1.遅刻する実習生と黒い箱
「だーーーーっ!!」
強烈な声が、廊下に響き渡った。
何ごとか、とばかりに事務室の小窓が開けられる。
男の声だった。生徒の誰かだろうか。それとも。だが見渡しても、誰の姿も無い。
いたずらだろうか、と閉められようとする。
「ちょ、ちょっと待って」
小窓を止めようとした手に、事務員は思わず手を止めた。
下から頭が、身体が、ゆっくりと上がってくる。青年だった。それも、やや大きめの紺のスーツを着た。
何処か打ったらしく、痛そうに片目を細めている。だがそれでも何とか、顔を上げた時には笑顔を作っていた。
「す、すいません、ちょっとあの箱に、けつまづいちゃって。何入ってるんですか、ずいぶんがっしりして」
青年が指した先には、大きな黒い箱があった。上には「冷蔵指定」のラベルが添付されている。
「ああ、あれ頼まれたの。何でしょうねえ…… 朝一番で校長から、宅配屋に集荷に来てもらうようにって…… えー…… と、すみません、当校に、何のご用ですか?」
彼女は改めて青年に問いかける。
「え? あ、あの、オレ、あ、すいません、時間、ずいぶん遅れたから、朝礼、もう、終わりました?」
「朝礼?」
彼女は首をかしげた。
「いえ、今日は中止になったけど」
「うーん…… オレのせいかなあ……」
「あなたの? ってあなたは?」
「あ、何度もどうもすいません」
ひょい、と彼は頭を上げ、姿勢を正す。
「オレ、今日から二週間、この学校で教育実習をさせていただくこととなりました、高村と言います!」
「教育実習…… ああ!」
彼女はぽん、と手を叩いた。
「そういえば、今日からだったわね。ねえ、そうでしょう?」
奥の別の事務員に、彼女は問いかけた。ええそうです、と高村の耳にも声が飛び込んできた。
「そうそう、そうだったわ。あー…… でも、朝礼が無いのはあなたのせいじゃあないと思うけど」
「へ?」
彼は眉を大げさに曲げた。
「だって、今の今まであなたが来るとか来ないとか、こっちには全く連絡が無かったもの。忘れていたわ、ごめんなさい」
曲げた眉が、更に間にシワを作る。
「ま、とにかくすぐに、職員室の方へお行きなさいな。ちょうど、この上よ」
彼女は小窓から天井を指した。
「上」
「そこを真っ直ぐ行くと、左に階段があるから。そこを上がって、右側の突き当たり」
「判りました! ありがとう!」
「あああああ、ちょっと待って! スリッパくらい履いて行って!」
上がって右、上がって右……
確かに突き当たりに、職員室はあった。高村はその前で思わずぐっ、と生唾を呑む。二重になった扉はぴったりと閉ざされ、遅れた彼を弾き返しているかの様だった。
しかしここは一発気合いだ。自分に言い聞かせる。一度大きく深呼吸をすると、高村はがらり、と扉を開けた。
途端、空気がざわり、と動いた。中の教師達の視線が一斉に、戸口の彼に集中する。
「誰ですか、あなた」
張りのある、真っ直ぐな姿勢の女性が問いかける。声には、明らかに非難の色が含まれていた。
高村はその声に一瞬気圧される。
「あ、すみません、オレ、今日から教育実習に参加させていただくことになっている、高村といいます」
「高村?」
訝しげな声で彼女はつぶやき、二秒後、ああ、とうなづいた。
「ずいぶんと、遅かった様ですね」
「どうも、すみません!」
彼はその時とばかりに、声を張り上げた。とにかく遅れた事に関しては、自分が悪い、悪いのだ! そんな時には、もう平謝りに徹するに限る!
自分に言い聞かせながら、彼は次の雷に対する心の準備をする。
だが。
「まあ、いいでしょう」
女性の言葉に、彼は思わず目と口をぽかんと開けた。
「どうしました。起きてしまったことは仕方ないでしょう」
「は、はい」
「ただ何の理由であれ、遅れると判っていたなら、連絡の一つは欲しかった所です。以後気をつけて下さい。あなたは実習とは言え、二週間、この西区中等学校後期部の教師ですから!」
「はい」
「声が小さい!」
「は、はい!」
近くに居た茶髪の教師が肩をすくめた。今度は、大きすぎたのではないか、と彼は思った。
「
「はい」
一人の女教師が立ち上がった。
「今回の実習の担当は、あなたでしたね」
「はい。会議終了後、直ちに高村先生を私のクラスに案内いたします」
高村「先生」。いきなりのその呼称に彼は面食らった。
先輩から聞いてはいた。行ったらすぐにそう呼ばれる。そんなことでいちいちびっくりしていたらやっていけないぞ、と。
「あなたに任せます。高村先生、あなたは二週間、南雲先生について実習を行って下さい。判りましたか?」
はい、と今度は初めから大きな声で、彼は答えた。
「と言う訳で、よろしくね」
南雲は出席簿を手に高村に近づくと、左手を差し出した。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「私の担当は化学なの。だから今回、あなたの担当に選ばれたらしいわ」
「化学担当の方は、南雲先生だけなんですか?」
「いいえ、もう一人いらっしゃるけど。森岡先生」
「こちらには」
「ああ、もう姿が見えない。化学準備室の方かしら。私は五年の化学を担当しているの。森岡先生は六年の方。だから今回は私に白羽の矢が立ったようね」
「五年」
「ええ。それと、私の担任しているクラスは五年五組。そう、こっちのHRの方も経験してもらいましょうか」
ふふ、と彼女は笑う。
化粧気の無い顔だったが、白衣にショートカットのその姿には良く似合っている、と高村は思った。
「しかし高村先生? ずいぶんとでかい声だねえ」
先ほど彼の大声に肩をすくめた茶髪の教師が、くるりと椅子を回した。プラチナ色の六角形の眼鏡のフレームが、きらりと光った。
「あ…… すみません、そんなオレ、でかいですか? え…と」
「島村だよ。俺は五年の現代国語を担当してる。まあ時々顔を合わすことになるけど、その時にはもう少し、声のヴォリューム下げてくれる?」
島村は、そう言い捨てると、にやりと笑った。机の上には、古今東西の文学の本が山と積まれている。
「高村先生!」
「は、はい!」
「HRが終わったら、一度職員室に戻って来て下さい。今後の日程についてお話いたします」
先程の女性だった。どなたですか、と高村は南雲に小声で訊ねた。教頭先生よ、と彼女は答えた。教頭!
はい、と高村は再び大きな声で返事をした。
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