「すごい、一本で30,000セレーはするやつじゃないですか!?」


 俺がワインの名前を上げれば、カーラ海の周辺地域では誰もが知っている有名ワインの名前にアリョーナとエメリヤンが驚いて。

 リュシアンが言われるがままに『マグダレーナ』マルサイランのボトルを持ってきて、カウンターの上に置くのを、俺達四人は輝かしい眼差しで見るのだった。

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