第9話
一番街コリヤダ通りの名店『シルバニ』の内扉が今日も開く。
そうしていつものように店内に足を踏み入れ、ジャケットの裾を整える俺に、顔なじみの熊獣人のウェイトレスが歩み寄って声をかけた。
「いらっしゃいませ。あらルスラーンさん、今日も一人?」
「ああ、今日もよろしく頼む」
このやりとりも、いつものこと。
そうしてこれまたいつものようにカウンター席に向かえば、道中のテーブル席で楽しくやっていたアレクセイ・プリュシュチェンコとイサーク・レチキンが、俺を見つけて嬉々として声をかけてくる。
「よーう、夜鷹殿!」
「やあルスラーンさん、今回も見事な仕事っぷりだなぁ」
「なんだなんだ、そっちは随分とご機嫌だな」
既にだいぶ酒が回った様子の二人は、声も大きい。からりと笑って手を上げれば、狼の頭をしたアレクセイが手元にあった
「知らないわけじゃないんだろう、今日の号外!」
「あぁ……それか」
アレクセイの手に握られているのは、今日の午後に市内全域に配布された、ルージア連邦でも最大手の新聞社「オチェット社」の発行する号外だ。
今日は号外が発行されて配布されるほどに、『
その事件の関係者に思いを馳せながら、俺は小さく息を吐いた。
「俺を褒められてもな。やり遂げたエージェント達にそれを言ってくれ」
「はっはっは」
「分かってるよ」
物憂げな俺に対し、アレクセイもイサークも大声で笑って返す。そんな二人にもう一度笑みを返して、俺はカウンターに肘をついた。その向こうではいつものように、エフゲニーがゴフレットを磨いている。
「よう、サヴォシン」
「いらっしゃい、ルスラーン」
短く挨拶を交わし合ってから、俺はカウンターチェアの一つを引いて腰を下ろした。ちらりと壁の黒板に目を向ければ、今日に店に並ぶワインが赤白とずらり。やはり変わらず、ここは品揃えがいい。
「まずは何にする?」
「そうだな……『ファイアストーン』チャルドネを」
アマリヤン連合国の銘酒を選べば、すぐにエフゲニーの手がガラスのボトルを取る。冷蔵庫から取り出したばかりのそれを開栓してゴフレットに120ミリ。その手つきには淀みが無い、まさしくプロフェッショナルの仕事だ。
「ほい、お待たせ」
「ありがとう」
コースターと共に出されたゴフレットを受け取って、俺はうっすらと口の端に笑みを浮かべた。口をつければ、ひんやりとしたゴフレットの冷たさと共に、チャルドネ種由来の甘さと爽やかさが鼻に抜ける。今日みたいな日にはちょうどいい。
静かに酒杯を傾ける俺に、エフゲニーがにんまりと笑みを向けてきた。
「相変わらずの見事な仕事ぶりじゃないか。まさかチェルニャンスキー侯爵家が、真っ先に陥落とはな」
「やめてくれ、お前まで。俺は然るべき情報を提供しただけに過ぎない。それも、エージェント協会の査読が入った情報をだぞ」
彼が話題に上げたのは、先の二人と同様、今日に市内に大々的に配布された号外についてだ。
曰く、「チェルニャンスキー侯爵家の次期当主、『光の家教会』への収賄容疑で逮捕」。先日からヤノフスキー市内を大いに騒がせていた、一番街の「光の家教会」の不正に関わる第一報だ。
現当主イワンの長男、ゲラーシー・チェルニャンスキーが「光の家教会」の運営者の女性に、多額の現金を支援して市内での便宜を図り、同時に脱税していた疑いがあることがエージェントの捜査によって発覚、逮捕されたのである。
確かに、チェルニャンスキー侯爵家のネタを暴くきっかけの一つになったのは、俺の提供した情報だ。
しかし、俺以外にも侯爵家に関わる情報を掴んでいた情報屋がいなかったわけではない。エージェント協会が多方面から集め、査読した情報を仲介しただけだ。
「それに、プリュシュチェンコとレチキンにも話した通りだ。俺がすごいんじゃない、俺が情報を売って、仕事をやり遂げたエージェントがすごいんだ」
