34.翌朝の勧誘
「お、おはよー、高村先生」
「……何ですか、島村先生、これは……」
ああ、と島村は混乱している職員室を見渡しながら眉と両手を上げた。
「俺が来た時から、この調子。ま、仕方ないだろうね」
本当は、星形の眼鏡のフレームのことを聞いたのだが、高村はまあいいか、とその答えに納得する。
きっとこのごたごたの中だから、このフレームでも他の教師の誰にも文句を言われていないのだろう。
「それにしても高村先生、君ってほんっとうに不運だね」
「不運?」
「だって今日、君の実習の最後の日なのにさ。たぶん今日は、校長さんも教頭さんも、何も君のためにはできないと思うよ」
南雲の席には、彼女の気配は無い。当然だ。彼はその死体をこの目で見ているのだから。
あれは夢ではなかった。現実だ。
あの後、死体が何処でどうされようと、あそこであったことは、決して夢ではないのだ。
しかしその事実は胸の中に納めた。
あの時、別れを告げた垣内と村雨がどうしたのかも、彼らは知らない。彼は山東と共に、真っ直ぐその足で、駅へと向かったのだ。
全身濡れネズミの彼らを、乗客はじろじろと見たが、彼らにはそんなことはどうでも良かった。
とにかく頭の中の整理をつけることでお互い精一杯だった。車中の会話も、自分が先に出た時の「じゃあ」の一言しか無かった。
「じゃあ」。
「また会おう」とも、「もう会わない」とも取れる言葉。高村はその場では、どちらも選びたくはなかった。
高村は、あえて島村に問いかけた。
「何か、あったんですか?」
判っていて訊ねるというのも、なかなか勇気が要るものだ、と彼は思った。
「んー。何でも、今年度三つ目の『黒い箱』が来たらしい、けどね」
「『黒い箱』、ですか」
「そ」
それ以上言うな、とばかりに島村は本の山の上に置かれた新聞を手にした。
「あ、それから、南雲先生、何か今日、いきなり辞めたってことだから、今日一日だけど、君、担任してくれ、って教頭さんからのメッセージ」
そうか、と高村は気付く。あの二人は、「黒い箱」に南雲を詰めたのだ。だがこんな想像がすぐにできてしまう自分に、高村は一瞬、嫌気がさした。
「ほんっとうに君、不運だよなあ」
しみじみと島村は高村の顔を見る。
「何か、本当に、いきなりですねえ」
「本当にねえ。そうそう、彼女、君の査定もしてたんだよね。普通、こんなこと、無いよねえ」
「……」
「まあでも、化学の授業に関しては、森岡さんと半々だった訳だし。査定の方はちょっと遅れるかもしれないけど、御大がやってくれるんじゃないかなあ」
「だと、いいですが」
高村は力無くうなづいた。
「単位は大切だもんね。俺も昔苦しめられたよ…… あ、そういえば」
星形のフレームが、ぐい、と高村に近づけられる。
「な、何ですか」
「君さ、例の件、ちゃんと考えてみてくれた?」
「れ、例の件?」
何かあったかな、と彼は思わず椅子を退きながら、慌てて考える。島村はそれを見て、露骨に苦笑いを浮かべた。
「やだなー、昨日言ったでしょ。折り紙愛好会連合」
「あ」
忘れてた。高村は思わず声を上げた。慌ててズボンのポケットを探る。
「あ~」
案の定、昨夜濡れに濡れたせいか、折り畳まれた紙はもとの形を留めていなかった。
学校に履いて来られる様なまともなズボンは一着しかない。だから昨夜、慌てて脱水機に入れ、アイロンをかけまくり、なおかつ寝押しして、何とか履いて来られる状態に復元したのだ。
……しかし、中の手紙のことはすっかり頭の中から消え果てていた。
「あーらら。ひどいもんだね。やっぱり、見てなかったんだ」
そう言って、島村はひょい、と形の崩れた手紙をつまみ上げる。
「ま、判ってたけどさ」
そして彼は、めり、とその紙を真ん中から引き裂いた。
「な」
にを、と言いかけて、高村の声は止まった。中から、一枚の薄いプレートが出てきた。
こそっと島村はつぶやく。
「濡れたおかげで、この発信器、壊れちゃったんだよね。まあ、弁償しろ、とは言わないけどさ」
は、発信器? 高村の口は、声にならずにそう動いた。そんなものが。
「そ。結構これねー、精密範囲になればなるほどレベルが高くなるんだからねー」
「はあ」
どう反応していいのか、高村は困った。そしてはっ、と気付く。
「も、もしかして、昨日の電話……」
んー、と星形のフレームの向こうの目が細められる。
「感謝の意があるなら、本日十七時、化学準備室に来て欲しいなあ」
「化学準備室には行きますよ、どっちにしても。森岡先生にご挨拶しなくてはいけないし…… でも、どうして化学……」
「だから、折り紙愛好会連合の勧誘だって、言ったでしょ」
どうやらそれ以上のことは、答えてもらえそうにはないだろう。高村はあきらめた。
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