第9話 カレーライス
家の中を見て回る。窓を壊す音がしたと思われる部屋を見に行く。まだ説鬼が潜んでいるかもしれないので胸には後生大事にノートパソコンを抱きしめていた。おっかなびっくり普段はあまり使わない部屋に行き電気をつける。蛍光灯の白い光が部屋を照らし出した。
あまり人の出入りがない淀んだ空気と埃っぽい感じがする。カーテンはピタリと閉じられていて外から風が吹き込んでいる様子もない。えいやっと意を決してカーテンをまくり上げたがちゃんとガラスの窓は閉まっており、その外側の木の雨戸にも穴が空いたりしていなかった。
どうやら、あの悪夢のような時間で起きたことは終わってしまえば影響は残らないらしい。いや違うな。ぶつけた額はまだじんわりと痛んでいる。気が付けば全身にびっしょりと冷や汗をかいていた。まずは体をきれいにしたい。
風呂に入って熱いシャワーを浴びると額が痛む。すぐに出て冷凍庫から保冷剤を取り出しタオルに巻いて頭に当てた。ひんやりと気持ちがいい。鉢巻の要領で縛り付けて、夕飯の支度をする。支度と言っても鍋にお湯を沸かしてカレーの缶詰を湯煎するだけ。
風呂に入る前に早炊きでセットしておいた米ができたので、缶詰を取り出して火傷に注意しながら開ける。鉢にご飯をよそって缶詰の中身をかけて出来上がり。特売日に買っているので1缶100円。それなのにチキンも入っている本格的なカレーが食べられる。香辛料が食欲を掻き立てた。
スプーンを手にしたところで呼び鈴が鳴る。なんとタイミングの悪いことか。しつこく連続で響き渡るチャイムの音。紫苑さんだ。僕はインターホンの受話器を取り上げる。液晶の粗い画面に切れ長の目をした女性の姿が映る。
「ちょっと待っててください。すぐに開けますから」
僕は急いで2階に駆けあがる。パジャマ替わりのよれたTシャツとパンツだけの姿なのでこのままでは玄関を開けることができない。翌朝走るために用意していたスウェットの上下を着て階段を駆け下りて玄関のドアを開ける。
「お待たせしました」
「待たされましたわ」
紫苑さんは少々不満気だ。
「若い女性をこんなに待たせるなんて、全く新巻さんはデリカシーが無いんですわね」
「ちょっと忙しかったもので」
紫苑さんは中に入って来ると僕の顔を見て心配そうな表情になる。
「頭をどうかされましたの?」
「ああ。ちょっとテーブルにぶつけただけです。冷やしておけば大丈夫ですよ」
玄関の戸棚から新しいスリッパを出して揃えて置く。
「どうぞ」
「あら。すいません。お邪魔します」
紫苑さんを案内してリビングに入る。
「お食事をするところだったんですね。それは申し訳ありません」
「いえいえ。気になさらずに。あ、紫苑さんも召し上がります?」
「いえ結構ですわ」
紫苑さんは部屋の中をぐるりと見渡す。
「随分派手にやられたんですね」
「分かりますか?」
「ええ。微かに痕跡が残ってますわね」
説鬼が倒れていたあたりを指さす。うえ。凄惨な光景を思い出して胃から胃液が逆流してきた。
「あ。遠慮せずに召し上がってください。食べながらで結構ですから」
僕は一言断って店に行き、コーヒーとクッキーを紫苑さんに出す。
紫苑さんがコーヒーに口を付けたので、僕も少し冷めてしまったカレーにスプーンを入れた。
「色々と伺いたいことがあるんですが、まず最初に連絡先を教えて頂いてもよろしいですか?」
紫苑さんは困った顔をする。
「それは……?」
「あ、いえ。電話番号か、メッセージアプリのIDだけでも」
「私、そういうものは持っておりませんの」
ああ。そんなに僕に教えたくないのか。でも僕も必死だ。
「別に悪用するとかそんなことはしないので教えて頂けませんか?」
紫苑さんはますます困った顔をする。
「お教えしたくないとかそういう事では無くて本当に持っていないのです」
この時代にスマートフォンも持ってないというのだろうか? 僕の顔に不審の念が浮かんだのだろう。
「新巻さんが疑問を持たれるのも当然ですわね。でも本当に持っていないんですもの。信じて頂けませんか?」
こう下手に出られると僕としてもこれ以上食い下がりにくい。ついつい恨めしそうな声になってしまう。
「それなら仕方ありませんが、今日までとても不安だったんですよ」
「でもちゃんと対処できたじゃありませんか」
「それは運良く銃を持った女性が出てきてくれたからで……」
「ほら、大丈夫だったじゃないですか」
「そうかもしれませんが、前回お会いした後にまたすぐ訪問してもらえると思っていたんですよ」
紫苑さんはあらと言った表情をする。
「それほど私に会いたかったと? 奥手なように見えて、そういう口説き文句をおっしゃることが出来るのね」
「いや、そ、そういうわけじゃ」
「冗談ですわ。それじゃ、どうして新巻さまが説鬼に狙われるのかの理由をお教えしましょう」
お、やっと本題に入るのか。それはぜひ聞きたい。身を乗り出す僕に紫苑さんはとんでもないことを言い、口の中のカレーを吹き出しそうになった。
「私がこのノートパソコンをお渡ししたからですわ」
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