ゴフレットに口をつけながら、俺は僅かに目を伏せた。
俺達情報屋は、エージェントとエージェント協会にとって欠かせない存在ではあるものの、
俺が情報屋として市内で知られ、尊敬の念を持って接されるのは、あくまでも俺の暴く情報の正確さと、その情報から芋づる式に繋がる金の匂いがあるが故。こういう大きな案件では特に、エージェント協会で情報が取りまとめられるがために、俺の長所は表に出てこないものだ。
だから、俺自身がこういう折に「すごい」だの「さすが」だのと言われるのは、どうにも収まりが悪いのだ。
謙遜する俺に対し、ある意味で仕事仲間として付き合いの多いエフゲニーが、手元のゴフレットに視線を落としたままで口を開く。
「まあな、お前の言いたいことも分かる。エージェント連中は表立って働き、目に見える成果を上げる。賞賛を受けるのも基本的には彼らだろう」
洗い終わったゴフレットを棚にしまうと、彼が取り出したのは金属製の大きな缶だ。そこから長方形の薄いクッキーを何枚か取り出し、小皿に乗せて俺に差し出してくる。ルージア連邦で広く食べられている「ゴドヴシュキノエ」というブランドのクッキーだ。
「だが、そのエージェントが仕事をこなせるように取り計らい、下地を整えるのがお前達、情報屋だ。エージェントがどれだけ迅速に結果を出せるかは、お前達の提供する情報にかかっている」
俺がそれを見て首をかしげると、エフゲニーは小皿を俺の前にコトリと置いた。
そうして缶をしまい、カウンターの中で彼の仕事をしながらも、彼の口は止まらない。止まらずに、俺の仕事への称賛を投げてくる。
シンクの中の最後のゴフレットを拭き終えて、棚にしまうと、エフゲニーはおもむろにカウンターに肘をついた。
「今回、チェルニャンスキー侯爵家から真っ先にボロが出たのは、間違いなくお前の情報のおかげだよ、ルスラーン」
はっきりと俺を称える言葉を告げて、エフゲニーはにっこりと笑った。
その言葉に一瞬だが、目を見張る俺だ。エフゲニー・サヴォシンが俺を褒め称える言葉を面と向かって発するなど。明日は雪が止んで晴れ間が見えるだろうか。
気を取り直すべくぐい、とゴフレットの中のワインを呷り、手元の小皿に視線を投げた。
「……そうか。それはいいが、なんだ、こいつは」
「サービスだよ。なんだ随分沈鬱だな。お前みたいな経験の長い凄腕が、どうした?」
からからと笑いながら俺の肩を叩いてくるエフゲニー。そんなに気落ちしているように見えるのだろうか。見えるんだろうな。
「ゴドヴシュキノエ」を一枚つまんで口に放り込みながら、俺はゆるゆると頭を振った。
「なんでもないさ……ちょっと、相手がでかすぎて怖気づいただけだ。サヴォシン、『ギヨー』シャン・ブランを頼む」
「あいよ。ま、分かるよ。何しろ連邦きっての大貴族だからな」
しゃっきりしない様子の俺に苦笑を零して、エフゲニーが冷蔵庫から「ギヨー」の瓶を取り出す。ブランシャス南部のワインである「ギヨー」シャン・ブランは、先程の「ファイアストーン」と異なり古典的でキリリとしたワインだ。鋭い渋味とアルコール感が、俺の舌をほどよく刺激してくれる。
舌の縁に感じるチリチリとしたアルコールの刺激に目を細める俺に、エフゲニーが「ギヨー」に栓をしながら笑う。
「ところでだ、誰が乗り込んだんだ、チェルニャンスキー侯爵様の屋敷に」
「俺だって、号外に載った以上のことは知らないぞ。ええと……」
その問いかけに目を開いて、鞄の中にしまった号外を取り出す俺だ。号外の一面に作戦に参加したエージェントの集合写真と、所属国、フルネームが載っていたはず。折りたたんだ号外を開けば、写真の中央で笑う、先日に酒席を共にしたヤパーナ人がはにかんだ笑みを浮かべていた。
「ヤパーナの特級のサイトウ、ブランシャスの特級のブコー、ルージアの特級のペトロフスカヤが突入班。ルージアの一級のゴンチャロワとポターポフ、イッターラの一級のカッペッリーニ、アマリヤンの一級のアチソンが支援班。この七人らしいな」
「ほーう、アリョーナも参加していたのか」
一人一人の姓を読み上げる俺に、エフゲニーが目を見開く。アリョーナ・ゴンチャロワは俺ともこの店とも馴染みが深い。当然の反応だろう。
再び号外を折りたたみながら、俺は皮肉っぽい笑みを口元に浮かべた。
「俺が情報を掴んでいると聞いたら、すぐに飛んできたぞ。よっぽど関わりたかったらしい」
「はっはっは、まぁそりゃそうだろうな」
俺の言葉に、彼女の人となりをよく知っているエフゲニーが笑う。上昇志向が強く、好奇心旺盛な彼女は、大きな案件に率先して飛びつく。今回の「光の家教会」の案件にも、早い段階で俺に情報を求めに来た。
大きな二重の目をきらきらさせながら俺に情報をせがむ彼女の姿を思い返しながらゴフレットに口を付けていると、エフゲニーが面白そうに口角を持ち上げた。
「いやあ、それにしてもなぁ。ルスラーンも驚いたんじゃないか、収賄に関わっていたのがまさかのゲラーシー殿だとは」
「驚いたに決まっているだろう。長男で、次期当主だぞ。清廉潔白で知られた人だっただけに、まったくノーマークだった。黒い噂も見え隠れする、次男のグレーブ殿が怪しいのでは、と踏んでいたんだが」
ひらひらと手を振りながら、眉間に皺を寄せて返す俺だ。
逮捕されたゲラーシー・チェルニャンスキーはヤノフスキー市の市議を務めると同時に、慈善家としての顔も持つ。市民の貧困を許さない、清廉潔白さを売りに活動していたから、此度の逮捕は驚天動地と言う他なかった。
彼の弟のグレーブは市の商工会と繋がりがあり、賄賂だの圧力だのと黒い噂がちらほら立っていたものだが、世の中分からないものである。
「まったくだ。どうなるかね? お前さんはこのまま、ゲラーシー殿が後継者争いから脱落すると思うか?」
肩をすくめて俺から引き取ったゴフレットを洗うエフゲニーに、真剣な目をして俺は頭を振った。
「しないだろうな。一度の収賄と脱税で貴族の当主の椅子から転がり落ちるほど、この国の上層部は綺麗に出来ちゃいない。数日間臭い飯を食ったら、何でもなかったかのようにまた仕事に戻るだろう」
「はっはっは、お見通しというわけか」
俺が事も無げに言えば、分かっていたと言わんばかりにエフゲニーも笑った。
このご時世、真の意味で清廉潔白な貴族などそうそういはしない。不可解な投資に隠し財産などの黒い金の動きなどまだまだ序の口、エージェントを囲っての暗殺やら密輸やらも常態化しているのが現実だ。
ゲラーシーも今回、金の動きが明るみに出て逮捕されたとはいえ、それでキャリアに瑕がつくかと言えば、まずそれはない。他の連中も往々にしてすねに傷を持っているからだ。
市民もそれを知っているから、多少の収賄程度では何の憤りも起こらない。それでも市民があれやこれやと噂立てして、明るみに出れば号外が配られるのは、
支配者の黒い噂や悪事を市民が噂し、情報屋がエージェントに売り、エージェントがそれを暴いて警察が動き、新聞が市民に知らしめる。対象の貴族はよほどの悪事でなければその後に影響はない。うまく経済が回っているものである。
「ともあれ、だ。チェルニャンスキー家に手が入ったと知られれば、他の連中も明らかに慌てるだろう。次々に逮捕や拘留が出るかもしれないな」
「そうかもしらんね。案外、そろそろ速報がニュースサイトに――」
俺がくい、とゴフレットを傾け、エフゲニーがそれに同調する言葉を発したところで。
鞄の中にしまっていた俺のスマートデバイスが、バイブ音を響かせ始めた。
「ん?」
「おっと、噂をすれば。なんだって?」
ゴフレットを置いて鞄からスマートデバイスを引っ張り出す。画面をオンにすれば、ニュースアプリの速報の通知が画面に出ていた。
その内容を確認する後ろで、アレクセイとイサークも同様にスマートデバイスを手に持ち、口々に声を上げている。
と。
「ん? ……へぇぇ!?」
「はっはっは、こいつは傑作だ! おいルスラーン、お前
アレクセイがすっとんきょうな声を上げると同時に、イサークが高らかな笑い声を上げながら俺の方を見やる。店内の他の客も、スマートデバイスを片手に一斉にざわざわし始めた。
当然だ。号外が出たチェルニャンスキー侯爵家の案件の、比ではないほどでかい事案だ。
俺は苦々しい顔をして頭を抱える。これは間違いなく、どのエージェントが動こうと『
「……ったく、俺がやったわけじゃないってのに」
「なんだ、どうしたんだ?」
「ん」
何事かと目を見開くエフゲニーに、俺はスマートデバイスの画面を見せる。
ニュースアプリの速報記事に記された内容は、こうだ。
『クヴィテラシヴィリ伯爵、薬物取締法違反疑いで逮捕 屋敷の地下に大量に保有』
その文面を読み取ったエフゲニーが、小さく息を呑む。
「こいつは……」
「
あきれ顔をして、俺は別の記事へのリンクをタップする。別のネットニュースにはもう少し詳しい情報が記載されており、踏み込んだエージェントの撮影した隠し倉庫の写真が載っていた。
裸電球の吊るされた薄暗い倉庫。その壁一面にずらりと並べられた棚の上には、新聞紙でくるまれた大きな塊がいくつも並んでいる。かなりの量だ。そして真っ当な物品でないことは、隠し方からして想像に難くない。
「おーおー、こりゃ凄い。ヤクの種類にもよるが、10億セレーは下らないんじゃないか、この量」
「だろうな」
写真をまじまじと見るエフゲニーも、これには驚きを隠せない様子。
そりゃそうだ。賄賂は貴族連中にとっては挨拶みたいなものだし、市民も許容できる範囲ではある。しかし薬物となれば話は違う。明確に、誰に聞いても確実に
俺はもう、やるせなくてしょうがなかった。何しろ友人の実家での話である。
「はぁぁぁ……金銭だの金塊だのならまだしも、ヤクかよ。クヴィテラシヴィリの奴が知ったら何て言うか」
「落ち込むだろうなぁ、グリゴリーも。最悪、クヴィテラシヴィリの家名を名乗れなくなるかもしれんし」
カウンターに突っ伏すように頭を抱える俺に、エフゲニーも困ったような声をかけてくる。
怒るだろうか。それとも怒りを通り越して呆れるだろうか、あの友人は。悲しむことは、きっとしないだろうとは思うけれど。
ぐったりしながら小皿の上の「ゴドヴシュキノエ」を摘まみ上げる俺に背を向けて、エフゲニーは手を伸ばして棚の上のタンブラーを取った。
「で、このヤクの出所は?」
「調査中、だとさ。教会から直接買い付けたか、販路だけ貰って別ルートで買い付けたか、それは知らん。だが、どっさり抱え込んでいたのは確かだ」
クッキーをかじりつつ、俺は平坦な声で返す。
実際、薬物が大量に見つかったこと、クヴィテラシヴィリ伯爵が逮捕されたこと以外の情報は、まだ出ていない。きっと伯爵家に乗り込んだエージェントが、必死になって情報を探している真っ最中だろう。
情報が見つかれば、その薬物の出所も知れてくる。知れればそこから、市民の噂にも上ってくる。
この事件は、一つの終着であると同時に、きっかけに過ぎないのだ。
「こいつはまたまた、お前の仕事が増えそうだな、ルスラーン」
「まったくだよ……勘弁してほしい、ったく」
苦笑を零すエフゲニーにそっけない返事を返しながら、俺は小さく舌を打つ。
まだまだ、仕事で忙しい日々からは解放されそうにない。
いい加減休ませてほしいと思いながら、俺は手の中に残ったクッキーを口に放り込むのだった。
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